第36話 魔核
ノエラの棺は、夜明けに裏門から出ていった。
飾りのない松の棺だった。荷車に乗せられ、川べりの共同墓地へ運ばれる。身寄りのない使用人は、そこに葬られる決まりだった。
見送ったのは、私と、ハインツと、下働きの娘が二人。
荷車の轍が、薄く積もった雪に二本の線を引いていった。角を曲がって見えなくなるまで、私は門の脇に立っていた。ハインツが、門を閉める前に帽子を胸に当てて、誰もいない通りに一礼した。
二階の窓は、どれもカーテンが引かれたままだった。
昼過ぎから、隣の部屋が騒がしくなった。
ジークベルト様の寝室だ。私の部屋とは、壁一枚と、使われていない内扉ひとつで隔てられている。その寝室に、客間からヴェロニカの寝台が運びこまれた。神殿の下働きたちが、銀の盥や布の束を抱えて、廊下を何度も行き来した。
魔核は、体から出すと、すぐに冷えて力を失う。だから差し出す者と受け取る者を、なるべく近くに寝かせるのだと、廊下でオルバンが話しているのが聞こえた。
「枯れかけた魔核を立て直すには、並外れて強い魔核が要ります。並の魔核を移しても、また枯れるだけです」
廊下の向こうで、使用人たちが囁いていた。
「影の魔核を、ヴェロニカ様に?」
「いいじゃない。毒を盛った罪滅ぼしよ」
「命が助かるだけ、ありがたいと思わなきゃ」
差し出す者が誰なのかは、まだ誰も私に言いに来なかった。言いに来なくても、屋敷じゅうが知っていた。
人形が見つかった夜から、ヴェールの花は、毎晩いくつもほどいてきた。
日が暮れて、燭台に火を入れたころ、扉が開いた。
ジークベルト様だった。
白い外套は着ていなかった。濃紺の上着の襟が少し乱れていて、銀の前髪が一筋、額に落ちていた。昨夜は眠っていないのかもしれなかった。
「お前の魔核を、ヴェロニカに渡せ」
戸口に立ったまま、そう言った。頼む声ではなかった。いつも朝の書斎で、その日の予定を告げるのと同じ声だった。
回復核は、もうない。四年前、魔塔の地下で姉に渡した。私の胸に残っているのは、魔核ひとつだけだ。
それを取られたら、どうなるのかは知っていた。新しい魔力は、もう生まれない。体に残っている魔力が、私の最期の魔力になる。それを使い切ったら、あとは、ゆるやかに死んでいくだけだ。回復核があれば、少しは持ちこたえられたかもしれない。
影として学んだことではなかった。塔にいたころ、器の娘として、何度も教えこまれたことだ。
そして、もうひとつ知っていた。魔核を抜かれた母親の体は、腹の子を養えない。
「やめてください」
声が、勝手に出ていた。
「どうか。どうか、それだけは」
床に膝をついた。額を、冷たい板につけた。影が主の命令に逆らうのは、初めてだった。
「聖騎士様が牢におられたとき、毎日、食べ物をお運びしました。薬も、毛布も。北の門の衛兵の交代も、牢番の癖も、全部調べて。あのころのことを、どうか、思い出してください」
顔を上げたとき、頬が濡れていた。
ジークベルト様の前で泣いたのは、初めてだった。森で拾われた夜でさえ、泣かなかったのに。一度こぼれたら、止まらなかった。七年ぶんの涙が、板の上に落ちていった。
ジークベルト様の顔が、変わった。
眉の古傷が、ぴくりと跳ねた。薄い氷の色の瞳が、見る間に濃くなった。怒りの色だった。
「恩を着せるつもりか」
低い声が、震えていた。
「お前じゃない。あの牢で、私に食べ物を届けさせたのは、ヴェロニカだ。父親に逆らえず、婚約を取り消しに来るしかなかったあの日でさえ、ヴェロニカは、牢番に金を置いていってくれた。家族をすべて失って、明日首を落とされるかもしれない夜に、私に生きる望みをくれたのは、ヴェロニカだ」
ジークベルト様は、一歩、部屋の中へ踏みこんだ。
「それを、お前が横から盗むのか。ヴェロニカが死にかけている、この夜に。泣けば私が折れると思ったか。影の涙など、何の値打ちもない」
私は、何も言えなかった。
「お前は影だ。主のそばにいるのは、影の務めだろう。それを、今さら恩だと言うのか。務めを果たしただけの者が、褒美をねだるな」
ジークベルト様は、長く息を吐いた。それから、少しだけ声をやわらげた。商人が値を切り出すときのような、やわらかさだった。
「魔核さえ渡せば、お前には、どんな形でも償いはする。金でも、屋敷でも。金貨なら千枚。北のどこかに、小さな家をつけてもいい。影の身には、過ぎた額だろう。一生、困らないようにしてやる」
償い。
その言葉が、胸の奥の、まだそこにある魔核に、冷たく落ちた。
ジークベルト様は、私に、値をつけようとしている。
金貨千枚と、小さな家。それが、七年の値段だった。
ああ、と思った。
これは、報いなのだ。好きになってはいけない人を、好きになってしまった報い。影のくせに、主の隣を望んでしまった報い。
私は立ち上がった。
「ジーク様」
冬の中庭に立たされた日から、その名を口にしたことはなかった。
