第37話 残り二十一時間
鈴を鳴らしてから、三時間がたった。
壁の向こうの笑い声は、いつのまにか止んでいた。窓の外が、白みはじめている。
夜明け前に胸の奥が冷えて、息が浅くなる。この四年あまり、毎朝そうだった。今朝は、冷えるものが胸に残っていなかった。呪いの黒い糸だけが、空っぽになった場所で、まだかすかに動いていた。
残り二十一時間。
扉が叩かれた。返事を待たずに開いた。
「ヴェロニカ様がお呼びです」
ヴェロニカの侍女だった。
寝台から足を下ろした。床についた足に、体の重さが乗らない。膝が折れて、寝台の端にしがみついた。
「あら、まあ」
侍女は、戸口に寄りかかったまま眺めていた。
「歩けないのでしたら、お断りしておきますけど。ヴェロニカ様のお呼び出しを、影が断ったって。聖騎士様が何とおっしゃるかしら」
「行きます」
壁に手をついて、廊下に出た。隣の扉までの、十歩もない距離。壁の漆喰が、手袋ごしに冷たかった。三度、立ち止まった。
廊下の先で、下働きの娘が二人、水桶を下げたまま足を止めていた。
「見て。這ってるみたい」
「魔核を取られると、ああなるのね。いい気味」
くすくす笑いが、私の背中に貼りついた。
ジークベルト様の寝室は、暖炉の火で暑いくらいだった。
天蓋の寝台に、ヴェロニカが体を起こして座っていた。ジークベルト様の姿はなかった。夜明けの祈りに、神殿へ出かけたのだと侍女が言った。
「下がっていいわ」
侍女が扉を閉めた。
ヴェロニカの肌が、内側から光っていた。蜂蜜色の髪に艶が戻り、頬には薄く紅がさしている。処置の前まで灰のように白かった人と、同じ顔には見えなかった。
「来てくれたのね。お礼をしなきゃと思って」
ヴェロニカは、枕もとの燭台に指先を向けた。
芯に、火がともった。
ろうそくの炎ではなかった。白く澄んだ、小さな光の玉。下町の隠れ家で、夜中に繕いものをするとき、私が指先にともしていたのと同じ灯だった。
「見て。こんなにきれいに灯るの。あなたの魔力」
ヴェロニカは光の玉を、指で軽くはじいた。光は天蓋の下を一周して、消えた。もう一度ともして、また消した。おもちゃを試す子どものように、何度も。
「あなたが持ってるより、似合うと思わない?」
枕もとの銀の手鏡を取って、自分の顔を映す。頬に指を当てて、角度を変えて、何度も眺めた。
「肌まで、こんなになるのね。もっと早くもらえばよかった。処置の夜、ジークベルトがずっと手を握っててくれたのよ。朝まで。あなたの部屋の扉、ずっと開いてたでしょう。見えてた?」
口の端だけが、上がった。
「体、軽くなったでしょう。いろいろと」
私は、何も答えなかった。
ヴェロニカの若葉色の目が、私のお腹のあたりで一度止まって、また私の顔に戻った。
「オルバンが、真っ青な顔して何か言いかけてたわ。聞かなかったけど。聞いたら、私まで寝覚めが悪くなるもの」
手鏡を伏せた。
「でも、よかったじゃない。影の子なんて、生まれてきたって、どうせまた影よ」
膝の裏が、冷たくなった。
それでも、私は何も言わなかった。言えば、ヴェロニカは喜ぶ。
「もういいわ。顔色が悪い人を見てると、こっちまで具合が悪くなりそう」
廊下に出て、扉が閉まると、膝がまた折れた。私は壁にもたれて、しばらく床に座っていた。
階下から、槌の音が聞こえてきた。広間の飾りの台を組む音だ。夜も明けきらないうちから、誰かが何かを急いでいた。
中庭に下りたのは、日が昇る少し前だった。
