第28話 首飾りと階段
真珠の首飾りが消えたのは、祝宴から十一日目の朝だった。
「ない、ないわ。どこにもないの」
ヴェロニカの新しい侍女が、屋敷じゅうを走り回っていた。二十歳そこそこの、鼻の高い娘だ。客間から廊下へ、廊下から階段へ。わざわざ使用人たちの前を通るたびに、声を張りあげる。
「旦那様が贈られた、ひと連なりの真珠ですのよ。ヴェロニカ様が、朝からずっと泣いておられて」
祝宴の夜、ヴェロニカの首すじにかかっていたものだ。
侍女は、廊下の端から端まで、引き出しという引き出しを開けて回った。下働きの娘たちの寝台の下ものぞいた。それから、ふと思いついたように足を止めた。
「そういえば、まだ見ていないお部屋がありましたわね」
侍女は、まっすぐ私の部屋に入っていった。そして、迷いもせずに鏡台の二段目を開けた。
「まあ」
両手で口を押さえて、一歩うしろへよろめく。指のあいだから、ひと連なりの真珠が垂れ下がっていた。
「こんなところに。どうして、こんなところに」
廊下に集まっていた下働きの娘たちが、いっせいに口を押さえた。
玄関の広間に、使用人が全員集められた。
ハインツ。ノエラ。料理番。下働きの娘たち。厩舎から呼ばれたカスパル。その真ん中に、私が立たされた。
ひそひそ声が、輪の外側から寄せてきた。
「やっぱり、ねえ」
「影なんて、もとはどこの生まれかもわからないもの」
「旦那様に可愛がられてると思って、のぼせたのよ」
「女主人の席に座れなかったのが、悔しかったんじゃない」
階段の上から、ジーク様が下りてきた。うしろに、ヴェロニカが部屋着の胸もとを押さえてついてくる。泣きはらしたような赤い目だった。
「膝をつけ」
私は、石の床に膝をついた。千段の石段で傷めた膝が、冷たさに鳴った。
「私は、盗っておりません」
一度だけ、言った。
「お前の部屋から出てきた。ほかに誰が、お前の鏡台を開ける」
「私が開けましたわ」
侍女が、すかさず言った。
「ヴェロニカ様のために、必死で探しておりましたから。まさか、本当に出てくるなんて」
私は黙った。この侍女が私の部屋に入るのを、今朝、誰も止めなかった。誰も、それをおかしいとは言わない。
「いいの、ジークベルト」
ヴェロニカが、ジーク様の腕にそっと手をかけた。
「返ってきたんだもの。アマリアも、きっと少し羨ましかっただけよ。女の子なら、誰だって真珠は欲しいわ」
やさしい声だった。やさしい声で、私を泥棒に決めた。
「おやさしすぎます、ヴェロニカ様」
侍女が目頭を押さえた。料理番の女房が、うなずいた。下働きの娘たちが、私を見た。哀れむ目ではなかった。品物を値踏みする目だった。
「旦那様」
ノエラが一歩前に出た。
「アマリアは、そんな子では」
「ノエラ。下がれ」
ノエラの唇が、白くなった。
ジーク様は、私を見下ろした。
「今回は、ヴェロニカに免じて不問にする。ヴェロニカに礼を言え」
広間が、静まりかえった。
私は、床に額を近づけた。
「ありがとう、ございます」
「二度目はないと思え」
広間を出ていく足音が、ひとつずつ遠ざかった。階段を上がるヴェロニカが、手すりの上から一度だけ振り返った。口の端が、ほんの少しだけ上がっていた。
「その真珠、あなたの首には重すぎるわよ」
私にしか届かない声だった。
私は、誰もいなくなるまで膝をついていた。カスパルだけが、厩舎へ戻る途中で一度振り返った。
その晩、部屋の扉の下から、何かが押しこまれた。
半分にちぎった黒パンだった。下町の路地裏で、毎朝カスパルがジークベルト様に届けていたのと同じ、固い黒パン。紙切れが一枚添えてあった。たどたどしい字で、「姉さんのぶん」とだけ書いてあった。
私はそれを、時間をかけて食べた。
次の日の昼すぎ、ヴェロニカの侍女が私を呼びに来た。
「ヴェロニカ様が、二階の踊り場の花瓶を下ろしてほしいと。重くて、ほかの娘には無理なんですって」
踊り場には、ヴェロニカがひとりで立っていた。階段の上、手すりのそば。花瓶は、窓辺の台の上にあった。侍女は、私を案内するとすぐに、廊下の角へ引っこんだ。
「来てくれたのね」
ヴェロニカは微笑んだ。私が二歩近づいたとき、階下の玄関で扉の開く音がした。ジーク様が帰ってきた音だった。
ヴェロニカは、私の顔を見たまま、唇だけで言った。