ジークベルト様の眉が、わずかに寄った。
「お腹に、あなたの子がいます」
燭台の炎が、ひとつ揺れた。
「避妊の薬は飲ませていたはずだ。子などできるはずがない」
「ですが、本当に」
私は、ジークベルト様の袖をつかんだ。
影が主の服に触れるなど、許されないことだった。濃紺の布地の下で、腕が固くなるのがわかった。
それでも、離せなかった。
「お医者様に、今ここで診ていただければわかります。どうか。移植をしたら、この子は死にます」
ジークベルト様は、袖をつかむ私の手を見下ろした。
私の黒い手袋の指を、袖から一本ずつ外していった。人さし指。中指。曲がったまま伸びない薬指と小指は、外すまでもなく、布から離れた。
薄い氷の色の瞳は、少しも濃くならなかった。
「気のせいか、嘘だ。どちらでもいい。処置は今夜だ」
ジークベルト様は背を向けた。
戸口で、一度だけ足を止めた。
「衛兵を二人、扉の前に立たせておく。窓の下にもだ。逃げようなどと考えるな。ヴェロニカの命がかかっている」
扉が閉まり、廊下で衛兵に何か言う声がした。それから、隣の寝室の扉が開いて、閉じた。
壁の向こうから、低い声が聞こえた。
「明日の朝には、楽になる。もう少しの辛抱だ」
「ほんとう? あの子、嫌がってなかった?」
か細い、甘えるような声だった。
「お前が気にすることではない。あれは、影だ」
さっき私に向けたのと同じ口から出たとは思えない、やわらかい声だった。
医師は、呼ばれなかった。
もう薬は飲まなくていい。あの夜そう言ったのは、あなただったのに。
窓を開けた。
冷たい風が、燭台の炎を倒した。中庭の雪の上に、衛兵が二人立っていた。その向こうに、屋敷を囲む塀がある。毎晩、私が手を当てて魔力を注いできた石の塀。
以前の私なら、あの塀を越えられた。今の膝では、窓の下の庇までも降りられない。
窓を閉めて、寝台に腰を下ろした。お腹の上で、手袋の両手を重ねた。
引き出しの奥に、銀の鈴がある。
手は、そこへは伸びなかった。鈴を鳴らせば、女神様は来てくれる。けれど、この世を離れる扉の向こうへ、この子も一緒に連れていけるのかどうか、私は知らなかった。
「ごめんね」
お腹に、そう言った。ノエラが最後に言ったのと、同じ言葉だった。
夜が更けて、扉が叩かれた。
オルバンと、白い頭巾の下働きが二人。細い木の台が運びこまれ、部屋の真ん中に据えられた。内扉の閂が外された。
古い蝶番が、長く、低く鳴いた。
開いた内扉の向こうに、ジークベルト様の寝室が見えた。暖炉が赤々と燃え、香が焚かれていた。天蓋の下に、ヴェロニカが目を閉じて横たわっている。その枕元の椅子に、銀色の頭がうつむいていた。ヴェロニカの白い手を、両手で包んでいた。
ジークベルト様は、こちらを見なかった。
私の部屋の暖炉には、火が入っていなかった。こちらの床は、氷のように冷たかった。一枚の扉を境に、暖かい部屋と、冷たい部屋があった。
台の上に寝かされた。背中の鞭の痕が、木の板に当たって痛んだ。
オルバンが、私のお仕着せの胸もとをくつろげた。その手が、胸からお腹の上へ下りかけて、止まった。
オルバンの目が、一瞬だけ、私のお腹に落ちた。
手は、何もなかったように胸の上へ戻った。
窓の外の庇に、黒い小さな影がうずくまっていた。クロだった。ガラスの向こうから、羽をふくらませて、こちらを見ていた。
外では、いつのまにか風が強くなっていた。窓枠が鳴り、雪が横なぐりにガラスを叩いた。
オルバンの低い声が、祈りの言葉を唱えはじめた。神殿の古い言葉で、意味はわからない。下働きの二人が、それに声を重ねた。三つの声が、天井の低い部屋に満ちて、耳の奥で唸った。下働きのひとりが、私の胸の上に、銀の皿を置いた。
冷たかった。
冷たさが、皿の形のまま、胸の奥へ沈んでいく。そこで静かに脈打っていた温かいものに、誰かが指をかけた。引き抜かれていく。糸巻きから糸が抜けていくように、少しずつ、少しずつ。
痛みは、思っていたほどではなかった。ただ、寒かった。指先から、つま先から、温度が胸の一点へ吸い寄せられて、そこから出ていった。燭台の炎が、一本、また一本と細くなった。私の吐く息が、白くなった。
隣の部屋で、ヴェロニカが小さく息を吸う音がした。
「あったかい」
夢を見ているような声だった。
「ジークベルト、あったかいの」
お腹の奥で、何かがほどけた。
声を出そうとして、出なかった。両手を動かそうとして、動かなかった。
祈りの声が、途切れた。
「……胎児が」
オルバンの、ひとりごとのような声だった。
すぐに、祈りの続きが始まった。前よりも、少しだけ早口だった。
燭台の明かりが遠くなる。内扉の向こうの銀色の頭が、ぼやけて、見えなくなった。庇の上で、クロが一度だけ、ガラスをくちばしで打った。
それから、長いあいだ、何もなかった。
目を覚ましたとき、胸の奥が空っぽだった。




