第29話 第二王子の影
私が答えないでいると、ヴェロニカは茶碗を傾けた。
湯気の立つ茶が、私の足もとの雪に落ちて、小さな穴をあけた。
「牢番に金貨を握らせたのは、本当よ。差し入れの手柄を、私の名前にしておいてって。安いものだったわ。金貨二枚。あなたが何十日も通った手柄が、金貨二枚」
空になった茶碗を、指先で揺らした。
「あの人、今でもあのときの恩を言うの。ヴェロニカだけは、私を見捨てなかったって。抱きしめて、震える声で。かわいいでしょう」
若葉色の目が、私の顔をのぞきこんだ。
「教えてあげてもいいのよ。本当は影が運んでいました、って。でも、信じるかしら。あの人、私の言うことしか信じないもの」
毛皮の裾をひるがえして、ヴェロニカは屋敷へ戻っていった。雪の上に、跳ねるような足跡が残った。
朝の鐘が鳴って、ハインツが私を呼びに来た。足の指は、しばらく自分のものではないようだった。
台所を通ると、料理番の女房たちが手を止めた。
「一晩、立ってたんですって」
「ヴェロニカ様を突き落としたんだもの。それくらい当然よ」
「でも、あの子、前は旦那様と」
「しっ。今は、奥の方がいらっしゃるのよ」
私が通り過ぎるまで、誰も目を上げなかった。通り過ぎたとたん、声がまた始まった。
それから七日のあいだ、クロは毎晩、屋敷の屋根に上がっていた。
ある夜、クロが私の部屋の窓を、くちばしで三度つついた。来て、という合図だった。
灯を持たずに、裏庭へ出た。クロは植えこみの陰を、低く飛んでいく。厩舎の脇を抜けると、屋敷の裏門が見えた。
門の閂が、内側から外されていた。
ヴェロニカの侍女が、門のすきまから外をうかがっていた。やがて、暗い外套の男がひとり、すべりこんできた。侍女は男を、裏の使用人用の戸口から屋敷の中へ導いた。
「お嬢様がお待ちです。今夜は、旦那様は神殿にお泊まりですから」
侍女の声は、昼間よりずっと低かった。
屋敷の結界は、塀を越えようとする敵には反応する。けれど、内側から招き入れられた客には、何も言わない。
私は植えこみの陰で待った。
半刻ほどして、男が戻ってきた。裏門の灯の下で、外套の合わせ目がわずかに開いた。
胸に、黒い百合の飾りがあった。
顔に見覚えがあった。あの夜会の庭で、垣根の向こう、ヴェロニカの腰に手をまわしていた男。第二王子フェルディナントの側近。
「殿下に伝えろ。聖騎士はまだ何も気づいていない、と」
男が侍女に言うのが聞こえた。侍女は、くすりと笑った。
「気づくはずがありませんわ。あの方、お嬢様に夢中ですもの」
二階の、奥の部屋の窓に、灯がひとつ揺れていた。
翌朝、私はハインツに取り次ぎを頼んだ。
「入れ」
ジークベルト様は、神殿から届いた書状に目を通していた。白い外套は椅子の背に掛けられ、濃紺の上着の胸で、銀の雪狼が窓の光を受けていた。
下町の宿で、私の笑い声に手を止めた人と、同じ顔だった。ただ、目尻のあの細いしわは、いつのまにか見えなくなっていた。
「何の用だ」
「お耳に入れたいことがございます」
私は話した。裏門の閂のこと。ヴェロニカの侍女のこと。黒い百合の飾りの男のこと。夜会の庭で、同じ男を見たこと。男が侍女に言い残した言葉のこと。
「ヴェロニカ様のそばに、第二王子の手の者がいます」
ジークベルト様は、書状から顔を上げなかった。
暖炉の薪が、崩れる音がした。
「それで」
ようやく、私を見た。前髪をうしろへ流した額の下で、左の眉尻の古傷が動いた。
「首飾りの次は、階段。今度は、それか」
