第32話 呪いの人形
ノエラには、半分だけ話した。
四年あまり前、若様のお命を救うために、回復核を人に差し出したこと。回復核は、使った魔力や傷んだ体をもとに戻す、胸の奥の器官だということ。それがないから、私の傷はもう塞がらないこと。
差し出した相手が姉のテオドラであることは、言わなかった。
「聖騎士様は、ご存じなの」
「言わないで」
ノエラは、私の背中に薬を塗る手を止めなかった。止めないまま、何度も鼻をすすった。下町の隠れ家で、淡い青のドレスの紐を結んでくれた夜と同じ音だった。
「言わない。あなたがそう言うなら。でも、あの方のために差し出したのよ。それなのに、あの方は、あなたを牢に」
その先は、言わなかった。
布を巻き終えると、ノエラは私の髪をほどいて、櫛を入れた。
櫛が、途中で引っかかった。抜くと、歯のあいだに黒い髪が何本も絡んでいた。ノエラはそれを手のひらに丸めて、私に見えないように前掛けのポケットに入れた。
「伸びるわよ」
隠れ家で、短く切った私の髪を梳いたときと同じことを言った。
その夜、厩舎へ行った。
月のない夜だった。馬たちが鼻を鳴らす中を、燭台を手で囲って歩いた。カスパルが寝起きしていた屋根裏、飼い葉桶の底、鞍をしまう箱、壁の板のすきま。カスパルの手が届きそうなところは、全部探した。
何も出てこなかった。
藁は、どれも新しかった。屋根裏の隅で、カスパルが丸くなって眠っていたくぼみも、新しい藁に埋もれて平らになっていた。
「ヴェロニカ様の侍女さんがね、虫がわくからって、七日前に全部替えさせたんだよ」
寝ぼけ眼の厩番が、戸口で言った。
「そのとき、あちこち引っくり返してたな。何か落とし物でもしたみたいに。床板まではがそうとして、さすがにそれは止めたけどよ」
私は、屋根裏のはしごの下に座りこんだ。
見つけたとして、誰に見せればいいのだろう。手紙を読んで、ヴェロニカを疑ってくれる人は、この屋敷にはひとりもいない。身の程をわきまえろ。その言葉が返ってくるだけだ。
カスパルの隠したものは、カスパルの隠したところで眠らせておくことにした。
三日後の朝、髪を結ぼうとして、引き出しを開けた。
黒い紐は、いつも二本入れてある。一本は髪に、一本は切れたときの替えに。影になった日から、ずっとそうしてきた。
替えの一本が、なかった。
引き出しの奥まで手を入れて探しているうちに、廊下に長靴の音が近づいてきた。衛兵だった。うしろに、使用人たちがぞろぞろとついてくる。
ヴェロニカの侍女が先に立っていた。
「ヴェロニカ様が、毎晩うなされておられるのです。胸に針を刺されるような痛みがあると。神官様に伺ったら、誰かに呪われているのかもしれないと」
侍女は、部屋の中を見回すふりをした。鏡台、衣装棚、窓の桟。それから、寝台の前で足を止めた。
「念のため、ここも」
衛兵に寝台を持ち上げさせ、その下に手を入れる。
「きゃあっ」
侍女は、手にしたものを床に放り出して、壁まで飛びのいた。
床に転がったのは、手のひらほどの蝋の人形だった。
胸に、細い銀の針が三本刺さっている。背中には、刃物で文字が刻まれていた。ヴェロニカ・モルゲンロート。人形の首には、黒い紐が巻かれていた。私が髪を結ぶのに使うのと、同じ紐だった。
呪いの人形だ。憎い相手の名を刻み、その人の持ち物で縛って、針を刺す。古くから伝わる黒魔術で、この国では、作った者は魔女とみなされる。
戸口に詰めかけた使用人たちが、いっせいに後ずさった。
「魔女だわ」
「だから、あんなに顔色ひとつ変えないのよ」
「同じ屋根の下で寝てたなんて。ぞっとする」
料理番の女房が、胸の前で神殿の印を切った。
