第40話 最後の会話
返事は、すぐにはなかった。
扉の下のすきまから、細い明かりが廊下の石に落ちていた。その明かりの中に、私の足もとの影が、動かずに落ちていた。
ここへ来る途中、玄関の広間を通った。大きな扉の脇の、石の床の色が薄いところ。馬車の音がするまで、毎晩私が立っていた場所だ。暗くて、もう見分けはつかなかった。
「入れ」
扉の向こうの声は、ハインツを呼ぶときと同じ高さだった。
書斎は暖かかった。暖炉の火が大きく焚かれていて、閉めきった部屋に、蝋と葡萄酒の匂いがこもっていた。
ジークベルト様は、机に向かっていた。
白い外套は脱いで、椅子の背に掛けてある。濃紺の上着の胸で、銀糸の雪狼が暖炉の火を映していた。うしろへ流した銀髪が、一筋だけ額に落ちている。手もとには、名前の並んだ長い紙。七日後の婚礼に招く客の名簿らしかった。
目は、紙から上がらなかった。
「何だ。ハインツはどうした」
「私です」
ペンが止まった。
ジークベルト様が、顔を上げた。薄い氷の色の瞳が、戸口に立つ私を見た。壁に手をついている私の手袋を見て、それから顔に戻った。
「呼んだ覚えはない」
「はい」
「薔薇のことなら、ヴェロニカから聞いた。泣いていたぞ。それでも、お前をかばっていた。あれほどの女は、どこを探してもいない」
ジークベルト様は、またペンを取った。
「弁解なら、朝にしろ。今夜は忙しい。婚礼の客は二百人を超える。お前が手伝わないぶん、手が足りない」
「弁解に参ったのではありません」
ペン先が、紙の上で止まった。インクが一滴、名簿の余白ににじんだ。
私は、壁から手を離した。
机の前まで、六歩。影は、主の机から六歩離れて立つ。伯爵家で最初に教わった距離だった。床の絨毯が厚くて、足もとが沈んだ。机の縁に手をつかないように、両手を体の前で重ねた。
「聖騎士様」
声は、思ったより落ち着いていた。
「長いあいだ、お世話になりました」
ジークベルト様は、ペンをインク壺に戻した。
「何の話だ」
「ヴェロニカ様とのご婚約、おめでとうございます。七日後のご結婚も」
ジークベルト様の指が、インク壺に差したペンの軸を、一度だけ回した。
暖炉の薪が、崩れて小さく鳴った。
「私は、もう、こちらにご一緒することはできません」
ジークベルト様は、黙っていた。眉尻の古傷が、わずかに動いた。
私は、左手の手袋を外した。
曲がったまま伸びない小指と薬指が、暖炉の明かりに出た。右手で、薬指の付け根の銀の輪をつまんだ。ひと晩でまた細くなった指から、指輪は引っかかりもせずに抜けた。
市場の露店で買った、安物の銀の輪だった。カスパルが木彫りを売り歩いて稼いだお金で、ジーク様が買ってきた。下町の宿の暖炉の前で、曲がった指の節を押さないように、少しずつくぐらせた。
似合わんな、とあの夜ジーク様は言った。もっといいものを買ってやる、とも。
ほかの指輪は、来なかった。
机の上の名簿の脇に、指輪を置いた。
その隣に、糸の束を置いた。黒い紐で一巻きした、白い糸。花が六十ほどあったヴェールの、最後の一本まで。
ジークベルト様の目が、指輪に落ちた。糸の束にも落ちた。それから、私の顔に戻った。
瞳の色は、変わらなかった。
「何の真似だ」
低い声だった。
「子のことを根に持って、私を困らせたいのか」
ジークベルト様は、指輪を指先で弾いた。銀の輪が、名簿の上を転がって、インク壺に当たって止まった。
「婚礼を七日後に控えた夜に、こんな芝居を打つ。ヴェロニカの耳に入ったら、どれほど傷つくと思っている。お前は、いつもそうだ。黙って、哀れっぽい顔をして、私に罪悪感を植えつけようとする」
私は答えなかった。
お腹の子のことは、処置の前に一度だけ言った。袖をつかんで、お医者様を、と頼んだ。言うのは一度でいい。信じてもらえなければ、それまでだった。
ジークベルト様のうしろの窓は、外の闇で黒い鏡になっていた。暖炉の明かりの中に、机に向かう濃紺の肩と、その向こうに立つ灰色のお仕着せの女が映っていた。頬がこけて、顎が尖っている。うなじで結んだ髪がほつれて、耳のまわりに浮いていた。手袋を片方だけはめた女は、窓の中でも、主から六歩の距離に立っていた。
ジークベルト様は椅子の背にもたれた。転がった指輪には、もう触れなかった。
「どこへ行くつもりだ」
答えずにいると、ジークベルト様は短く息を吐いた。鼻で笑ったようにも聞こえた。
