第35話 ノエラ
階段を駆け下りる途中で、乾いた破裂音がした。
薪がはぜる音に似ていた。けれど、もっと鋭い。踊り場の窓ガラスが、青白く一度だけ光った。焦げた毛織物の匂いが、下から上がってきた。
踊り場から、廊下が見えた。
床に、銀の盆が転がっていた。砕けた茶碗と、散らばった焼き菓子。こぼれた茶が、石の床に細い筋を引いている。
その真ん中に、ノエラが膝をついていた。
ヴェロニカが、ノエラを見下ろして立っていた。淡い水色のドレスの裾に、茶色い染みが三つ。小指の爪ほどの大きさだった。
「見なさいよ、これ。仕立てたばかりなのよ。ジークベルトが、私のために選んでくれた絹なの。侍女頭のくせに、前も見て歩けないの?」
ヴェロニカの右手に、黒い革の鞭が握られていた。柄に銀の金具が巻いてある。うしろに控えた侍女が、空になった両手を胸の前で組んでいた。
雷鞭だった。打つたびに稲妻の魔力が走る鞭で、貴族の屋敷では使用人の罰に使われる。本来は、痛みで懲らしめるための道具だ。けれど込める魔力が強ければ、人の心臓を止めることもできる。
廊下の両端に、使用人たちが集まりはじめていた。誰も、近づこうとはしなかった。
「申し訳ございません、ヴェロニカ様。申し訳ございません」
ノエラは額を床につけていた。
「一度目で、許してあげようと思ったのに」
ヴェロニカは、鞭の柄を握りなおした。柄の金具が、ぼうっと青く光りはじめた。
「やめて」
私の声と、二度目の音が重なった。
ノエラの背中で、青白い光が弾けた。侍女頭の黒い服の背が、細く裂けた。ノエラは声を上げなかった。床についた手が、震えながら体を支えていた。
私は残りの段を飛び下りた。千段の石段で傷めた膝が、着地で鳴った。
間に合わなかった。
三度目の光が、廊下の燭台の炎を横へなびかせた。雷鳴のような音が、石の壁から壁へ跳ね返った。下働きの娘が、悲鳴をあげて耳をふさいだ。
ノエラの体が、前に倒れた。
抱き起こしたとき、ノエラの体はまだ温かかった。焦げた匂いが、栗色の髪からした。そばかすの頬は、驚くほど白かった。
「ノエラ」
目が、薄く開いた。
私の顔ではなく、もう少し下を見ていた。お腹のあたりを。
唇が動いた。
声は出なかった。それでも、わかった。ごめんね、と言っていた。
「謝らないで。ノエラ、こっちを見て」
ノエラの右手が、私の手首を探して、途中で落ちた。中指の、乾いたインクの染みが、私の袖口に触れた。
ノエラの胸に手を当てた。回復核があれば、と思った。四年前、魔塔で姉に渡してしまった。今の私の胸には、人を癒やす力が、もうどこにもない。
手のひらの下で、ノエラの心臓は、もう動いていなかった。
それきり、ノエラは動かなかった。
ノエラが最後に見ていた場所に、私は片手を当てた。ノエラは、この子のことを伝えに行く途中だった。書斎の扉までは、廊下をあと二十歩ほどだった。
頭の上で、ヴェロニカが小さく息を吐いた。
「あら。もう?」
つまらなそうな声だった。私にしか聞こえない大きさの。
書斎の扉が開いた。
「何の騒ぎだ」
ジークベルト様だった。濃紺の上着の胸で、銀の雪狼が燭台の明かりを映していた。
ヴェロニカの手から、雷鞭が床に落ちた。
落ちた、というより、放り出すように見えた。汚いものから手を離すように。
次の瞬間、ヴェロニカはジークベルト様の胸に飛びこんでいた。肩を震わせ、蜂蜜色の髪を濃紺の上着に押しつけて泣いた。廊下じゅうに響く、子どものような泣き声だった。
「ジークベルト、ジークベルト、どうしよう。私、私」
「落ち着け。何があった」
「この人が、私にお茶をかけたの。熱くて、怖くて。だから、少しだけ、こらしめるつもりで」
しゃくり上げる声が、廊下に響いた。涙が、次から次へと白い頬を落ちていった。
「こんなに強い罰だなんて、知らなかったの」
ジークベルト様は、ヴェロニカの背に手を回した。それから、床の上の私とノエラを見下ろした。
左の眉尻の古傷が、わずかに動いた。
それだけだった。