人形は、すぐに書斎へ運ばれた。私も、衛兵に腕を取られてあとに続いた。廊下の両側から、刺すような目が追ってきた。
書斎の長椅子で、ヴェロニカが侍女に肩を抱かれていた。顔は紙のように白く、手には気つけ薬の小瓶が握られていた。私の顔を見ると、細い声で言った。
「アマリア。私、あなたに何かした?」
声が、途中でかすれて途切れた。ヴェロニカは侍女の胸に顔をうずめて、肩を震わせた。
私は答えなかった。違うと言えば、また同じ言葉が返ってくる。黙っていれば、黙っていたと言われる。どちらを選んでも、行き着く先は同じだった。
「黙っているのが、何よりの答えですわ」
侍女が、ヴェロニカの背をさすりながら言った。
「魔女の疑いがある者は、神殿に引き渡す決まりです」
衛兵長が言った。
異端審問のことだ。神殿が、魔女の疑いのある者を裁く。疑われた者は、火のそばに立たされて、神の前で潔白を示さなくてはならない。示せた者の話は、聞いたことがなかった。
ジークベルト様は、机の上の人形を見下ろしていた。白い外套の金の太陽が、窓の光で鈍く光っていた。
「毒の次は、呪いか」
針の刺さった人形を、指先でつまみ上げた。
「お前は、どこまで落ちる気だ」
それから、私を見もせずに言った。
「引き渡せ」
「お待ちください」
戸口から、ノエラが入ってきた。侍女頭の鍵束が、腰で鳴った。
ノエラは私の隣に膝をついた。
「その寝台の下は、今朝、私が掃きました。そのときには、何もございませんでした」
「お前の見落としだろう」
「この十年、掃除で見落としをしたことはございません」
ノエラは、顔を上げたまま続けた。
「それに、聖騎士様の影が魔女として神殿に引き出されたら、どうなりましょう。町の人は、その影を誰が使っていたのかを噂します。王宮の方々も。婚約を披露されたばかりの今、ヴェロニカ様のお名前にも傷がつきます」
ジークベルト様の眉尻の古傷が、わずかに動いた。
長いあいだ、誰も口をきかなかった。ヴェロニカは長椅子でハンカチを握り、侍女の肩にもたれていた。
「ジークベルト。私なら、もういいの」
ヴェロニカが、かすれた声で言った。
「アマリアにも、きっと何か辛いことがあったのよ。火の前に立たせるなんて、かわいそうだわ」
ハンカチの陰で、若葉色の目がノエラを見ていた。笑っていない目だった。
「審問は、やめておく」
ジークベルト様は人形を暖炉に放りこんだ。蝋が溶けて、針だけが燠の上に残った。
「ヴェロニカに感謝しろ。お前のような者を、二度もかばってくれた。だが、二度目はない」
書斎を出るとき、ヴェロニカの長椅子のそばを通った。ヴェロニカは侍女の肩から顔を上げずに、私にだけ聞こえる声で言った。
「残念。火の前で泣くあなた、見てみたかったのに」
その夜、部屋の扉に鍵をかけて、寝台の下から衣装箱を引き出した。人形が見つかったのと同じ暗がりにあったのに、錠は閉まったままだった。小さな鍵で開けて、底からヴェールを出した。
淡い灯りの下で、白い紗を膝に広げる。縁に縫い取った小さな花は、隠れ家での二年で、六十ほどになっていた。聖騎士叙任の祝宴のあとから、私はそれを、ひと針ずつほどいてきた。
今夜は、ひと針でやめなかった。
花を一つ、まるごとほどいた。茎の糸も、葉の糸も。抜いた糸が、指に巻きつく。紗には、針の穴だけが残った。
ほどき終えて、もう一つ手をかけたとき、廊下で声がした。
扉を細く開けた。
突き当たりの燭台の下に、ヴェロニカが立っていた。ノエラの耳もとに顔を寄せて、何か囁いている。口の端だけが上がっていた。
ヴェロニカが離れていく。ノエラは、その場に残っていた。
燭台の明かりの中で、ノエラの顔から、血の気が引いていた。