夜のあいだに降った雪が、植えこみの上に薄く残っていた。息が白い。塀に沿って歩き、いつも手を当てていた石の前で止まった。
手袋を外して、石に触れた。
注ぐものは、もう何もなかった。それでも石は、まだかすかに温かかった。ゆうべの分の魔力は、注げていない。これまでの分が残っているうちは、もつだろう。二日か、三日。
クロが、どこからか飛んできて、私の肩にとまった。羽の生えそろわない黒い体が、首すじに触れて温かかった。
庭の隅に、葉を落とした古い林檎の木がある。塀と木の根のあいだの、雪の溶けた小さな地面。
小道の脇で、丸い石をひとつ拾った。手のひらに収まるくらいの、白っぽい川石だった。それを林檎の木の根もとに置いた。ここなら、庭師もめったに来ない。
名前は、つけなかった。つける前に、いなくなってしまった。
しばらく、その前にしゃがんでいた。指で石の上の土を払った。
春になったら、この木に花が咲く。白くて、小さな花。あなたにも、見せたかった。
心の中で、それだけ言った。それから立ち上がった。薄い雪の上に、膝の跡が二つ残った。
部屋に戻って、机の上を片づけた。
かわりに、返すものを並べた。屋敷の鍵の束。食料庫と酒蔵と宝物庫の帳面。影の上着と、短剣。替えの黒い手袋。どれも、この屋敷に来た日に受け取ったものだ。
机の端に、便箋が一枚残っていた。北の修道院にいるユリウス様への手紙は、ふた月前から書けていなかった。ペンを取って、インク壺に浸して、何も書かずに置いた。
寝台の下の衣装箱にしまったヴェールには、縁の花が、もう二つしか残っていなかった。
鏡台の前を通ったとき、鏡の中の自分と目が合った。頬がこけ、唇が白い。うなじの結び目からほつれた髪を、指で梳いた。黒い髪が、また何本も指に絡んで抜けた。
左手の手袋の中で、指輪がずれた。曲がった薬指の付け根で、銀の輪がくるりと回った。ひと晩で、指まで細くなったらしかった。指輪は、まだ外さなかった。
廊下に、足音がした。三人分。そのうしろに、もっと多くの、忍び足。
扉が開いて、ヴェロニカの侍女が入ってきた。そのうしろに、ジークベルト様と、その腕にもたれたヴェロニカ。白い外套に、朝の神殿の香の匂いが残っていた。胸の金の太陽が、廊下の燭台の明かりで鈍く光った。開いた扉の向こうに、使用人たちの顔がいくつも並んでいた。
「ヴェロニカ様の真珠が、また見当たらないのです」
侍女は、胸に手を当てて、悲しそうに首を振った。
「朝、お召し替えのときには、たしかにあったのに。まさかとは思いますけれど、念のため」
侍女は、部屋の中を見回しもせずに、まっすぐ鏡台に向かった。二段目の引き出しを開けた。
「まあ」
ひと連なりの真珠が、侍女の指から垂れ下がった。
「また、ここに」
戸口で、誰かが吹き出した。
「二度目よ、二度目」
「魔核を取られても、手癖は治らないのね」
ジークベルト様は、それを見た。それから、机の上に並んだ鍵束と帳面と短剣を見た。
最後に、私を見た。目は、私の顔ではなく、肩のあたりで止まった。
「懲りないな」
それだけだった。
罰も、問いただす言葉もなかった。罰を与えるほどの値打ちも、もう私にはないようだった。
窓の外で、朝の鐘が鳴った。
残り十八時間。
ヴェロニカが、ジークベルト様の腕にもたれたまま、首をかしげた。
「いいのよ、ジークベルト。今日はおめでたい日だもの」
真珠の首飾りを、侍女から受け取って、自分の首にかける。
「ねえ、アマリア」
甘い声だった。
「今日のお昼の婚礼の前祝いの宴、あなたが給仕してね」