ノエラは、隠れ家で、ジークベルト様の焦がしたかゆを、泣きながら全部食べた人だった。罪人の服を、文句ひとつ言わずに洗ってくれた人だった。熱の夜は、寝ずに看病してくれた人だった。
「かわいそうに。ヴェロニカ様、震えておられるわ」
「熱いお茶をかけられたんですもの。無理もないわ」
「ノエラさんも、運が悪かったのよ」
廊下の端で、囁きが交わされた。ノエラの名を呼んで泣く者は、ひとりもいなかった。
私は、ノエラを抱いたまま顔を上げた。
「ノエラは、わざと殺されました」
一度だけ、言った。
ヴェロニカの泣き声が、高くなった。
「ひどい。私が、わざとだなんて。ジークベルト、私、そんな女じゃないわ。知ってるでしょう」
ジークベルト様の手が、ヴェロニカの髪を撫でた。
「事故だ」
薄い氷の色の瞳が、私の上を通り過ぎた。
「ヴェロニカも悔やんでいる。これ以上騒ぐな。侍女ひとりのことで、ヴェロニカをこれ以上泣かせるつもりか」
侍女ひとり。
ジークベルト様はヴェロニカの肩を抱いて、客間のほうへ歩いていった。
ヴェロニカの泣き声は、廊下の角を曲がる前に、ぴたりと止んだ。ジークベルト様の肩ごしに、若葉色の目がこちらを振り返った。濡れた睫毛の下で、目だけが乾いていた。
ヴェロニカの侍女が、床に膝をついて、散らばった焼き菓子を前掛けに拾い集めていた。それから雷鞭を拾って、あとを追った。
誰も、何も咎めなかった。
夕方まで、私はノエラのそばにいた。
使用人棟の小さな礼拝室に、ノエラは寝かされた。顔を拭いて、髪を梳いて、いつものようにきっちりと結い上げた。腰の鍵束を外して、胸の上で手を組ませた。鍵束は、ハインツが黙って受け取っていった。
焦げた背中は、見なかった。見なくても、知っていた。
盥の水を替えに来た下働きの娘が、戸口で小さな声で教えてくれた。階段の下で、ノエラさんの肩がヴェロニカ様の袖にすれ違いざまに触れた。盆が傾いて、お茶が数滴、ドレスにかかった。それだけだった、と。
「ノエラさん、すぐに膝をついて謝ったんです。何度も。それなのに、ヴェロニカ様、侍女さんに鞭を持ってこさせて」
娘は、それ以上言えずに走っていった。
礼拝室の小さな窓の格子に、クロがとまっていた。日が傾いていくあいだ、一度も鳴かなかった。広間のほうから、宴の飾りの台を組む槌の音が、まだ続いていた。
日が沈むころ、廊下が騒がしくなった。
駆けていく足音。誰かが医師を呼べと叫ぶ声。ハインツが、礼拝室の戸口に顔を出した。
「アマリア。客間へ来なさい。ヴェロニカ様が、お倒れになった」
客間の寝台で、ヴェロニカは目を閉じていた。
顔が、灰のように白かった。蜂蜜色の髪が、枕の上で乱れていた。ジークベルト様が寝台の脇に膝をつき、その手を握っていた。
「ヴェロニカ。目を開けろ。ヴェロニカ」
聞いたことのない声だった。ノエラの亡骸の前では、眉ひとつ動かさなかった人の声だった。
呼ばれてきたのは、医師ではなく、白い法衣の神官だった。神官オルバン。神殿で、魔核や回復核の処置を受け持つ人だと聞いていた。
オルバンは、ヴェロニカの胸に手のひらを当てて、長いあいだ目を閉じていた。
「魔核が、枯れかけております」
魔核が枯れる病。胸の奥の魔核が少しずつ力を失い、魔力が生まれなくなっていく病だ。進めば、命も一緒に細っていく。
「治せるのか。金ならいくらでも出す。何でも言え」
ジークベルト様の声が、かすれていた。
オルバンは目を開けた。
「助かる道は、ひとつだけです」
法衣の袖が持ち上がった。指の先が、戸口に立つ私に向いた。
「あの者の魔核です。この屋敷で、あれほど強い魔核を持つ者は、ほかにおりません」
私は、顔を上げた。
私の魔核の強さを、オルバンは、どこで知ったのだろう。影の魔力など、誰も気にとめたことはないはずだった。
オルバンは、私の目を見なかった。
寝台の脇で、ジークベルト様が、ゆっくりと振り返った。
薄い氷の色の瞳が、私の顔ではなく、私の胸のあたりで止まった。品物を、見る目だった。




