第33話 木彫りの小鳥
「春の宴の、お花の数のことよ」
翌朝、厨房の裏でノエラはそう言った。
昨夜、ヴェロニカに何を囁かれたのか。私が尋ねると、ノエラは笑って、腰の鍵束を鳴らした。
「広間に飾る白い薔薇を、あと三十本増やしてほしいって。季節はずれなのに、どこで探せっていうのかしらね」
屋敷は、近く開かれる宴の支度を始めていた。銀器が磨かれ、広間の床に蝋が引かれた。何のための宴なのか、私に教えてくれる人はいなかった。
ノエラは、もう一度笑った。鍵束を握る指が、白くなっていた。
「それより、ちゃんと食べてるの。またひと回り細くなった」
ノエラは前掛けのポケットから、ゆで卵をひとつ出して、私の手に握らせた。まだ温かかった。
「食べなさい。今、ここで」
殻をむいて、半分だけ食べた。残りの半分は、どうしても喉を通らなかった。ノエラはそれを黙って受け取り、自分の口に入れた。
それ以上は、聞けなかった。
昼すぎ、市場へ使いに出たついでに、黒い紐を二本買い足した。一本は引き出しに、一本はエプロンのポケットに分けて入れた。
それから十日ほどたった午後、私は自分の部屋で、裂けたお仕着せを繕っていた。牢で裂かれた背中の布に、継ぎを当てていく。
窓の桟に、木彫りの小鳥が置いてある。手のひらに収まるくらいの、小さな鳥。
七年前、街道の森で、泣いていた私の膝に放られたものだ。羽の一枚一枚まで刻んであって、尾のところだけ、木肌が粗い。伯爵家の屋敷を追われた日も、下町の隠れ家でも、私はこれを手放さなかった。毎朝、窓の桟から、私の部屋を見ていた。
扉が開いた。叩かれずに。
「ここが、影のお部屋?」
ヴェロニカだった。侍女を廊下に残して、ひとりで入ってくる。淡い黄色のドレスの裾が、狭い床をこすった。廊下で、侍女が扉を半分だけ閉めた。
「狭いのね。窓も小さいし。うちの犬小屋のほうが広かったわ。侯爵家に、まだ犬小屋があったころの話だけど」
ヴェロニカは、寝台の端に指をすべらせた。それから、汚れでもついたように、指先をハンカチで拭いた。
「ノエラに聞いたの。あなた、下町でずっとあの人のお世話をしてたんですってね。ノエラも一緒に」
指が、枕の上で止まる。
「仲がいいのね、三人とも。ああ、四人だったかしら。あの赤毛の子も入れて。今は、二人になっちゃったけど」
私は、針を持ったまま答えなかった。指の先に、針が浅く刺さった。
ヴェロニカは部屋を一周して、窓の前で足を止めた。
「なあに、これ。かわいい」
白い指が、小鳥をつまみ上げた。
「お返しください」
私は針を置いて立ち上がった。ヴェロニカは小鳥を目の高さに掲げて、くるりと回した。
「尾っぽが、削りかけね。下手くそ。こんなもの、市場の露店でも売れないわ」
口の端だけが上がっていた。
「誰にもらったの。ああ、言わなくていいわ。わかるもの。あの人、昔は木なんか彫ってたのね。かわいいところもあるじゃない。でも、もう覚えてないと思うわよ。賭けてもいい」
「お返しください」
二度目は、声が低くなった。
「返してあげる」
ヴェロニカの指が、ひらいた。
小鳥は床に落ちて、一度はねた。
拾おうとして屈んだ私の目の前で、細いかかとが下りてきた。
乾いた音がした。
ヴェロニカは、そのかかとに体重をかけて、ゆっくりとひねった。木の軋む音が、もう一度した。
「あら。ごめんなさい」
頭で考えるより先に、手が出ていた。私はヴェロニカの足首をつかんで、小鳥の上からどけようとした。ヴェロニカがよろけて、私の髪をつかんだ。結び目がほどけた。引っ張られた髪が、根もとからぶつりと抜けて、ヴェロニカの指に絡んだ。
廊下に、長靴の音がした。
ヴェロニカの顔から、笑みが消えた。消えた場所に、怯えた目がすべりこんだ。一瞬のことだった。
