↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「お前は妾で十分だろう」と言われたので、二十四時間後にこの世を去ります  作者: 鷹居鈴野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/61

第26話 ぼろをまとった初恋

 医者が呼ばれた。


 夜中に、ハインツが馬を走らせて、貴族街のいちばん腕のいい医者を叩き起こしてきた。ジーク様はそのあいだ、客間の寝台の脇から離れなかった。


「湯を沸かせ。着替えを。ノエラ、お前が体を拭いてやってくれ。いちばん柔らかい布でだ。いちばんいい毛布を出せ。暖炉の火を絶やすな」


 矢継ぎ早の命令だった。ノエラは「はい」と答えて、ちらりと私を見た。それから、湯の桶を抱えて客間に入っていった。


 私は廊下で、灯を持って立っていた。服の下で、肩の傷がまた湿っていた。


 厨房では、新しく雇ったばかりの下働きの娘たちが、湯を運びながら声をひそめていた。


「旦那様の、初恋の方なんですって」


「侯爵家のお嬢様よ。それが、競りにかけられてたのを、旦那様がお救いになったの」


「まあ。物語みたい」


 客間の扉の向こうから、途切れ途切れに声が聞こえた。


 再審の裁きで、侯爵家の女たちは身分を奪われ、平民に落とされた。ヴェロニカの母は、裁きの翌日に毒をあおって死んだ。ひとり残されたヴェロニカのドレスも宝石も、侯爵家の借金のかたに取り上げられた。最後に借金取りが目をつけたのは、ヴェロニカ自身だった。


 娼館に売られる寸前だったという。娼館とは、女が金で体を売らされる店のことだ。一度入れば、まず出てこられない。


 王宮からの帰り道、ジーク様はその競りの場に行きあわせた。聖騎士として初めて王から賜った金貨を、すべて出して、ヴェロニカを買い戻した。


 金貨百枚。屋敷の一年分の費えだった。


 医者が帰ったのは、夜明け前だった。


 ジーク様は客間から出てくると、廊下に集まっていた私たちを見た。ハインツ。ノエラ。眠そうな目をこすっているカスパル。そして、私。


「しばらく、この屋敷で預かる」


 誰も、何も言わなかった。


「ヴェロニカも、父親に利用された被害者だ。見捨てられない」


 私は、手袋の手を握った。


 書斎の引き出しの奥。指一本ぶんずれていた小箱。雪狼の溝に残っていた、赤い蝋。四年あまり前、私は一度だけ申し上げた。


「ヴェロニカ様が、印章に触れたのかもしれません」


 返ってきたのは、「身の程をわきまえろ」の一言だった。


 あのとき、証はなかった。今もない。


「かしこまりました」


 私は頭を下げた。


 昼すぎ、客間に茶を運んだ。


 ヴェロニカは寝台に起き上がっていた。湯で洗われた金髪が、枕の上で波打っている。ノエラの古い寝間着は大きすぎて、細い肩がのぞいていた。頬はこけていたが、若葉の色の瞳は、あの夜会の夜と同じだった。


 ジーク様が、寝台の脇の椅子に座っていた。


 ヴェロニカは、ジーク様の袖を両手でつかんでいた。寝間着の袖がずり落ちて、白い手首に、縄の赤い痕がのぞいた。ヴェロニカは、それを隠そうともしなかった。


「ずっと、言えなかったの」


 声が震えていた。


「牢であなたに言ったこと、本心じゃなかった。父に言わされたの。逆らったら、家から追い出すって。あの男の人も、父が決めた相手。私、毎晩泣いていたのよ。あなたのお父様と、お母様のことを思って」


