第38話 残り十五時間
正午の鐘が鳴った。
残り十五時間。
広間の長い食卓に、白い薔薇が並んでいた。季節はずれの、三十本。誰がどこの花市で見つけてきたのかは知らない。ノエラが探しに行くはずだった花だった。
客は、四十人ほどだった。神殿の神官たち、王宮の役人、聖騎士の叙任のときに祝いを届けてくれた貴族と商人。半分は、私が一人ずつ門の前で頭を下げて、味方になってもらった人たちだった。葡萄酒を注ぐ私の手袋に、目を留める人はいなかった。
高い窓から冬の陽が射しこみ、銀の燭台と、杯と、女たちの宝石を、いっせいにきらめかせていた。楽師の弦が鳴り、笑い声が天井の梁まで昇っていた。
私は灰色のお仕着せにエプロンをかけて、葡萄酒の瓶を抱えて卓のあいだを回った。
瓶は、いつもの倍ほど重かった。腕に力を入れると、空っぽの胸の奥がきしむ。注ぐたびに、瓶の口が杯の縁でかすかに鳴った。
「この影、例の」
「真珠を盗んだんですって。それも二度」
「毒を盛ったって噂も聞いたわ。よく聖騎士様はお手もとに置いておかれるわね」
「おやさしいのよ、ヴェロニカ様が」
杯を差し出す手の向こうで、扇の陰の囁きが行き交った。私が近づくと、声は止んだ。離れると、また始まった。
上座の中央に、白い外套のジークベルト様。その右隣の、女主人の席に、ヴェロニカ。
淡い金の絹のドレスに、真珠の首飾り。今朝、私の鏡台から出てきたものだ。蜂蜜色の髪を高く結い上げて、内側から光るような頬で、客の一人ひとりに笑いかけていた。
「まあ、ヴェロニカ様。ご病気だったなんて嘘のよう。前よりずっとお美しいわ」
「神様のお恵みですわ。それと、ジークベルトが、手を尽くしてくれたおかげ」
ヴェロニカは恥ずかしそうに、ジークベルト様の腕に頬を寄せた。
葡萄酒が一巡したところで、ジークベルト様が杯を持って立ち上がった。
広間が、静かになった。
「今日は、集まってくれて礼を言う」
短い挨拶だった。ジークベルト様は、隣のヴェロニカに目を落とした。目の色が、ほんの少し濃くなった。
「この屋敷は、ようやく女主人を迎える。ヴェロニカとの婚礼は、七日後に神殿で挙げる」
拍手が起きた。杯が鳴り、楽師が祝いの曲を奏ではじめた。
「いよいよですな」
壁ぎわに近い席で、毛皮の襟の商人が、隣の客に囁いた。
「婚約のお披露目からひと月で、もう婚礼とは。叙任の祝宴のときから、あの席でしたからな」
ヴェロニカが立ち上がって、まつ毛を伏せた。それからジークベルト様の腕に手をかけて、客席に向かってお辞儀をした。
私は、広間の壁ぎわで瓶を抱えていた。
左手の手袋の中で、指輪がまたずれた。曲がった薬指の付け根で、くるりと回る。それを、右手の指で上からそっと押さえた。
下座の端の席で、ラーベン子爵が杯を置いた。伯爵家に古い恩があると言って、貴族で最初に味方になってくれた方だ。子爵は、それきり宴が終わるまで、杯に手を伸ばさなかった。
「アマリア、こちらにもお願い」
ヴェロニカが、甘い声で私を呼んだ。
上座へ回る。女主人の席の背もたれのうしろを通る。
ドレスの裾の下から、細い靴の先が出た。
つまずいた。
瓶が手から離れた。床に落ちて、割れはしなかった。転がりながら、赤い葡萄酒を石の床にまき散らしていく。隣の席の夫人の靴の先に、赤い飛沫がかかった。
楽師の弦が、止まった。
「まあ」
夫人が、扇で口もとを隠した。
「聖騎士様の影って、案外、不器用なのね」
くすくすと、笑い声が広がった。卓の向こうで、若い貴族が杯を掲げてみせた。
「婚礼の前祝いに、赤い葡萄酒の絨毯とは。気が利いている」
笑い声が、大きくなった。
「申し訳ございません」
私は床に膝をついた。エプロンを外して、葡萄酒を拭いた。布はすぐに赤く重くなった。絞る桶もない。何度も同じところを拭いた。膝の下で、葡萄酒がお仕着せにしみこんで、冷たくなっていった。
