第30話 姉さんは悪くない
カスパルは、扉を背中で押さえたまま動かなかった。
両腕を胸の前で組んで、上着の内側に何かを抱えている。くすんだ赤毛には藁くずがついたままだった。十二になって背は伸びたのに、従者の紺の上着の袖は、まだ手の甲を半分隠していた。
「座って」
水差しの水を椀に注いで渡した。カスパルは片手で受け取り、半分こぼしながら飲んだ。もう片方の腕は、胸から離さなかった。
「また、裏門で馬の音がしたんだ。寝たふりしてろって、姉さんは言ったけど」
カスパルは、目をそらした。
「窓からのぞいたら、ヴェロニカ様が自分で裏門まで出てきてた。黒い百合の飾りの男の人と。手紙を渡しっこしてた。それでね、ヴェロニカ様、その人に抱きついてたんだ。騎士様には、あんなふうにしないのに」
欠けた前歯のすきまから、息が漏れた。
「二人が行っちゃったあと、門の脇の雪の上に、一通落ちてたんだ。暗くて、気づかなかったみたい」
カスパルが、上着の内側から手を出した。
封筒の端が、燭台の明かりに白く浮いた。割れた封蝋は黒く、百合の形が半分だけ残っている。表に書かれた宛名は、角ばった男の字だった。ヴェロニカ・モルゲンロート様。
「ぼく、それくらいは読めるもん」
隠れ家のころ、市場の代書の机の脇で、私が字を教えた子だった。
封筒に伸ばしかけた手を、私は止めた。
この部屋の鏡台からは、真珠の首飾りが出てきた。誰かが、私の留守に好きなように出入りしている部屋だ。ここに置けば、明日の朝には別の物に変わっているかもしれない。
「それは、あなたが持っていて。誰にも見つからないところに隠して。私にも、場所は言わなくていい」
「姉さんにも?」
「明日の朝、二人で取りに行きましょう。それから、どうするか決める」
廊下を、誰かが歩いてくる。扉の下のすきまを、燭台の明かりが横切った。足音は止まらずに遠ざかった。
カスパルは手紙を上着の内側に戻して、うなずいた。
「わかった。朝、長靴を磨いたら来るね。これで騎士様、わかってくれるよね」
私は、答えられなかった。
扉が細く開いて、閉じた。
追わなかった。夜の廊下で影と従者が話しこんでいれば、それだけで噂になる。朝になれば、また来る。ジークベルト様の長靴を磨いたあと、厨房で黒パンをもらって、私の部屋の窓の下を通る。それがカスパルの毎朝の決まりだった。
翌朝、窓の下を通ったのは、衛兵だった。
三人がかりで、カスパルの両腕を引いていた。裸足で、片方の頬が赤く腫れていた。
「離せよ! ぼく、何もしてない!」
聖騎士の屋敷の中で起きた罪は、主である聖騎士が裁く。王が聖騎士に与えた権利のひとつだ。王都の裁判所に送られることもなく、かばう者もつかない。
書斎には、もう人が集まっていた。
使用人たちが壁ぎわに並び、ひそひそと囁きあっていた。
「あの赤毛の子が?」
「下町の拾い子でしょう。手癖が悪いのよ、ああいう子は」
「アマリアさんが連れてきたのよね」
衛兵長が読み上げた。厩舎の二階、従者カスパルの寝床の藁の下から、紙が一枚見つかった。神殿の春の祭りの日に、聖騎士が守る道筋と、衛兵の配置。聖騎士と側近しか知らないはずのものの写しだ。それと、隣国の金貨が詰まった革袋がひとつ。
「昨夜、裏門で、この子が見知らぬ男に紙を渡すのを見ました」
そう申し出たのは、ヴェロニカの侍女だった。前に進み出て、胸の前で手を組み、声を震わせた。
「怖くて、すぐには申し上げられませんでした。まさか、旦那様にあんなに可愛がられていた子が、と。でも、ヴェロニカ様が、黙っていてはいけないとおっしゃって」
見ていたのは、侍女のほうだった。裏門で、男を招き入れていたのは。
「聖騎士の機密を、隣国の間者に売った。罪状に異論のある者は」
カスパルが、衛兵の腕の中で身をよじった。
「ちがう、ぼくじゃない。見たのは、ぼくのほうだ。ヴェロニカ様が」
「まあ」
ヴェロニカが、ジークベルト様の椅子の背に手をかけた。淡い桃色のドレスの胸もとを、もう片方の手で押さえる。蜂蜜色の巻き毛が、肩の上で小さく震えていた。大きな目に、見る間に涙が盛り上がった。
「私のせいにするの? こんな小さな子が、私を? ジークベルト、私、何かこの子に恨まれるようなことをした?」
「黙らせろ」
ジークベルト様のひと言で、衛兵がカスパルの口に布を押しこんだ。
