閑話 拾われた令嬢(ヴェロニカ)
ほんとうに、簡単な人。
競りの台の上で、縄で手首を縛られて、薄い肌着一枚で立たされていたとき、私はもう、何もかも終わったと思っていた。
父は首を落とされた。母は裁きの翌朝、毒の杯をあおった。屋敷も、ドレスも、宝石も、借金取りが根こそぎ持っていった。最後に残った売り物が、私だった。
「侯爵令嬢だぞ。生娘かどうかは知らんがな」
競り人が、私の顎をつかんで客席に向けた。下卑た笑い声。煙草の匂い。値をつける男たちの、ぎらぎらした目。
殿下は、来てくださらなかった。尻尾は、切られたら終わり。わかっていたけれど。
そのとき、人垣の向こうから、聞き覚えのある声がした。
「金貨百枚」
客席が、静まりかえった。
銀色の髪。白い外套に、金の太陽。聖騎士の装い。
ジークベルト・ヴィンターハルトだった。
四年前、私が牢で婚約の取り消しを告げて、別の男の腕に寄り添って見捨てた男。父が偽りの証言で一族ごと処刑台へ送った、その家の生き残り。処刑の日、見物席から、いちばんいい眺めで両親の最期を見物してあげた男。
その男が、聖騎士になって、私を買い戻しに来た。
私は、泣いてみせた。
泣くのは得意だ。小さいころから、泣けば何でも手に入った。父も、母も、乳母も、家庭教師も、私が涙をひと粒こぼせば、何でも言うことを聞いた。こつは、すぐに顔を覆わないこと。睫毛の先に涙をためて、相手の目を見たまま、ひと粒だけ落とすの。
「ジークベルト。どうして、私なんかを」
声を震わせて、それだけ言った。
あの人は、自分の白い外套を脱いで、私の肩にかけた。
「もう大丈夫だ。私が守る」
ああ、と思った。
あの人、何も変わっていない。
王都の夜会で初めて会った夜、扇に肘が当たっただけで、耳まで赤くなっていた十八の若様。あのころと同じ目で、私を見ていた。
家族を殺した男の娘を、自分の手で救い出して、自分の屋敷に連れて帰る。物語の騎士みたいな顔をして。金貨百枚よ。屋敷の一年分を、売れ残りの女ひとりに。
あの人の腕の中で、笑いをこらえるのが大変だった。肩が震えたのを、あの人は泣いているせいだと思ったみたい。ますます強く抱きしめてくれた。
屋敷に着いた夜、医者が来て、熱いお湯で体を拭かれて、いちばん柔らかい毛布にくるまれた。あの人は一晩じゅう、寝台の脇の椅子から離れなかった。
夜明け前、開いた扉の向こうの廊下を、灰色のお仕着せの女が通った。
耳飾りが、ちりっと熱くなった。
殿下にいただいた魔道具。認識阻害の術をまとった者がそばにいると、熱くなって教えてくれる。四年前の夜会の庭でも、そうだった。垣根の向こうに、誰かいる。殿下の側近と私の逢い引きを、見ている誰か。
あのときの影。まだ、ここにいたのね。
次の日、私は寝台の上で、あの人の袖をつかんで泣いた。
「ずっと、言えなかったの。牢であなたに言ったこと、本心じゃなかった。父に言わされたの。処刑の日も、目をつぶっていたのよ」
あの人の青い目が、うるんだ。
「お前は何も悪くない。悪いのは全部、侯爵だ」
ばかな人。
あの婚約取り消しも、牢番に握らせた金貨も、父の偽証も、全部、私と殿下で決めたことなのに。父は、ただの使い走り。お父様、ごめんなさいね。首だけは、あなたが引き受けてくれて助かったわ。
その日、ちょうどあの女が茶を運んできた。
「この方は?」
「アマリアだ。私の影だった。今は、屋敷のことを任せている」
黒い髪を、うなじで一本に結んでいる。痩せていて、顔色が悪くて、表情がない。人形みたいな女。
でも、その日の午後じゅう、開いた扉の向こうで、使用人たちがあの女のところへ通っていくのが見えた。執事も、侍女頭も、厩舎の小僧も。帳簿を抱えた商人までが、あの女の前で頭を下げていた。
しかも、あの人の寝室の隣が、あの女の部屋だという。
三日目の夕方、廊下であの女を捕まえた。敷布を抱えて、ひとりで歩いていた。
「あなた、邪魔ね」
顔色ひとつ変えなかった。言い返しもしない。泣きもしない。
おもしろい。
泣かない女を泣かせるのは、泣く女を泣かせるより、ずっと楽しいもの。
その夜、寝台の上で、あの人に甘えた声で聞いた。
「ねえ、ジークベルト。あの影の方、とても有能なのね」
「アマリアか。あれは、よく働く」
「どこで、あんな子を見つけたの?」
「森で拾った。孤児だ」
あの人は、それ以上、何も言わなかった。言う必要もないという顔をしていた。
孤児。森で拾った。よく働く。
それだけ。
あの女が、あの人のためにどれだけのものを差し出してきたのか知らないけれど、あの人の口から出てくるのは、それだけなのね。笑ってしまう。
けれど、私は昼間に廊下ですれ違ったときのことを思い出していた。あの女の左手の手袋の、薬指のつけ根に、小さな輪の形のふくらみがあった。
ふうん。
そういうこと。
次の日、ノエラという侍女頭が私の髪を梳きながら、うっかり口をすべらせた。
「若様とアマリアは、隠れ家にいたころから、ずっと」
言いかけて、口をつぐんだ。私は鏡の中で、にっこり笑ってみせた。
「素敵ね。続きを聞かせて」
ノエラは、二度と口をきかなかった。櫛を持つ手が、かすかに震えていた。
十分だった。
この侍女頭も、いずれ片づけないとね。主人の悪口を言いそうな目をしている。
あの女は、邪魔だ。
この屋敷の鍵を握っている。使用人の心を握っている。あの人の昔を知っている。私が誰と会っているかを、見ることができる。そのうえ、あの人と、結婚の約束までしているらしい。
まずは、その約束から消してあげる。
それから、あの女の居場所を、ひとつずつ。部屋も、鍵も、帳面も、あの人の信用も。最後に、あの女が自分で出ていきたくなるまで。
鏡の中の私は、ふっくらとした頬で、愛らしく微笑んでいた。誰からも愛される、守ってあげたくなる、か弱い令嬢の顔で。
この顔が、私のいちばんの武器だ。
殿下は、そう言って褒めてくださった。
祝宴の夜、私は女主人の席に座った。あの人の隣に。
あの人は、私の杯に手ずから葡萄酒を注いだ。客たちの目が、いっせいに私に集まった。羨む目。値踏みする目。噂を持ち帰る目。どれも、心地よかった。
壁ぎわに、灰色のお仕着せの女が立っていた。
あの人に、杯は私から注げと言わせた。手袋を外せと言ったら、あの人が自分で「影の手など、見て楽しいものではない」と言ってくれた。広間の真ん中で、裾を直させた。あの女は、黙って膝をついた。
ほんとうに、簡単。
あの人は、自分の手で、あの女の首に縄をかけていることに気づいていない。
宴が終わって、客間の鏡台の前で、首の真珠を外した。
あの人が今夜のために贈ってくれた、ひと連なりの真珠。灯にかざすと、ひと粒ひと粒が、とろりと光った。
手のひらの上で、転がしてみる。
ちょうどいい重さ。
明日、あの人に侍女をひとりねだりましょう。口が軽くて、金に弱くて、私の言うことなら何でも聞く娘を。
それから、これを使うの。