「お前に行く場所などないだろう。親もない、家もない、名前さえ私がつけてやった。私のそばを離れて、何ができる。魔核もない体で」
行く場所がないなら、私の影になれ。
七年前、同じ口がそう言った。血と泥の中の私に手を差し伸べた、十八の青年の口が。
「頭が冷えたら戻ってこい」
ジークベルト様は、名簿を引き寄せた。ペンを取った。
「自分の立場をわきまえるなら、お前の居場所はここにある。ヴェロニカと張り合うな。影が、侯爵家の娘と並べるはずがないだろう」
ペン先が、紙の上で止まった。
それから、何でもないことのように続けた。
「婚礼が済んで、ヴェロニカの機嫌がいいときに、私から話してやる。ヴェロニカが許せば、お前のことも、いずれちゃんと妾として迎えてやる。北の棟の、日の当たらない部屋でいいだろう。私が呼んだ夜にだけ来ればいい。昼は、これまでどおり影として働け」
ジークベルト様は、名簿に目を落としたまま言った。
「子が欲しいなら、そのとき産めばいい。今度はヴェロニカの許しを得てからだ。お前は、妾で十分だろう」
十分。
ジークベルト様は、本気でそう思っている。それが、私への情けだと思っている。
ふと、十五の春の、父の執務室が浮かんだ。第六王子の妃か、王弟の妾か。どちらかを選べと言われた日。魔力を搾り取られるだけの器になるのが嫌で、私は、その夜のうちに塔を抜け出した。
あれから七年。
逃げて、逃げて、命を拾われて、主に全部を差し出して。たどり着いた先にあったのが、また、妾の席だった。
喉の奥で、何かが小さく鳴った。笑いそうになったのだと、少し遅れて気づいた。
七年かけて積み上げた情も、愛も、ヴェロニカが屋敷に来てからの三か月で、燃え尽きた。
首飾り。冬の中庭。毒の茶。呪いの人形。踏みつぶされた小鳥。カスパルの処刑命令書に記された、ジークベルト様の署名。ノエラの最期の「ごめんね」。胸から引き抜かれた魔核と、一緒に流れていったお腹の子。
燃え尽きるには、十分すぎた。
好きだった。
焚き火の向こうで、私の作り話に泣いてくれた十八の青年が。私の代わりに泣いてくれた、生まれて初めての人が。その人のためなら、傷も、痛みも、回復核も、私の七年も、全部差し出せた。差し出したことを、一度も惜しいと思わなかった。
下町の隠れ家で、私のスープを「うまいな」と言った人が。悪い夢から覚めて、私の肩に額を預けた人が。暖炉の前で、曲がった指に、そっと指輪をくぐらせてくれた人が。
その人は、もう、どこにもいない。
目の前で名簿にペンを走らせているのは、私に値をつけ、妾の席を差し出して「十分だろう」と言う人だ。
憎いのかと、自分に聞いてみた。
わからなかった。憎むには、まだどこかで、あの焚き火の夜を覚えている。愛するには、もう何も残っていない。胸の奥の、魔核があった場所と同じように、そこは、ただ空っぽだった。
「明日も、同じ時刻に来い」
それだけ言って、ジークベルト様は、ペンを持っていないほうの手を、扉のほうへ軽く振った。もう行け、という仕草だった。犬を追うときと、同じ仕草だった。目は、名簿から上がらなかった。
私は、外した手袋をはめなおした。指輪のない薬指は、布の中で軽かった。
頭を下げた。
影になった日から、何千回もした一礼だった。腰を折って、目を伏せて、主の足もとの床を見る。絨毯の上に、暖炉の明かりが揺れていた。
これが、最後の一礼だった。
顔を上げると、ジークベルト様はもう名簿の上に目を落としていた。指輪と糸の束は、名簿の端に押されて、インク壺の陰に半分隠れていた。
椅子の背に掛かった白い外套で、金の太陽の刺繍が火を映していた。神殿がジークベルト様に加護を認めた日、私はその姿を見ていない。下町の宿の床で、七つの傷を布で押さえていたから。
何も言わずに、背を向けた。
扉までの六歩を、壁に手をつかずに歩いた。
廊下に出ると、燭台の下にハインツが立っていた。葡萄酒の瓶と杯を載せた盆を持っていた。夜ふけに、ジークベルト様が一杯だけ飲む酒だ。いつもは、私が運んでいた。
ハインツは私の顔を見て、何か言いかけた。白い眉の下の目が、手袋の左手に止まった。盆の上で、杯が瓶に触れて小さく鳴った。
私は、頭を下げて通り過ぎた。
背中で、ハインツが書斎の扉を叩く音がした。扉が開いて、閉まりきらなかった。
「旦那様。アマリアが、今」
「放っておけ」
ジークベルト様の声だった。ペンの走る音が、途切れずに続いていた。
「くだらない。意地を張っているだけだ」




