第31話 毒の茶
地下牢の壁は、いつも濡れていた。
石のすきまから水がしみ出して、床のくぼみに溜まる。灯りはない。鉄格子の上の、手のひらほどの明かり取りから、昼のあいだだけ灰色の光が落ちてくる。
ここへ入れられた日のことを、何度も思い返した。
カスパルの台が片づけられて、まだ一刻もたっていなかった。ヴェロニカの侍女が、私の部屋の戸口に立った。
「ヴェロニカ様が、アマリアさんのいれたお茶を飲みたいそうです。聖騎士様もご一緒に」
侍女は、わざとらしく眉を下げた。
「ヴェロニカ様、気に病んでおられるんです。あなたの大事な子があんなことになって、きっと辛いだろうって。仲直りのお茶ですって。おやさしいでしょう」
厨房で湯を沸かした。茶葉の缶を開け、指につまんで匂いをかいだ。影の修行で身についた癖だ。毒の入った茶葉は、湯を注ぐ前から、かすかに舌の奥を刺す匂いがする。何も刺さなかった。湯を注いでからも、もう一度確かめた。
厨房の戸口で、下働きの娘たちが囁いていた。
「よく平気でお茶なんかいれられるわね。さっきの今で」
「影って、そういうものなんでしょう。人が死んでも、顔色ひとつ変えない」
居間では、暖炉の前の長椅子に、ヴェロニカがジークベルト様と並んで座っていた。壁ぎわには、ハインツと、侍女と、給仕の娘が二人。見届ける者は、十分にそろっていた。
ジークベルト様は、白い外套を脱いで椅子の背に掛けていた。後ろへ流した銀髪が、暖炉の火で赤く透けていた。ついさっきまで二階の窓辺から裏庭を見下ろしていた人の膝に、ヴェロニカの手が置かれていた。
「ありがとう、アマリア。あなたの淹れるお茶はおいしいって、ジークベルトがいつも言うの。ねえ、そうでしょう」
「そうだったか」
ジークベルト様は、茶碗を見もしなかった。
茶碗を受け取ると、ヴェロニカは受け皿の上でそれを一度回した。左手の指輪の石が、縁に触れた。小さな、ほとんど音にならない音がした。
ひと口飲んで、微笑んだ。
「おいしい」
二口目で、茶碗が床に落ちた。
陶器の砕ける音が、居間に響いた。ヴェロニカの体が、長椅子から崩れた。喉をかきむしるように指を立て、唇が見る見る青くなっていく。
「ヴェロニカ!」
ジークベルト様が抱き起こした。
「毒よ!」
侍女が、金切り声をあげた。
「お茶に毒が! アマリアさんがいれたお茶に!」
給仕の娘が悲鳴をあげて飛びのいた。ハインツが医師を呼べと叫び、誰かが廊下を走っていった。屋敷じゅうの扉が開く音がした。
医師は、ヴェロニカの舌の色を見て言った。
「毒です。量が少なかったのが、せめてもの幸いでした」
居間にいた全員の目が、私の手もとの盆に集まった。戸口には、いつのまにか使用人たちが鈴なりになっていた。
「あの子を処刑されたから、仕返しよ」
「なんて恐ろしい」
「昨日は階段で、今日は毒。次は何をするかわからないわ」
「茶をいれたのは、お前だな」
ジークベルト様が言った。
「はい。私がいれました」
私が言ったのは、それだけだった。指輪のことは言わなかった。言っても、誰も見ていない。見ていたのは私だけだ。
「影は毒の扱いに長けているからな」
ジークベルト様は、ヴェロニカを抱き上げて立ち上がった。
「カスパルを使って機密を売らせ、それが露見したら、今度はヴェロニカか。あの子に姉さんと呼ばせていたのも、手駒にするためだったわけだ」
違う、という言葉が、喉の奥で固まった。
「地下牢へ入れろ。カスパルの件と合わせて、吐かせろ」
抱き上げられたヴェロニカの頭が、ジークベルト様の肩にもたれた。閉じていたまぶたが、私の前を通り過ぎるときだけ、細く開いた。
青い唇の端が、ほんの少しだけ上がった。
それから七日、私はここにいる。
毎日、昼過ぎに牢番が来た。鞭を持って。
「影のくせに、奥方様に毒を盛るとはな。度胸だけは褒めてやる」
牢番は、鞭の柄で私の顎を持ち上げた。
「聖騎士様からの言いつけだ。吐くまで打て、とさ。吐くことがないなら、吐くことを思いつくまで打てってことだろうよ」
