第27話 消えた約束
祝宴の朝、ノエラが私の部屋に来て、黙って手袋の上から左手を握った。
手袋の下には、細い銀の指輪がある。屋敷でそれを知っているのは、ノエラだけだった。
「今夜、旦那様が何かおっしゃるかもしれないわね」
「お客様の前で、そんな話はなさらないわ」
「わからないわよ。聖騎士になったお祝いでしょう。全部取り戻したら、っておっしゃったんでしょう。今夜が、その全部じゃないの」
私は答えずに、エプロンの紐を結んだ。灰色のお仕着せのドレス。鏡台の鏡の中で、結び目を指で確かめる私の頬が、少し赤かった。
聖騎士の叙任を祝う宴だった。
ラーベン子爵も、毛織物商のグレーザーも来る。私が一軒ずつ門を叩いて回った人たちだ。王宮の役人、神殿の神官、ジーク様の昔の剣の師。大広間の長い卓に、四十の席を並べた。料理の数を決め、燭台を磨かせ、葡萄酒の樽を地下から上げさせた。三日、ほとんど眠らなかった。
夕方、最後に広間の席を見回った。
上座の中央が、主の席。その右隣が、屋敷の女主人の席だ。客を迎え、主と並んで乾杯を受ける。
その席には、まだ誰の名札も置かれていなかった。
日が落ちて、客が集まりはじめた。
私は壁ぎわに控えて、給仕の娘たちに目で合図を送っていた。
広間の扉が開いた。
白い外套のジーク様が入ってきた。その腕に、手がかかっていた。
淡い藤色の絹のドレス。蜂蜜色の髪を高く結い上げ、首すじに真珠がひと連なり。十日前にぼろをまとっていた女は、どこにもいなかった。歩くたびに、裾が水の流れのように揺れて、燭台の灯を砕いた。
ヴェロニカは、ジーク様に手を取られて、女主人の席に座った。
広間が、さざなみのようにざわめいた。
「モルゲンロートの、あの」
「聖騎士殿がお救いになったとか。競りの場から、ご自分の外套をかけて」
「なんと情の深い」
「父親は首を落とされたのに、娘は女主人の席か。世の中、わからんものだ」
「しっ。では、いずれは」
誰も、その先を言わなかった。ジーク様も、何も言わなかった。
ヴェロニカは、客が挨拶に来るたびに、恥ずかしそうに目を伏せた。ジーク様が、ヴェロニカの杯に手ずから葡萄酒を注いだ。
乾杯の挨拶で、ジーク様は杯を掲げた。
「父の名誉が戻ったのは、父の人徳と、神の加護のおかげだ。今宵は、それを祝ってほしい」
拍手が起きた。
それだけだった。
壁ぎわで、グレーザーがちらりと私を見た。それから、気まずそうに杯に目を落とした。
上座の杯が空いて、私が葡萄酒の瓶を持って進み出た。
「ヴェロニカの杯から注げ」
ジーク様が言った。客の前で、はっきりと。
私は、ヴェロニカの杯に移った。ヴェロニカが顔を上げた。
「ありがとう、アマリア。あなたがいてくれて、本当に助かるわ。私、こういう大きな宴はまだ怖くて」
隣の神官が、感じ入ったようにうなずいた。
「おやさしい方だ。使用人にまで、あのようにお声をかけて」
ヴェロニカは恥ずかしそうに笑って、それから、私の手もとに目を落とした。
「あら。アマリア、手袋をしたまま給仕するの? お客様の前で、少し失礼じゃないかしら」
近くの客たちが、私の手を見た。
「ねえ、外してみせて。何か、隠しているの?」
手袋の下には、罪人の印がある。左の薬指には、指輪がある。
私は、瓶を持ったまま動けなかった。
「構うな、ヴェロニカ」
ジーク様が、神官との話を中断して言った。
「影の手など、宴の席で見て楽しいものではない」
近くの客が、くすりと笑った。ヴェロニカは「まあ、ごめんなさい」と口もとを押さえた。押さえた指のあいだで、唇の端が上がっていた。
瓶の口が、杯の縁に小さく当たった。私は一礼して、壁ぎわに下がった。
