第26話 ぼろをまとった初恋
医者が呼ばれた。
夜中に、ハインツが馬を走らせて、貴族街のいちばん腕のいい医者を叩き起こしてきた。ジーク様はそのあいだ、客間の寝台の脇から離れなかった。
「湯を沸かせ。着替えを。ノエラ、お前が体を拭いてやってくれ。いちばん柔らかい布でだ。いちばんいい毛布を出せ。暖炉の火を絶やすな」
矢継ぎ早の命令だった。ノエラは「はい」と答えて、ちらりと私を見た。それから、湯の桶を抱えて客間に入っていった。
私は廊下で、灯を持って立っていた。服の下で、肩の傷がまた湿っていた。
厨房では、新しく雇ったばかりの下働きの娘たちが、湯を運びながら声をひそめていた。
「旦那様の、初恋の方なんですって」
「侯爵家のお嬢様よ。それが、競りにかけられてたのを、旦那様がお救いになったの」
「まあ。物語みたい」
客間の扉の向こうから、途切れ途切れに声が聞こえた。
再審の裁きで、侯爵家の女たちは身分を奪われ、平民に落とされた。ヴェロニカの母は、裁きの翌日に毒をあおって死んだ。ひとり残されたヴェロニカのドレスも宝石も、侯爵家の借金のかたに取り上げられた。最後に借金取りが目をつけたのは、ヴェロニカ自身だった。
娼館に売られる寸前だったという。娼館とは、女が金で体を売らされる店のことだ。一度入れば、まず出てこられない。
王宮からの帰り道、ジーク様はその競りの場に行きあわせた。聖騎士として初めて王から賜った金貨を、すべて出して、ヴェロニカを買い戻した。
金貨百枚。屋敷の一年分の費えだった。
医者が帰ったのは、夜明け前だった。
ジーク様は客間から出てくると、廊下に集まっていた私たちを見た。ハインツ。ノエラ。眠そうな目をこすっているカスパル。そして、私。
「しばらく、この屋敷で預かる」
誰も、何も言わなかった。
「ヴェロニカも、父親に利用された被害者だ。見捨てられない」
私は、手袋の手を握った。
書斎の引き出しの奥。指一本ぶんずれていた小箱。雪狼の溝に残っていた、赤い蝋。四年あまり前、私は一度だけ申し上げた。
「ヴェロニカ様が、印章に触れたのかもしれません」
返ってきたのは、「身の程をわきまえろ」の一言だった。
あのとき、証はなかった。今もない。
「かしこまりました」
私は頭を下げた。
昼すぎ、客間に茶を運んだ。
ヴェロニカは寝台に起き上がっていた。湯で洗われた金髪が、枕の上で波打っている。ノエラの古い寝間着は大きすぎて、細い肩がのぞいていた。頬はこけていたが、若葉の色の瞳は、あの夜会の夜と同じだった。
ジーク様が、寝台の脇の椅子に座っていた。
ヴェロニカは、ジーク様の袖を両手でつかんでいた。寝間着の袖がずり落ちて、白い手首に、縄の赤い痕がのぞいた。ヴェロニカは、それを隠そうともしなかった。
「ずっと、言えなかったの」
声が震えていた。
「牢であなたに言ったこと、本心じゃなかった。父に言わされたの。逆らったら、家から追い出すって。あの男の人も、父が決めた相手。私、毎晩泣いていたのよ。あなたのお父様と、お母様のことを思って」
涙が、白い頬を伝った。ひと粒、またひと粒。灯を受けて、真珠のように光りながら落ちていった。
「処刑の日も、父に無理やり連れていかれたの。見たくなかった。ずっと目をつぶっていたわ。本当は、ずっと、あなたを愛していたのに」
見物席で、砂糖菓子をつまんでいた指が、今、ジーク様の袖を握りしめていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい、ジークベルト。こんな私を、どうして」
ヴェロニカは顔をおおって、肩を震わせた。
ジーク様は、ヴェロニカの手の上に自分の手を重ねた。
「もういい。終わったことだ」
「でも、私の父が、あなたの家を」
「お前は何も悪くない。悪いのは全部、侯爵だ。お前も、あの男に人生を狂わされた」