壁に両手をつかされ、背中のお仕着せを裂かれる。数を数える牢番の声と、打つ音だけが、石の天井に響く。何を吐けと言われているのかは、最後まで誰も言わなかった。
背中には、もとから古い鞭の痕があった。四年あまり前、牢につながれたジークベルト様に会わせてもらうために、牢番に打たせた痕だ。その上に、新しい痕が重なっていく。
回復核をなくした体は、傷を塞がない。一日目の痕が、七日目にも同じように開いていた。乾く前に、また次の日の鞭が来た。
「妙な体だな。三日もすりゃ塞がるもんだが」
牢番は首をかしげて、それから、どうでもいいというように鞭を巻いた。
夜は、藁の上に横向きに寝た。仰向けにはなれなかった。
階段の上で扉が開くたびに、私は顔を上げた。降りてくるのは、牢番か、食事を運ぶ下働きの子だった。ジークベルト様の長靴の音は、一度もしなかった。
二日目から、顔を上げるのをやめた。
朝になると、胃の底から酸っぱいものが上がってきた。牢の黴の匂いのせいだろうと思った。
三日目の朝、明かり取りの格子に、クロがとまった。
羽の生えそろわない黒い首を傾けて、私を見下ろしている。手を伸ばすと、格子のすきまから降りてきて、指先にとまった。
出された黒パンのかけらを、手のひらに乗せた。クロは一度だけついばんで、あとは私の手首に頭を押しつけていた。
「厩舎を、見てきてくれる?」
言ってから、首を振った。クロには字が読めない。それに、カスパルが命と引きかえに隠したものを、この子のくちばしで掘り返させたくはなかった。
「やっぱり、いい。ここにいて」
クロは、日が落ちるまで格子の内側にいた。
五日目の明け方、頭の上で荷車の音がした。屋敷の裏門のほうへ、ゆっくり遠ざかっていく。
牢番が、格子の向こうであくびをした。
「あの小僧だよ。罪人は、北の門の外の墓地に埋める決まりだ。石も立てない。今まで裏の物置に置いといたんだと。犬の餌にならなかっただけ、ありがたいと思え」
私は目を閉じた。
荷車の音は、しばらく聞こえていた。
七日目の夕方、扉が開いた。
「出ろ。聖騎士様のお情けだ」
ヴェロニカが目を覚まし、「アマリアを許してあげて」と言ったのだと、階段を上がる途中で牢番が教えてくれた。
「お優しい奥方様だよ。毒を盛った相手を許してやってくれ、だとさ。聖騎士様は、涙ぐんでおられたそうだ。お前も、一生足を向けて寝られんな」
地下から上がると、玄関の広間だった。
大きな扉は閉ざされ、壁の燭台が半分だけ灯っていた。ジークベルト様は、王宮の晩餐に出かけていると聞いた。ヴェロニカとの婚約を、王宮の方々に披露する晩餐だという。私が牢にいた七日のあいだに、二人の婚約は、王都じゅうに知らされていた。
執事のハインツが、燭台の芯を切っていた。白い眉の下の目が、裂けたお仕着せの肩を見て、すぐに燭台へ戻った。何か言いかけて、口を閉じた。私も、黙って頭を下げた。
この広間で、私は毎晩ジークベルト様の帰りを待っていた。聖騎士になってからも、ヴェロニカが来てからも。馬車の音がするまで、扉の脇に立っていた。夜中を過ぎても、外套を受け取るために。
扉の脇の石の床は、私の立っていた場所だけ、ほんの少し色が薄い。
その前を、通り過ぎた。
足は止まらなかった。
階段を上がり、使用人棟の廊下を歩いた。突き当たりの部屋の扉が開いて、栗色の髪がのぞいた。
「アマリア」
ノエラだった。そばかすの散った頬が、七日のうちに少し削げていた。
ノエラは何も言わずに私の手を引いて、自分の部屋に入れた。盥に湯を張り、清潔な布を出す。「脱いで」とだけ言った。
裂けたお仕着せを肩から落とした。
背中に、湯で絞った布が触れた。
布が、止まった。
しばらく、何の音もしなかった。燭台の芯が、小さく爆ぜた。
ノエラの指が、私の背中の古い痕をなぞった。四年あまり前の痕と、牢での一日目の痕と、今日の痕。どれも同じように、開いていた。
「アマリア、あなた」
声が震えていた。
「この傷、どうして治っていないの」