「見ててね」
うしろへ、体を倒した。
手すりから手を離して。
悲鳴が、階段を転がり落ちていった。蜂蜜色の髪が、一段ごとに揺れた。
私は、伸ばしかけた手を宙に止めたまま、踊り場に立っていた。
廊下の角から、侍女が飛び出してきた。
「ヴェロニカ様! ああ、なんてこと。アマリアさんが、今、ヴェロニカ様を」
侍女の叫び声は、屋敷の隅々まで届く大きさだった。厨房から、洗濯場から、使用人たちが駆けてきた。
階段の下で、ヴェロニカがうずくまっていた。ジーク様が駆け寄って、抱き起こした。
「どうした。何があった」
ヴェロニカはジーク様の胸にすがって、震える指で、踊り場の私を指さした。
「アマリアが……私を、押したの。花瓶のことを頼んだだけなのに、急に怖い顔をして」
「私も見ました」
侍女が、階段の途中で膝をついた。
「アマリアさんの手が、ヴェロニカ様の背中に」
使用人たちのざわめきが、階段を這い上がってきた。
「昨日の真珠の、仕返しよ」
「恐ろしい。影って、人を殺す訓練もしてるんでしょう」
ジーク様が顔を上げた。
青い瞳が、私を見た。
ジーク様の瞳は、心が動いたときだけ、ほんの少し色が濃くなる。屋敷でそれに気づいているのは、たぶん私ひとりだ。その青が、今、深く沈んでいた。私に向けられて濃くなるのを、初めて見た。
「私は、触れておりません」
「黙れ」
低い声だった。
「首飾りのことは、ヴェロニカがかばったから不問にした。その恩を、これで返すのか。お前は、いつからそんな女になった」
医者が呼ばれた。ヴェロニカの足首は、少しひねっただけだった。それでもヴェロニカは寝台の上で、ジーク様の手を離さずに泣き続けていた。
「怖かった。あの目、本気だったわ。ジークベルト、私、ここにいていいの?」
「いていい。お前の家はここだ」
開いた扉の外を通りながら、その声を聞いた。
夕方、ハインツが私の部屋に来た。目を合わせずに、ジーク様の言葉を伝えた。
「中庭に、朝まで立っていろ、とのことです。外套は、着てはならぬと」
私は、廊下に出た。書斎の扉が少しだけ開いていて、白い外套の背中が見えた。
ジーク様、と呼びかけようとして、声が喉の手前で止まった。下町の暖炉の前で、初めてその名を呼ぼうとしたときと、同じ場所だった。
私は、その背中に向かって頭を下げた。
「かしこまりました、聖騎士様」
背中が、一度だけ動いた。
振り返りはしなかった。
冬の中庭に、日が暮れると雪が降りはじめた。
影の上着ではなく、灰色のお仕着せのまま、私は井戸の脇に立った。肩に雪が積もった。うなじで結んだ黒い髪に、雪が溶けて、襟の中へ冷たく流れこんだ。千段の石段を上った日と、同じ冷たさだった。
服の下で、神前決闘の日の傷が、寒さで引きつれた。
二階の廊下の窓に、灯がともった。下働きの娘が二人、ガラスに額をつけてこちらを見ていた。
「まだ立ってる」
「強情ね。泣いて謝ればいいのに」
笑い声が、窓ガラスの向こうでくぐもった。やがて灯が遠ざかった。
夜半、台所の戸が開いて、ノエラが毛布を抱えて出てきた。私は首を横に振った。ノエラまで罰を受ける。ノエラは毛布を抱えたまま、戸口で長いあいだ立っていた。
「ばかね。あなた、ほんとに、ばかね」
声が、雪に吸われて小さくなった。
厩舎の二階の窓に、カスパルの赤毛がのぞいていた。一晩じゅう、消えなかった。
夜明け前、いつものように胸の奥が冷えた。
呪いの黒い糸が、胸の中で動く。息が浅くなる。膝が震えたが、倒れなかった。倒れれば、また何か言われる。
東の空が、白んできた。
雪を踏む音がした。
ヴェロニカだった。毛皮の外套を着て、両手で湯気の立つ茶碗を持っている。足首をひねったようには、少しも見えない歩き方だった。軽やかに、雪の上を跳ねるように。
ヴェロニカは私の前に立ち、茶碗を差し出した。
「寒かったでしょう。どうぞ」
私は受け取らなかった。
ヴェロニカは気にしたふうもなく、自分で一口すすった。白い息と、湯気が混ざった。
「ゆうべのあの人の顔、見た? あんなに怒るなんて。私のためなら、あの人、なんでもするのね」
くすくすと笑った。人前で泣いていた目は、少しも赤くなかった。
「ねえ」
口の端だけが、上がった。
「牢の差し入れ、私がしたことになってるの。知ってた?」




