第39話 残り九時間
「それ、いただいてもいいですか」
若い庭師は、手押し車の取っ手を握ったまま、私の指の先を見た。
「石ですか? どうぞ。溝に捨てるだけですから」
石くれの山のいちばん上に、手を伸ばした。
白っぽい、丸い川石だった。今朝、林檎の木の根もとに置いたときより、ずっと冷たかった。片側に、鋤の刃がかすったらしい細い白い筋がついていた。
エプロンの端で、土を拭った。筋は消えなかった。
両手で包んで、胸に当てた。手のひらに収まるくらいの石が、思っていたより重かった。
倒れた林檎の幹から、クロが降りてきて、私の肩にとまった。首すじに、羽の生えそろわない体が押しつけられた。
庭師たちは、もう次の鋤を土に入れていた。
部屋までの廊下は、来たときより長かった。壁に片手をつき、もう片方の手で石を抱えて歩いた。階段の途中で二度、座りこんだ。
「石なんか抱えて、どうしたのかしら」
「とうとう、頭までおかしくなったんじゃない」
すれ違った下働きの娘たちが、振り返って笑った。
部屋に戻って、石を枕もとに置いた。
机の上には、朝のうちに並べたものが、そのままになっていた。鍵束。三冊の帳面。たたんだ影の上着と、鞘に収めた短剣。替えの黒い手袋。その端に、白紙の便箋。
寝台に横になって、石に手を添えたまま、少し眠った。
夕方の鐘で、目が覚めた。
残り九時間。
鐘が鳴りやむより先に、屋敷のどこかで悲鳴が上がった。女の声だった。続いて、いくつもの足音が、広間のほうから廊下を駆けてきた。
扉が叩かれずに開いた。
「この部屋です」
ヴェロニカの侍女が、衛兵を三人連れていた。そのうしろに、淡い金のドレスのヴェロニカ。昼の宴のときのまま、首に真珠をかけていた。さらにそのうしろの廊下には、使用人たちが押しあうように詰めかけていた。
「アマリア」
ヴェロニカは、ハンカチで口もとを押さえていた。目の縁が、赤く濡れていた。
「広間の白い薔薇が、全部、黒くしおれてしまったの。三十本とも、一度に。婚礼の前祝いの、その日のうちに」
声が、途中で詰まった。
「ジークベルトが、私のために集めてくれた薔薇だったのに」
侍女が、手にした一本を差し出した。花びらの縁から、焦げたように黒ずんでいた。茎の根もとに、黒い紐が巻きつけてあった。私が髪を結ぶのに使うのと、同じ紐だった。
「三十本、全部にですのよ。全部に、この紐が」
侍女は、廊下の使用人たちにも見えるように、薔薇を高く掲げた。
「魔女の紐だわ」
「人形のときと同じよ」
「やっぱり、あのとき神殿に突き出しておけば」
廊下のざわめきが、波のように部屋の中へ打ち寄せた。
「七日後の婚礼に、呪いをかけたのね」
ヴェロニカの声が、震えた。
「私がジークベルトと幸せになるのが、そんなに憎いの? 私、あなたに何もしていないのに」
私は寝台から体を起こした。それ以上は、起き上がれなかった。
「探して。ほかにも、何か仕掛けてあるかもしれないわ」
衛兵たちが、部屋に散った。
鏡台の引き出しが抜かれ、中身が床にあけられた。櫛と、針箱と、糸巻き。針が床に散らばって、燭台の明かりに光った。寝台の敷布がはがされ、衣装箱が引っくり返された。
ひとりが、机の上を腕で払った。
鍵束が床に落ちて、輪がはずれた。鍵が一本ずつ、石の床を滑っていった。帳面が三冊、背から割れて開いた。その上を、衛兵の長靴が踏んで通った。食料庫の帳面の頁に、泥の靴跡が斜めについた。
影の上着は、床で衛兵の足に絡まり、蹴られて寝台の下へ入った。短剣が、鞘ごと壁に当たって転がった。
鍵束も帳面も、影の上着も短剣も、この屋敷に来た日に受け取ったものだった。
「ずいぶん、きちんと並べてあったわね」
ヴェロニカが、散らばった鍵を靴の先でつついた。
「逃げる支度? それとも、何かの儀式?」
私は、何も言わなかった。
枕もとの石を、両手で包んで膝にのせた。
「それは何?」
ヴェロニカが、首をかしげた。
「石です」
「石」
ヴェロニカは、少しのあいだ私の手もとを見ていた。それから、口の端だけを上げた。
「お似合いね」
侍女が、くすりと笑った。
「呪いの道具じゃないかしら、ヴェロニカ様。取り上げて、調べたほうが」
侍女の手が、石に伸びた。