「首飾りも階段も、私では」
「ヴェロニカを疑うのか」
冷たい声だった。
「身の程をわきまえろ」
私は、口を閉じた。
同じ言葉だった。伯爵家の書斎で、印章の箱のことを話した朝。同じ暖炉の音。同じ眉の動き。あの朝から、何ひとつ変わっていなかった。
「第二王子殿下は、王族だ。殿下の使いがヴェロニカの見舞いに来たとして、何がおかしい。あれは、もとは侯爵家の娘だ。古い知り合いもいる」
ジークベルト様は書状に目を戻した。
「夜中に、裏門からか。影はそういうものを見張るのが仕事だったな。主の想う女を見張れと、誰が命じた」
「命じられては、おりません」
「なら、余計な真似をするな。下町にいたころのお前は、こんなことは言わなかった。嫉妬で目が曇ったか」
嫉妬。
その言葉が、書斎の絨毯の上に、重く落ちた。
私は頭を下げた。
「申し訳ございません」
「下がれ」
「はい」
その日から、私は言い訳をやめた。
ヴェロニカの部屋の花が枯れていたと叱られれば、「申し訳ございません」と言った。晩餐の葡萄酒の温度が違うと言われても、「申し訳ございません」と言った。夜のうちに替えておけと言われれば、「はい」と言った。
ほかの言葉は、使わなくなった。
晩餐の給仕で、ヴェロニカが小首をかしげた。
「アマリア、このごろ静かね。どこか具合でも悪いの?」
「いいえ」
「そう。よかった」
ヴェロニカはジークベルト様の袖に指をかけた。
「ねえ、ジークベルト。アマリアが静かだと、お屋敷も静かでいいわね。前は、何かと口を出していたって聞いたもの」
「影が口を出すことではなかった」
ジークベルト様は葡萄酒を口に運んだ。
「あれが勝手にやっていただけだ」
私は空いた皿を下げた。ヴェロニカの侍女が、皿を受け取る私の手を見て、肩をすくめて笑った。
厩舎の前を通ると、カスパルがジークベルト様の長靴を磨いていた。従者の紺の上着の袖をまくり、赤毛を汗で額に張りつけている。
「姉さん」
カスパルは、刷毛を持つ手を止めた。
「夜中にね、裏門のほうで、知らない馬の足音がするんだ。厩舎の二階で寝てると、聞こえる。うちの馬じゃない」
私は、カスパルの前にしゃがんだ。
「近づいてはだめよ。聞こえても、寝たふりをしていなさい」
「どうして」
「どうしても」
カスパルは唇をとがらせて、また長靴を磨きはじめた。
「騎士様に言えばいいのに。騎士様なら、悪いやつはみんなやっつけてくれるよ」
私は答えずに立ち上がった。カスパルは、それ以上聞かなかった。
ノエラが、台所で私の手首をつかんだ。
「アマリア。あなた、最近、はいと申し訳ございませんしか言ってないわよ」
「はい」
「ほら」
ノエラは笑おうとして、うまく笑えなかった。
夜は、相変わらず塀の石に魔力を注いだ。窓ガラスに映る私の瞳に、銀の輪が浮かぶ。前よりも、浮かぶまでに時間がかかるようになっていた。頬の線が、鏡台の鏡の中で少し尖っていた。
部屋に戻って、ヴェールをひと針ほどいた。
裏門で男を見た夜から、十日目の夜だった。
燭台を消そうとしたとき、廊下を駆けてくる足音がした。
扉が、ノックもなしに開いた。
カスパルが立っていた。従者の紺の上着のボタンを掛けちがえて、赤毛に藁くずをつけている。厩舎から走ってきたのだとわかった。
顔が、青かった。
カスパルはうしろ手に扉を閉め、胸に何かを押しつけるように両腕を組んだ。歯の欠けた口が、何度か開いて、閉じた。
「姉さん」
声が、ふるえていた。
「ぼく、見ちゃった」