ヴェロニカが、自分から床に倒れた。
「痛い。やめて、アマリア、痛い」
廊下で、侍女が叫んだ。
「旦那様! 旦那様、早く! アマリアさんが、ヴェロニカ様に掴みかかって!」
扉の外に、ジークベルト様が立っていた。白い外套の肩に、外の雪がまだ溶け残っていた。そのうしろに、騒ぎを聞きつけた使用人たちが集まりはじめていた。
「何をしている」
「ジークベルト」
ヴェロニカは床に手をついたまま、涙のたまった目でジークベルト様を見上げた。黒い髪が、まだ何本か、その指に絡んでいた。
「小鳥を拾ってあげようとしたの。床に落ちていたから。そうしたら、アマリアが急に、私の足を」
ひと粒、涙が頬を転がった。
「私が踏んだって。わざとじゃないのに。どうして、私のことをそんなに嫌うの」
「また、ヴェロニカ様を」
「階段のことも、お茶のことも、懲りてないのね」
使用人たちの囁きが、戸口からこぼれてきた。
ジークベルト様は部屋に入ってきて、ヴェロニカを抱き起こした。それから、床に目を落とした。
木の欠片が散らばっていた。頭と、胴と、割れた羽。尾は、二つに折れていた。
「たかが木切れで、何を騒ぐ」
ジークベルト様は、それだけ言った。
薄い氷の色の瞳は、欠片の上を、ほかの床と同じ速さで通り過ぎた。
「ヴェロニカに手を上げるほどのものか。こんなもの、町でいくらでも売っている。欲しければ、いくらでも買えばいい」
七年前の焚き火の明かりの中で、小刀を握っていた長い指を、私は覚えている。退屈しのぎに彫っていただけだ、やる、だから泣くな。そう言った声も。
ジークベルト様は、覚えていなかった。
「片づけておけ。それから、ヴェロニカに謝れ」
私は、床を見ていた。
「謝れと言った」
「申し訳、ございません」
「いいの」
ヴェロニカが、ジークベルト様の胸の中で首を振った。
「アマリアにも、大事な宝物だったのよね。私が悪かったわ」
ジークベルト様はヴェロニカを抱き上げて、部屋を出ていった。戸口の使用人たちが、道をあけた。ヴェロニカの肩ごしに、緑の目が私を見ていた。扉が閉まる前に、その唇が、声を出さずに何かを言った。何と言ったのかは、わからなかった。
扉の向こうで、使用人たちの足音と笑い声が遠ざかった。
私は、床に膝をついた。
欠片を、ひとつずつ拾い集めることはしなかった。
暖炉の脇から灰掻きの箒を取って、床の木屑ごと掃き寄せた。頭も、胴も、二つに折れた尾も。塵取りに乗せて、まだ燠の残っている暖炉に入れた。
乾いた木は、すぐに燃えた。
左手の手袋の下で、曲がった薬指の指輪が、火の熱を拾ってかすかに温まった。誰にも見せたことのない、市場の露店の銀の輪。それには、触れなかった。
羽の刻み目が、ひとつずつ赤く縁どられて、黒くなっていく。七年分、私の手の脂が染みた木は、思ったより明るい炎を上げた。
窓の桟を見ると、小鳥の置いてあった場所だけ、ほこりが積もっていなかった。小さな鳥の足の形をしていた。
ほどけた髪が、肩から胸に落ちていた。指で梳くと、また何本か抜けて、指のあいだに残った。それも、火にくべた。
炎を見ているうちに、喉の奥に酸っぱいものがこみ上げた。
地下牢を出てから、朝ごとにそうだった。牢の黴のせいだと思っていた。けれど、牢を出て、もう半月になる。
口を押さえて、暖炉の前に背を丸めた。
扉が開いて、誰かが駆けこんできた。温かい手が、私の背中に触れた。鞭の痕を避けて、肩甲骨のあいだを、ゆっくりとさする。
ノエラだった。
騒ぎを聞いて、来てくれたのだろう。ノエラはしばらく黙って私の背をさすっていた。それから、手を止めた。
「アマリア」
小さな声だった。
「あなた、もしかして」