ジーク様の声が、下町でも聞いたことのないほど、やわらかかった。
「もう誰にも、お前に指一本触れさせない。ここにいろ。お前の居場所は、私が作る」
「ジークベルト」
ヴェロニカが、ジーク様の胸に顔をうずめた。ジーク様の手が、その蜂蜜色の髪を撫でた。
ヴェロニカの肩ごしに、ジーク様の青い瞳が見えた。濃く、深く沈んでいた。四年前、夜会でヴェロニカを見つめていたときと、同じ色だった。
私は茶器を卓に置いた。陶器の触れあう、小さな音がした。
ヴェロニカが、こちらを見た。
涙に濡れた目のまま、私の顔を見て、手袋を見て、それからまた顔を見た。泣いているはずの瞳が、一瞬だけ、品物の値をはかる目になった。
「この方は?」
「アマリアだ。私の影だった。今は、屋敷のことを任せている」
「まあ」
ヴェロニカは、弱々しく微笑んだ。
「よろしくね、アマリア。ご迷惑をかけて、ごめんなさいね」
「アマリアは、迷惑などと思う女ではない」
ジーク様が、私のかわりに答えた。
台所に戻ると、ノエラが鍋の前で待っていた。
「あの方、牢にいる若様に、婚約はなかったことにって言いに来た方でしょう。下町でも噂になってたわ。処刑の日には、見物席で笑ってたって」
「ジーク様がお決めになったことよ」
「アマリア」
ノエラは木べらを置いて、私の顔をのぞきこんだ。
「あなた、それでいいの」
私は、かまどの火に薪を一本足した。
「スープが焦げるわ」
ノエラはため息をついて、鍋をかき混ぜはじめた。
カスパルは、厩舎の前で木剣を振っていた。私を見ると、手を止めた。
「姉さん。騎士様、あの人のこと、好きなの?」
「さあ。どうして」
「だって、あの人を抱えて帰ってきたとき、騎士様、ぼくの顔も見なかった。姉さんの顔も」
カスパルは、また木剣を振りはじめた。いつもより、振りが乱暴だった。
「ぼく、あの人、嫌いだ。泣いてるのに、目が笑ってた」
その日の午後から、ヴェロニカの目は私を追いはじめた。
ハインツが、食料庫の鍵をどこに置くか私に尋ねに来た。ノエラが、新しく雇う下働きの娘たちの名を書いた紙を、私に見せに来た。カスパルが、厩舎の馬に何を食べさせればいいかを聞きに来た。出入りの商人は、帳面を私の前に広げた。
そのたびに、客間の開いた扉の奥から、若葉色の瞳がこちらを見ていた。
その夜も、塀の石に魔力を注いだ。部屋に戻ってから、衣装箱の底のヴェールを広げ、縁の花をひとつ縫い進めた。
隣の寝室の扉が開く音は、夜が明けるまで聞こえなかった。ジーク様は、客間の椅子で夜を明かしたらしかった。
三日目の夕方、私は二階の廊下で、洗いあがった敷布を運んでいた。
客間の扉が開いた。
ヴェロニカが、ひとりで立っていた。ノエラが繕った淡い桃色の部屋着を着て、髪をゆるく結い上げている。もう、ぼろをまとった女には見えなかった。頬には、ほんのりと血の色が戻っていた。
廊下には、ほかに誰もいなかった。
「ねえ」
さっきまでの、か細い声ではなかった。蜜を舐めたような、低い声だった。
「あの人の部屋の隣、あなたの部屋なんですってね」
私は答えなかった。
「影って、そんなところで寝るの。寝台のお世話まで、するのかしら」
ヴェロニカは、私の抱えた敷布の端をつまんで、鼻に近づけた。
「下町の匂いがする。この屋敷、どこもかしこも貧乏くさいのよね。あなたの匂いかしら」
それから、私の手袋を見た。敷布を抱えた腕と、うなじの結び目を、順に眺めた。
「鍵も、帳面も、使用人も。この家、全部あなたが回してるのね。ジークベルトの寝間着の替えまで」
ヴェロニカは、くすりと笑った。
「でも、知ってる? あの人、私を抱いて帰ってきた夜、あなたのほうを一度も見なかったのよ。私、ちゃんと見てたの」
口の端だけが、きゅっと上がった。目は、少しも笑っていなかった。
「あなた、邪魔ね」