ヴェロニカが、まつ毛を伏せた。涙がひとすじ、白い頬をつたった。
「この子、アマリアのことを『姉さん』って呼んでいたわね。こんなに大それたこと、ひとりで考えたのかしら」
壁ぎわのざわめきが、いっせいに私のほうを向いた。
ジークベルト様の目が、一度だけ私に来た。薄い氷の色の瞳は、何も映していなかった。
私は膝をついた。それから、額を床につけた。うなじで結んだ髪が肩からすべり落ちて、絨毯の上に広がった。艶をなくした黒髪は、乾いた藁のようにぱさついていた。
「どうか、あの子の命だけは。罰が要るのでしたら、私が受けます。鞭でも、牢でも」
「お前が受けて、何が戻る。売られた機密は戻らん」
「あの子は、まだ十二です」
「十二でも、罪は罪だ。聖騎士の屋敷で間者を許せば、王宮に何と言われる。子どもだからと見逃した聖騎士、と笑われるのは私だ」
ペン先が、インク壺の縁に当たる音がした。
隠れ家の朝を、思い出していた。カスパルは毎朝、自分の黒パンを半分ちぎって、宿の二階へ駆け上がっていった。いつか、えらい騎士様になる人だもん。まだ何者でもなかったジークベルト様を、誰より先にそう呼んだのは、カスパルだった。
紙の上を、ペンが走った。
ジークベルト・ヴィンターハルト。迷いのない、まっすぐな字だった。
「日暮れに、裏庭で。使用人は全員、見届けさせろ。二度と同じことが起きないように」
それだけ言って、ジークベルト様は次の書類を引き寄せた。
ヴェロニカがハンカチで目もとを押さえ、ジークベルト様の肩にもたれた。
「かわいそうに。でも、仕方がないのよね。あなたは聖騎士なんだもの」
衛兵に引かれていくカスパルが、戸口で一度だけ振り返った。口の布の上で、目が私を探していた。私はまだ、床に額をつけたままだった。顔を上げたときには、扉はもう閉まっていた。
日暮れの裏庭は、厩舎の匂いがした。
空は鉛色に低く垂れ、西の端だけが、傷口のような赤に裂けていた。風が楡の枝を鳴らし、乾いた雪の粒を使用人たちの顔に吹きつけた。
使用人たちが、壁ぎわに並ばされていた。見せしめだ、と執事のハインツが小声で言った。楡の木の太い枝に、縄がかけてあった。
「本当にやるの」
「まだ子どもなのに」
「しっ。聞こえたら、次は私たちよ」
下働きの娘たちが、身を寄せあって震えていた。
厩舎の屋根の端に、クロがとまっていた。羽の生えそろわない黒い体で、身じろぎもせずに台を見下ろしていた。
カスパルは、口の布を外されていた。
衛兵に押されて、木の台に上がる。裸足の足の裏が、泥で黒かった。振り向いて、使用人の列の中に私を探した。見つけると、欠けた前歯を見せて笑おうとした。うまく笑えていなかった。
ジークベルト様は、二階の窓辺に立っていた。白い外套は着ていない。濃紺の上着の胸で、銀糸の雪狼が夕日を受けて一度だけ光った。その肩に、金色の髪が寄り添っていた。
ヴェロニカは、白いハンカチを目に当てていた。肩を小さく震わせて、ジークベルト様の胸に顔を伏せる。窓ガラスの向こうからでも、その泣き方は、裏庭の全員に見えるように大きかった。
「おやさしい方ね。罪人の子のために、あんなに泣いて」
列の端で、料理番の女房が感じ入ったように言った。
ハンカチの陰で、若葉色の目が、私を見下ろしていた。
衛兵が、黒い袋を手に取った。
カスパルが、叫んだ。
「姉さんは悪くない!」
裏庭じゅうに響く声だった。楡の枝から、鴉が何羽も飛び立った。
「姉さんは、なんにも悪くない!」
袋が近づく。その一瞬、カスパルの目が私から離れた。
厩舎のほうへ動く。半分開いたままの、厩舎の扉。それから、また私に戻る。
もう一度。厩舎へ。私へ。
袋が、赤毛を覆った。
私は目をそらさなかった。
楡の枝が、一度だけきしんだ。
それから先、裏庭では誰も口をきかなかった。下働きの娘がひとり、口を押さえてしゃがみこんだ。風の音だけが、長く続いた。
見上げると、二階の窓辺にはもう誰もいなかった。閉まりかけのカーテンのすきまで、金色の髪が一度だけ揺れた。笑っているように見えた。
カスパルは、手紙を厩舎に隠した。それがわかったのは、裏庭で私ひとりだった。
夜を待って、取りに行くつもりだった。
けれど厩舎の扉に手をかける前に、私は地下牢に入れられた。




