第24話 侯爵家の断罪
証拠は偽物だ、と侯爵は言った。
ラーベン子爵が王に取り次いでくれた再審の願いは、最初の審問で止まった。
「下町の酔いどれ代書屋の言うことなど、誰が信じますか。罪人の残党が、金で書かせた作り物でございましょう。侯爵家の名にかけて、そのような指図をした覚えはございません」
侯爵は、王の前で胸を張った。居並ぶ貴族たちのあいだから、くすくすと笑いが漏れた。
言葉と言葉のぶつかり合いになった。
そこで、ジーク様は神前決闘を願い出た。
神前決闘とは、神殿の前の広場で、争う二人が剣を交える決闘のことだ。神は正しい側を勝たせる、とこの国では信じられている。勝った者の言い分が、神の裁きとして認められる。
侯爵家は、金で剣士を雇った。南の国境で名を上げた傭兵で、これまで一度も負けたことがないという。
決闘の朝、ジーク様は宿の戸口で言った。
「お前は残れ。証人を一人にするな」
隣の部屋では、あの代書屋の老人が眠っていた。裁きの日まで、刺客から守らなければならない。
「ノエラ。カスパルについていてやれ。子ども一人で人ごみは危ない」
「騎士様の初めての試合だもん。いちばん前で見る」
カスパルは、ジーク様に柄を削りなおしてもらった木剣を腰に差していた。靴の紐がほどけていた。ジーク様は戸口で片膝をつき、その紐を結びなおしてやった。
「いちばん前は、剣が飛んでくる。二列目にしろ」
「ちぇっ」
ジーク様は立ち上がり、ノエラを見た。
「勝って戻ったら、もうお前に私の服は洗わせない」
「それは困ります。私の仕事を取らないでくださいまし」
ノエラは笑って、ジーク様の襟を直した。指先が、少し震えていた。
ジーク様は黒い布を外し、銀の髪を朝の光にさらして出ていった。三人の足音が、階段を下りていった。
私は、戸に閂をかけた。寝台の敷布を、細く裂いて積んだ。湯を沸かし、桶を床に並べた。
何が来るのか、私にはわかっていた。
昼の鐘が鳴りはじめた。丘の上の神殿のほうから、風に乗って、地鳴りのような歓声が届いた。
左の肩が裂けた。
刃が通った感触はなかった。ただ、上着の肩が内側から濡れて、熱くなった。声が出そうになって、敷布の端を噛んだ。
遠くで、またどよめきが上がった。
右の脇腹が裂けた。それから左の腕。太もも。
敷布を傷に押しつけた。回復核のない体では、血は止まらない。布はすぐに重くなり、指のあいだからこぼれた。床板の目に、赤い筋が流れこんでいった。
どよめきが上がるたびに、どこかが裂けた。風に乗ってくる歓声が、私の体に刻まれる数を教えた。
五つ目で、膝が床についた。
六つ目で、桶を倒した。湯と血が混ざって、床に広がった。
七つ目のあと、どよめきが、ひときわ大きな歓声に変わった。丘の上で、王都じゅうの鐘が鳴りだした。それきり、新しい傷は開かなかった。
這うようにして、汚れた布を暖炉で燃やした。床の血を拭き、包帯をきつく巻いた。服を替えて、寝台にもぐりこんだ。そこまでで、手が動かなくなった。
階段を駆け上がる足音がした。
「姉さん! 勝ったよ!」
カスパルの声が、戸を叩いた。閂を外すと、カスパルは真っ赤な顔で飛びこんできた。
「すごかったんだよ。神殿の前の広場、人でいっぱいでさ。屋根の上にまで人がのぼってた。相手の剣士、熊みたいにでっかいの。最初に、罪人の剣など三合で折ってやる、って笑ったんだ。みんなも笑った」
カスパルは、木剣を振りまわして見せた。
「そしたら、騎士様、何回も斬られたんだよ。ほんとに。肩も、腕も、脇腹も。ざくって音がしたのに、血が一滴も出ないんだ。服だけ裂けて、下の肌は真っ白なまんま。七回目で、相手の剣士、真っ青になって剣を落としてさ。化け物だって、腰を抜かしたんだ」
「広場じゅう、しんとしちゃったのよ」
ノエラが、カスパルのうしろで息を整えながら言った。
「そのあと、神官様が出てきて、杖を上げて。この者は、神の加護を受けている、って。そうしたら、もう、地面が揺れるみたいな騒ぎで。さっきまで罪人って罵ってた人たちが、膝をついて拝んでるの」
ノエラは言葉を切って、私の額に手を当てた。
「あなた、ひどい熱」
「少し、寝ていれば治るわ」
ノエラは、床板の目に残った赤い色を見た。何か言いかけて、唇を結び、水を汲みに行った。
