第34話 身ごもる
産婆の家は、麦わら亭の裏の路地にあった。
隠れ家にいたころ、ノエラが風邪で寝込んだときに、煎じ薬を分けてくれたおばあさんだ。戸口に干した薬草の匂いが、二年半前と同じだった。
朝のうちに、ノエラがハインツに話を通してくれた。侍女頭と影が、宴の飾りの白い薔薇を探しに下町の花市へ行く。ハインツは帳面から顔を上げずに、「昼までに戻りなさい」とだけ言った。
門を出るとき、ヴェロニカの侍女が玄関の階段から私たちを見下ろしていた。
「あら、お出かけ? 魔女さんが外を歩いて大丈夫かしら。町の人に石を投げられないといいわね」
ノエラが、私の腕を取って足を速めた。
産婆は、私を寝台に寝かせて、腹に耳をつけた。それから、乾いた指で、下腹の上を何度か押した。冬の路地から入ってきたばかりの、冷たい指だった。
「三月だね」
あっさりした声だった。
「ちゃんといるよ。小さいけどね。しがみついてる。しぶとい子だ」
私は、天井の梁を見ていた。煤で黒くなった梁に、干した薬草の束がいくつも下がっている。
三月。
指を折って数えた。数えるまでもなかった。
モルゲンロート侯爵家が裁かれた夜。神前決闘のあと、王の前の再審で、ジーク様の無実が晴れた日。下町の宿の、灯を消した部屋で、ジーク様は私を抱きしめて言った。これで、お前と結婚できる。もう薬は飲まなくていい。
あの夜から、私は苦い薬湯を煎じていない。
産婆が、私のお仕着せの裾を戻そうとして、手を止めた。背中の布の下から、包帯がのぞいていた。
「この背中、どうしたんだい」
答えずにいると、産婆は包帯の端を少しだけめくって、すぐに戻した。
「これだけ打たれて、よく流れなかったもんだ。誰がやったか知らないが、そいつは地獄に落ちるよ」
七日間の地下牢を思った。壁に両手をつかされていたとき、この子はもう、ここにいた。
お腹に、手を当てた。
まだ何も感じない。平らなままの腹だった。それでも、手を離せなかった。
うれしいのかどうか、自分でもわからなかった。わかったのは、この手をどけたくない、ということだけだった。
産婆の家の壁に、ひびの入った小さな鏡が掛けてあった。
寝台から起き上がるとき、そこに私が映った。頬がこけて、顎の線が尖っている。唇には色がなかった。うなじで結んだ黒髪は艶をなくして、ほつれた毛が何本も耳のまわりに浮いていた。
この顔で、母親になる。
「滋養のあるものを食べな。重いものは持つんじゃないよ。それから、冷やさないこと」
産婆は、戸口で私の外套の前をかき合わせてくれた。
「父親は、知ってるのかい」
ノエラが、私より先に首を振った。産婆はそれ以上聞かずに、干した薬草をひと束、ノエラの籠に入れた。
「何かあったら、また来な。夜中でもいいよ」
帰り道、ノエラは一度も口をきかなかった。私の手を握って、人混みの中を歩いた。花市には寄らなかった。白い薔薇は、どこにも売っていなかったことにする、とだけ言った。
麦わら亭の前を通った。
二階のいちばん奥の窓に、知らない人の洗濯物が干してあった。裏口の石段は、前より少し欠けていた。毎朝、カスパルが黒パンを抱えて駆け上がっていった石段だ。
ノエラの手に、力がこもった。私たちは、立ち止まらずに通り過ぎた。
屋敷の門をくぐると、広間のほうから槌の音がした。宴の飾りの台を組んでいるらしい。銀の燭台が何十も廊下に並べられ、下働きの娘たちが一本ずつ磨いていた。
何の宴なのか、誰も私には言わなかった。
燭台を磨いている娘のひとりに尋ねると、娘は布を持つ手を止めて、困ったように笑った。
「ヴェロニカ様の侍女さんが、アマリアさんには言わなくていいって」
隣の娘が、肘でつついた。
「言っちゃだめよ。魔女に教えたら、宴に呪いをかけられるって」
二人は顔を見合わせて、くすくす笑った。それきり、燭台の脚の溝に布を押しこむことに熱心になった。
部屋に戻ると、ノエラは扉を閉めて、私の前に立った。
「聖騎士様に、私から伝える」
「ノエラ」
「今のあなたの言葉は、きっと届かない。あなたが何を言っても、あの方は、また何か企んでいると思うだけ」
ノエラは、私の両手を取った。左手の手袋の上から、曲がった薬指を親指でなぞった。手袋の下に指輪があるのを知っているのは、この屋敷でノエラだけだ。
「でも、私の言うことなら、少しは聞いてくださる。隠れ家で、焦げたかゆを作ってくださった方よ。ご自分の子だとわかれば」
言葉が、途中で止まった。
ノエラは、唇を噛んだ。それから、いつもの侍女頭の顔に戻った。
「午後のお茶のときがいいわ。いちばん機嫌がよくて、ヴェロニカ様も客間でお休みになってる時間だから」
「ヴェロニカ様に、何か言われているんでしょう」
ノエラは、首を横に振った。
「何も。あなたは、ここで待っていなさい。横になってるのよ。いい?」
「ノエラ」
「この子の伯母さんになるのよ、私。それくらい、させてちょうだい」
ノエラは、そばかすの頬で笑った。
ノエラが仕事に戻ってから、私は言われたとおり寝台に横になった。
お腹の上に、両手を重ねる。手袋の下で、曲がった薬指の指輪が、平らな腹に触れた。
「ここにいてね」
声に出したのは、それだけだった。
心の中では、もっとたくさん話しかけていた。あなたのお父様は、昔はよく笑う人だった。焚き火の前で、私のために泣いてくれた人だった。今は、少しだけ遠くにいる。それでも、あなたのことを聞いたら。
その先は、心の中でも言えなかった。
昼下がりの鐘が鳴った。
ノエラが、厨房から盆を運んできた。銀の茶器と、焼き菓子。ジークベルト様のお気に入りの、干し葡萄の入ったもの。
戸口で盆を持ちなおしたとき、ノエラの右手の中指に、乾いたインクの染みが見えた。侍女頭が帳面をつけるのは、いつも朝のうちのはずだった。
「すぐ戻るから」
ノエラは笑った。そばかすの頬が、少し引きつっていた。腰の鍵束が、一度だけ鳴った。
「いい知らせを持って、戻るから」
扉が閉まった。
足音が、廊下を遠ざかっていく。書斎は一階の奥だ。階段を下りて、廊下を左へ。影の足なら四十歩。ノエラの足なら、もう少しかかる。私は寝台に腰かけたまま、お腹に手を当てて、その足音を数えていた。
窓の外で、クロが一声鳴いた。
階段の下で、足音が途切れた。
次の瞬間、何か重いものが床に落ちる音がした。陶器の砕ける音が、それに重なった。
そして、ヴェロニカの悲鳴が聞こえた。