宴の半ば、ヴェロニカが立ち上がって、客に挨拶をして回った。広間の真ん中で、ふと足を止めた。
「アマリア。裾を踏んでしまったみたい。直してくださる?」
私は、客たちのあいだを歩いていった。ヴェロニカの足もとに膝をつき、藤色の絹の裾を整えた。
「ありがとう。あなた、本当に器用ね」
頭の上で、甘い声がした。
「さすが、影ね。床に膝をつくのが似合うわ」
私にしか届かない声だった。
まわりの客たちには、聖騎士の想い人が、やさしく使用人をねぎらっているようにしか見えなかった。
それから、銀の水差しを持って卓のあいだを回った。ラーベン子爵の杯に水を注いだとき、白いひげの老人が、ふと私の手袋を見た。それから、上座の女主人の席を見た。
子爵は、何も言わなかった。ただ、杯の水を一息に飲みほした。そして宴の終わりを待たずに、杖をついて席を立った。
客が帰ったのは、夜半を過ぎてからだった。
ヴェロニカを客間まで送ったジーク様が、書斎へ戻ってくるのを、私は廊下で待っていた。
「ジーク様」
ジーク様は足を止めた。白い外套の金の太陽が、廊下の灯に光った。
「何だ」
「結婚の、お話は」
声が、思ったより小さくなった。
ジーク様は、ほんの少し眉を寄せた。左の眉尻の古傷が動いた。
「その話は、あとだ」
書斎の扉に手をかけた。
「今は、ヴェロニカを落ち着かせるのが先だ。あれは、家族を全部なくしたばかりなんだ」
「私も、家族は」
言いかけて、やめた。
「お前は影だ。待つのには慣れているだろう」
扉が閉まった。
それきり、その話は二度と出なかった。
翌朝、ジーク様はいつもどおり、朝食の前に私を書斎に呼んで、その日の予定を告げた。王宮への挨拶。神殿での祈り。夕方には、ヴェロニカのために仕立て屋を呼んでおくように。
声も、顔も、いつもどおりだった。私が昨夜、廊下で何を尋ねたのかを、覚えていないような顔だった。
「下がっていい」
「かしこまりました」
それから十日のあいだに、屋敷の中の何かが、少しずつ動いていった。
ヴェロニカのために、侍女がひとり新しく雇われた。二十歳そこそこの、鼻の高い娘で、ヴェロニカが自分で選んだ。娘は来た日から、ノエラの言いつけを聞かなかった。
「私は、ヴェロニカ様付きですので」
料理番が、晩餐の献立を客間に伺いに行くようになった。下働きの娘たちは、ヴェロニカの部屋を「奥のお部屋」と呼びはじめた。ハインツは、食堂の主の右隣の席に、毎晩ヴェロニカの椅子を引いた。出入りの仕立て屋は、ヴェロニカの寸法を測り、聖騎士の色である白と金の生地を広げて見せた。
「まるで、花嫁衣装のお色ですわね」
仕立て屋の妻が言った。ヴェロニカは否定しなかった。
誰が言い出したのでもなかった。
ヴェロニカが聖騎士の何なのか、誰もはっきりとは言わない。婚約者とも、恋人とも。ただ、この屋敷で誰よりも大切にされている。それを、屋敷じゅうが見ていた。
十日目の夕方、廊下で、若い下働きの娘がヴェロニカの部屋の前で呼びかけているのが聞こえた。
「奥様、お湯の支度が」
娘は、自分の口を押さえた。それから、くすくす笑いながら言いなおした。
「ヴェロニカ様、お湯の支度ができました」
部屋の中から、ヴェロニカのやさしい声が答えた。
「ありがとう。いいのよ、どちらでも」
その夜、私は部屋の扉に鍵をかけ、衣装箱の底からヴェールを出した。
白い紗の縁に、二年かけて縫った六十ほどの花が、並んでいる。いくつかの花びらには、針で突いた指の血が、茶色い点になって残っていた。
いちばん新しい花の、最後のひと針に、裏から針先をくぐらせた。縫いはじめてから、一度もしたことのない向きだった。
糸を、引き抜いた。
縫い目がひとつほどけて、紗に小さな穴が残った。