その晩、ジーク様は遅くに戻った。酒の匂いがした。寝台の端に腰かけ、自分の腕を灯にかざして見せた。
「見ろ。傷ひとつない。神殿が、私に加護があると認めた」
私は、上掛けの下で、包帯の上から肩を押さえていた。
「はい。おめでとうございます」
「神は、見ていたんだ。ヴィンターハルトが正しかったことを」
ジーク様は、私の顔を見た。
「顔が赤いな。風邪か。早く治せ。三日後は再審だ。お前にも来てもらう」
それだけ言って、自分の寝床へ戻っていった。
三日後、王の前で再審が開かれた。
私は傷を服の下に隠して、広間のいちばん後ろに立った。立っているだけで、包帯の下がずきずきと脈打った。
代書屋の老人が証言台に立ち、家令の指図書が読み上げられた。神の加護を受けた者の訴えを、もう誰も笑わなかった。
侯爵は、見る間に顔色を失っていった。白いものの混じった金髪が、汗で額に張りついていた。
「陛下、これは罠でございます。この老人は買収されて」
「では侯爵、これは何だ」
王の手の中で、侯爵家の家紋の入った封筒が揺れた。侯爵の唇が、言葉の形のまま止まった。
広間の貴族たちが、ざわめいた。
「侯爵家の家紋だ」
「言い逃れはできんな」
「先月まで、あの家の夜会に入りびたっていたのは誰だったかね」
一度だけ、侯爵の目が、広間の上の段に動いた。すがるような目だった。
王族の席だった。栗色の巻き毛の青年が、肘掛けに頬杖をついて、穏やかに微笑んでいた。胸に、黒い百合の飾り。第二王子フェルディナント殿下だった。
殿下は、侯爵の目を受けて、小さくあくびをした。それから、王のほうへ身を乗り出した。
「父上。モルゲンロートには、心底失望いたしました。忠臣の家をおとしめるなど、王家への侮辱です。厳しいお裁きを」
殿下は、侯爵を見下ろして微笑んだ。
「侯爵。見苦しいよ。罪を認めるなら、潔くしたまえ。残される奥方と娘御のためにもね」
侯爵の肩が、がくりと落ちた。
目を伏せた侯爵の膝が、赤い絨毯の上に崩れた。
「すべて、私ひとりが企んだことでございます」
それから侯爵は、震える声で、自分の罪をひとつ残らず並べた。密約の手紙を書かせたこと。偽りの証言をしたこと。牢へ刺客を送ったことまで。
第二王子の名は、一度も出なかった。
とかげは、危ないときに自分の尻尾を切って逃げる。侯爵家は、切り捨てられた尻尾だった。切られた尻尾は、何も言わない。
王の裁きが下った。モルゲンロート侯爵家は取りつぶし。男たちは処刑。女たちは身分を奪われ、平民に落とされる。
衛兵が、侯爵の胸から家紋の飾りをむしり取った。つい先日まで夜会で杯を掲げていた手が、今は絨毯をつかんで震えていた。引きずられていく侯爵の靴が片方脱げて、広間に転がった。誰も拾わなかった。
読み上げられた名の中に、侯爵の娘、ヴェロニカ様の名があった。
前に立つジーク様の背中が、ほんの少しだけ固くなった。
上の段では、第二王子が王に何か囁き、楽しそうに笑っていた。
黒い百合の書き付けは、裁きには出さなかった。半分欠けた封蝋ひとつで王子を訴えれば、ほかの証拠まで疑われる。ラーベン子爵にも、そう止められていた。
宿へ戻ってから、私はその書き付けを、ジーク様の前に置いた。黒い百合の封蝋。殿下のご意向により。
「本当の黒幕は、第二王子です。今日も、侯爵は殿下の顔を見てから、罪をかぶりました」
ジーク様は紙に目を落とし、しばらく黙っていた。
それから、書き付けを私のほうへ押し戻した。
「侯爵家は滅んだ。もう終わったんだ」
「ですが」
「アマリア」
その声は、怒ってはいなかった。疲れていた。
「王子を相手に、何ができる。父上と母上の名は戻った。今は、それでいい。これ以上、私の勝ちに水を差すな」
その夜、ジーク様は私を抱きしめた。
「灯を消してください」
いつものことだったから、ジーク様は何も聞かずに燭台を吹き消した。暗い中で、ジーク様の指が包帯の端に触れないように、私はその手を自分の頬へ導いた。
耳もとで、ジーク様が言った。
「これで、お前と結婚できる」
ジーク様の胸が、笑うように小さく揺れた。
「もう、薬は飲まなくていい」
その夜、私は台所へ下りなかった。
私は、この夜に身ごもった。