 涙が、白い頬を伝った。ひと粒、またひと粒。灯を受けて、真珠のように光りながら落ちていった。


「処刑の日も、父に無理やり連れていかれたの。見たくなかった。ずっと目をつぶっていたわ。本当は、ずっと、あなたを愛していたのに」


 見物席で、砂糖菓子をつまんでいた指が、今、ジーク様の袖を握りしめていた。


「ごめんなさい。ごめんなさい、ジークベルト。こんな私を、どうして」


 ヴェロニカは顔をおおって、肩を震わせた。


 ジーク様は、ヴェロニカの手の上に自分の手を重ねた。


「もういい。終わったことだ」


「でも、私の父が、あなたの家を」


「お前は何も悪くない。悪いのは全部、侯爵だ。お前も、あの男に人生を狂わされた」


 ジーク様の声が、下町でも聞いたことのないほど、やわらかかった。


「もう誰にも、お前に指一本触れさせない。ここにいろ。お前の居場所は、私が作る」


「ジークベルト」


 ヴェロニカが、ジーク様の胸に顔をうずめた。ジーク様の手が、その蜂蜜色の髪を撫でた。


 ヴェロニカの肩ごしに、ジーク様の青い瞳が見えた。濃く、深く沈んでいた。四年前、夜会でヴェロニカを見つめていたときと、同じ色だった。


 私は茶器を卓に置いた。陶器の触れあう、小さな音がした。


 ヴェロニカが、こちらを見た。


 涙に濡れた目のまま、私の顔を見て、手袋を見て、それからまた顔を見た。泣いているはずの瞳が、一瞬だけ、品物の値をはかる目になった。


「この方は?」


「アマリアだ。私の影だった。今は、屋敷のことを任せている」


「まあ」


 ヴェロニカは、弱々しく微笑んだ。


「よろしくね、アマリア。ご迷惑をかけて、ごめんなさいね」


「アマリアは、迷惑などと思う女ではない」


 ジーク様が、私のかわりに答えた。


 台所に戻ると、ノエラが鍋の前で待っていた。


「あの方、牢にいる若様に、婚約はなかったことにって言いに来た方でしょう。下町でも噂になってたわ。処刑の日には、見物席で笑ってたって」


「ジーク様がお決めになったことよ」


「アマリア」


 ノエラは木べらを置いて、私の顔をのぞきこんだ。


「あなた、それでいいの」


 私は、かまどの火に薪を一本足した。


「スープが焦げるわ」


 ノエラはため息をついて、鍋をかき混ぜはじめた。


 カスパルは、厩舎の前で木剣を振っていた。私を見ると、手を止めた。


「姉さん。騎士様、あの人のこと、好きなの?」


「さあ。どうして」


「だって、あの人を抱えて帰ってきたとき、騎士様、ぼくの顔も見なかった。姉さんの顔も」


 カスパルは、また木剣を振りはじめた。いつもより、振りが乱暴だった。


「ぼく、あの人、嫌いだ。泣いてるのに、目が笑ってた」


 その日の午後から、ヴェロニカの目は私を追いはじめた。


 ハインツが、食料庫の鍵をどこに置くか私に尋ねに来た。ノエラが、新しく雇う下働きの娘たちの名を書いた紙を、私に見せに来た。カスパルが、厩舎の馬に何を食べさせればいいかを聞きに来た。出入りの商人は、帳面を私の前に広げた。


 そのたびに、客間の開いた扉の奥から、若葉色の瞳がこちらを見ていた。


 その夜も、塀の石に魔力を注いだ。部屋に戻ってから、衣装箱の底のヴェールを広げ、縁の花をひとつ縫い進めた。


 隣の寝室の扉が開く音は、夜が明けるまで聞こえなかった。ジーク様は、客間の椅子で夜を明かしたらしかった。


 三日目の夕方、私は二階の廊下で、洗いあがった敷布を運んでいた。


 客間の扉が開いた。


 ヴェロニカが、ひとりで立っていた。ノエラが繕った淡い桃色の部屋着を着て、髪をゆるく結い上げている。もう、ぼろをまとった女には見えなかった。頬には、ほんのりと血の色が戻っていた。


 廊下には、ほかに誰もいなかった。


「ねえ」


 さっきまでの、か細い声ではなかった。蜜を舐めたような、低い声だった。


「あの人の部屋の隣、あなたの部屋なんですってね」


 私は答えなかった。


「影って、そんなところで寝るの。寝台のお世話まで、するのかしら」


 ヴェロニカは、私の抱えた敷布の端をつまんで、鼻に近づけた。


「下町の匂いがする。この屋敷、どこもかしこも貧乏くさいのよね。あなたの匂いかしら」


 それから、私の手袋を見た。敷布を抱えた腕と、うなじの結び目を、順に眺めた。


「鍵も、帳面も、使用人も。この家、全部あなたが回してるのね。ジークベルトの寝間着の替えまで」


 ヴェロニカは、くすりと笑った。


「でも、知ってる? あの人、私を抱いて帰ってきた夜、あなたのほうを一度も見なかったのよ。私、ちゃんと見てたの」


 口の端だけが、きゅっと上がった。目は、少しも笑っていなかった。


「あなた、邪魔ね」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。