「見苦しい。早く片づけさせろ」
上座から、ジークベルト様の声がした。ハインツに向けた声だった。
頭の上に、ふわりと香水の匂いが降りてきた。ヴェロニカが、椅子から身をかがめていた。
「ノエラがいたら、手伝ってくれたのにね」
客には聞こえない声だった。
「あ、そうだ。もういないんだった」
顔を上げると、ヴェロニカはもう背を伸ばして、困ったように客席に微笑んでいた。
「ごめんなさいね、皆さま。この子、昨日から少し具合が悪くて。私が無理を言って給仕を頼んだの。許してあげて」
「なんてお心の広い」
「あんな者にまで、お気遣いを」
感嘆の声が、あちこちから上がった。
膝のすぐ前に、夫人の靴があった。その向こうに、ヴェロニカのドレスの裾。その向こうに、白い外套の裾。
白い外套は、一度も動かなかった。
拭きながら、一度だけ顔を上げた。ジークベルト様は、向かいの神官と話していた。銀の前髪の下の横顔が、窓の光を受けていた。
そのまま、宴が終わるまで、あの青い瞳が壁ぎわに来ることはなかった。
新しい瓶を抱えて、私はまた卓のあいだを回った。杯を差し出す客たちは、私の手もとを面白そうに見ていた。また転ぶのを、待っているように。
客が引き上げたあと、私はハインツを探した。
食器室で、ハインツは銀の皿を数えていた。白い眉の下の目が、葡萄酒の染みたエプロンに一度止まった。
「半日だけ、お暇をいただけませんか」
「どちらへ」
「川べりの共同墓地と、北の門の外へ」
ハインツは、皿を数える手を止めた。北の門の外にあるのは、罪人を葬る墓地だけだ。石も立てない、名前も残らない墓地。
ハインツが口を開く前に、うしろで声がした。
「どこへ行くつもりだ」
ジークベルト様が、食器室の戸口に立っていた。白い外套を脱いで、腕にかけている。
「ノエラと、カスパルの墓へ」
ジークベルト様の眉尻の古傷が、動いた。
「罪人の墓に参るのは、聖騎士への反逆だ」
声は、静かだった。
「それに、あの侍女の墓に行って、またヴェロニカを責めるつもりか。今日のような日に。花を手向けて、泣いて、それを誰かに見せて。ヴェロニカがひどい女だと、町じゅうに言いふらすつもりだろう」
私は、何も言わなかった。
「お前のそういうところが、ヴェロニカを怯えさせる。少しは考えろ」
ジークベルト様は、ハインツに顔を向けた。
「ハインツ。門番に言っておけ。今日は、これを外に出すな」
これ、と言った。
「かしこまりました」
ハインツが頭を下げた。ジークベルト様は、外套を腕にかけたまま廊下を戻っていった。ハインツは、しばらく皿を手に持ったまま、動かなかった。銀の縁に、親指の跡が白く曇っていた。
中庭へ出た。
空は晴れて、今朝の雪はもう溶けていた。林檎の木のほうから、鋤が土を打つ音がした。
庭師が三人、塀の際を掘り返していた。古い林檎の木は根もとから倒されて、枝を払われていた。黒い土が、塀に沿って長く掘り起こされている。倒れた幹の上に、クロがとまって、掘り返された土を見下ろしていた。
「何を、しているのですか」
年かさの庭師が、鋤を土に突き立てて、額の汗をぬぐった。
「薔薇園ですよ。ヴェロニカ様のご希望でね。婚礼までに、ここいら一面を白い薔薇にするんだと。今朝いきなり言いつけられて、こっちはてんてこ舞いだ」
「今朝」
「ああ。日の出の少しあとだったかね。侍女さんが、あの林檎の木から始めろって、わざわざ指さして」
日の出の少し前に、私はここにしゃがんでいた。
私は、木の根もとのあった場所を見た。
掘り返された土しかなかった。
残り十二時間。
手押し車が一台、塀の脇に止めてあった。木の根と、割れた鉢と、掘り出された石が積んである。裏の溝に捨てに行くのだと、若い庭師が言った。
その石くれの山のいちばん上に、白っぽい丸い石がひとつ、転がっていた。