私は、石を胸に抱えこんだ。体を丸めて、両腕で覆った。それだけは、渡せなかった。
「まあ、怖い顔」
ヴェロニカが、手をひらひらと振った。
「いいわよ、放っておきなさい。石ころなんか、抱いて寝かせておけばいいわ。似合いの宝物じゃない」
寝台の下から、衛兵が衣装箱を引き出した。錠がかかっていた。
「鍵は」
衛兵長に聞かれて、首から下げていた小さな鍵を外して渡した。
衣装箱の蓋が開けられた。中には、白い紗が一枚たたまれているだけだった。
ヴェロニカが、指でつまみ上げた。紗が広がって、床まで垂れた。縁に、小さな花の刺繍が二つだけ残っていた。ほかは、針の穴が並んでいるだけだった。
「なあに、これ」
ヴェロニカは、紗を明かりに透かした。
「花嫁のヴェール? 誰の婚礼のつもり?」
侍女が笑った。衛兵のひとりも、つられて笑った。廊下の使用人たちにも、笑いが伝わっていった。
「影が、花嫁ですって」
「穴だらけじゃない。似合いのヴェールね」
ヴェロニカは、紗を自分の頭にふわりとかけてみせた。
「どう? ジークベルトの隣に立つ花嫁に、見える?」
それから、笑いながら紗を払い落とした。
ヴェロニカの指がひらいて、紗が床に落ちた。細いかかとが、その上を通って戸口へ戻った。
「何も出てこないなら、今日は許してあげる。婚礼の前に、騒ぎを大きくしたくないもの。ジークベルトには、私からうまく言っておくわ。あなたのために、ね」
黒い薔薇を侍女に渡して、ヴェロニカは出ていった。衛兵が続いた。使用人たちの笑い声が、廊下の向こうへ遠ざかっていった。扉は、開いたままだった。
しばらく、床を見ていた。
それから寝台を下りて、膝をついた。
鍵を一本ずつ拾って、輪に通しなおした。帳面の割れた背を合わせて、重ねた。靴跡は、袖で拭いても落ちなかった。寝台の下に腕を入れて上着を引き出し、たたみなおした。短剣を鞘ごと拾った。手袋は、片方が見つからなかった。
机の上に、もう一度並べた。朝より少しだけ、間隔が狭くなった。
便箋は、床の隅に落ちていた。真ん中に、半分だけ靴跡がついていた。
拾って、机に置いた。
ペン先をインク壺に浸した。ふた月、何を書けばいいのかわからなかった。北の聖ルーエ修道院にいるユリウス様は、もう十七になった。兄上が聖騎士になったこと。迎えに行ける日が、少し先になりそうなこと。ヴェロニカが、屋敷に来たこと。最後に送ったのは、そういう手紙だった。
書きたいことは、たくさんあった。ひとつも、書けなかった。書けば、あの子は兄を憎む。
靴跡を避けて、短く書いた。
『ユリウス様
ノエラも、カスパルも、子も、なくしました。
私は、もう去ります。
どうか、ユリウス様に、幸多からんことを』
自分の名前は書かなかった。書かなくても、ユリウス様にはわかる。
インクが乾くのを待って、小さく折りたたんだ。クロの足に結ぶのは、最後でいい。
床に落ちたヴェールを拾って、膝に広げた。紗の真ん中に、細いかかとの跡が、灰色に残っていた。
残っている花は、二つ。
一つ目の花の、茎の糸の端を爪でつまんだ。引くと、縫い目が順にほどけて、糸が指に巻きついた。花びら、葉、茎。抜いた糸を、膝の上の糸の束に重ねる。
二つ目の花で、指が止まった。
これを抜けば、紗には穴しか残らない。
灯りが、ひとつ揺れた。
あと少しだよ。
誰もいない部屋で、そう聞こえた気がした。軽い、眠たそうな声だった。耳で聞いたのではなかったのかもしれない。
最後の一本を、引いた。
紗は、ただの白い布になった。抜いた糸は、手のひらに収まるくらいの、白い小さな束になった。端を黒い紐で一巻きして、結んだ。
夜が更けていった。
広間のほうで、片づけの音がやんだ。屋敷じゅうの燭台が、ひとつずつ消されていった。一階の奥の書斎の窓だけが、中庭の石畳に四角い明かりを落としていた。
真夜中の鐘が鳴った。
残り三時間。
手袋をはめなおして、糸の束を握った。壁を伝って、階段を下りた。四十歩の廊下を、何度も止まりながら歩いた。
書斎の扉の前に立った。
この屋敷に来てから、私がこの扉を叩いたことは一度もなかった。呼ばれたときに、呼ばれた場所に行く。それが影だった。
私は、扉を叩いた。




