第23話 味方を集める
ラーベン子爵家の門の前で、雨が降りだした。
冬の雨だった。下町に隠れて、五度目の冬になっていた。肩に落ちたしずくが、すぐに外套の下まで染みてくる。門番は私の顔を見て、三度目の同じ返事をした。
「旦那様は、お会いにならない」
「お待ちします」
「朝まで降るぞ」
「はい」
「物好きな女だ。罪人の家の使い走りが、子爵様の門の前で凍え死んでも、誰も弔っちゃくれんぞ」
門番は肩をすくめて、詰め所の扉を閉めた。中から、仲間と笑い合う声が漏れてきた。
結婚しようと言われた夜から、二年がたっていた。そのあいだ、ジーク様は偽の名で隊商の護衛や傭兵の仕事を請け、街道と国境の砦を行き来して、剣の腕を錆びつかせなかった。私は下町の情報網を貴族街の裏口から港の倉まで広げ、伯爵家に恩のある人を、一人ずつ探しあてていった。
ジーク様の父君、先代のヴィンターハルト伯爵は、北の国境の軍を預かっていた。ラーベン子爵のひとり息子は、その軍で戦い、雪の中で死にかけたところを、伯爵みずから背負って救われたという。下町の古い兵隊たちの昔話で、私はそれを知った。
伯爵家の名誉を取り戻すには、王に再審を願い出なければならない。罪人に落ちた者の願いを、王の前まで運んでくれる貴族がいる。証人を匿い、裁きの日まで守る金も要る。
ジーク様は、まだ誰にも頭を下げに行けない。顔を知られれば、また刺客が来る。
だから、私が行った。
この二年で、十一軒の門を叩いた。
北の軍に毛織物を納めていた商人のグレーザーは、一度目は私を店先で追い返した。二度目に訪ねたとき、帳場の奥から古い帳面を出してきた。
「伯爵様は、うちの毛織物を一度も値切らなかった。不作の年も、前金で払ってくださった」
グレーザーは帳面を閉じて、黙って金貨の袋を机に置いた。
「娘さん、これはあんたに預ける。あんたが持ってきた話だからな」
断られた家のほうが、ずっと多かった。
ある男爵家では、客間に通されたあと、一刻待たされて、奥方が扇を手に出てきた。
「ヴィンターハルト? ああ、あの首の落ちた家。まだ吠えている犬がいたのね」
奥方は、召使いに水差しを持ってこさせた。
「お茶も出さずに帰すのは、失礼でしょう」
頭から、水をかけられた。冬の井戸の水だった。召使いたちが、袖で口を押さえて笑っていた。
ある伯爵家では、門の前で犬をけしかけられた。外套の裾を食いちぎられ、石畳に転がった私を、門の内側で下男たちが指さして笑っていた。
「罪人の家の名を出すな。うちまで疑われる」
ある商家では、帳場の主人が、私の手袋を見て鼻で笑った。
「その手の下に、何を隠してる。烙印か? 罪人が罪人の使いをしてるのか。世も末だな」
そのたびに、私は頭を下げて、門を出た。
雨が強くなった。
門の灯が消え、屋敷の窓の灯もひとつずつ消えていった。私は門の脇の石壁にもたれずに立っていた。もたれれば、眠ってしまう。
夜半、一台の馬車が通りを走ってきた。車輪が水たまりを割って、泥水が私の頭から裾までを叩いた。窓の中で、着飾った娘たちの笑い声がはじけた。
「見た? 門の前に、濡れ鼠が立ってた」
「乞食よ。子爵様のお情けを待ってるんだわ」
馬車は、笑い声をのせたまま遠ざかっていった。
二階の窓に、灯がひとつだけ残っていた。カーテンのすきまから、誰かが見下ろしていた。カーテンは、すぐに閉じられた。
夜明け前、胸の奥がいつものように冷えた。処刑台でかけられた呪いが、黒い糸のように胸の中でかすかに動く。息が浅くなり、膝が震えた。濡れた外套の下で、腹の右側の古い傷が、また血をにじませているのがわかった。
倒れない。ここで倒れたら、明日からこの門の前には立てない。
手首に巻いた黒い紐を、握りしめた。
空が白みはじめたころ、門が開いた。
出てきたのは、門番ではなかった。白いひげの、杖をついた老人。子爵その人だった。
「一晩、そこにいたのか」
「はい」
「夜中に馬車が泥をかけていったのも、見ておった。それでも、帰らなかったな」
「はい」
「ヴィンターハルトの息子は、来ないのか」
「今は、まだ」
老人は、私の濡れた髪と、手袋の指先から垂れるしずくを見た。
「伯爵には恩がある。だが、あの息子のことは知らん。顔も見せずに、女ひとりを雨の中に立たせておく男のことはな」
杖の先で、石畳を一度叩いた。
「手を貸すのは、お前がそこに立っていたからだ。覚えておけ」
麦わら亭に戻ると、ノエラが台所で湯を沸かして待っていた。何も聞かずに私の外套を剥ぎ、乾いた布で髪を拭いた。腹の包帯を替えるあいだ、ノエラの唇はずっと白かった。
「次は、私も一緒に立つからね」
「二人で立ったら、目立つわ」
「目立てばいいのよ。若様に言いなさい。あなたがどんな目にあって、この話をもらってきたか」
「言わない」
「アマリア」
「言ったら、あの方は自分で門を叩きに行く。顔を見られたら、また刺客が来る」
ノエラは、布を握りしめたまま黙った。
ジーク様には、こう伝えた。
「ラーベン子爵から、お力添えの申し出がございました。再審の願いを、陛下にお取り次ぎくださるそうです」
ジーク様は窓辺で、カスパルの木剣の柄を削りなおしていた。手を止めて、しばらく黙った。
「グレーザーに続いて、子爵もか」
「はい」
「父上の人徳だな」
目尻に、あの細いしわが寄った。
「父上は、北の兵を一人も見捨てなかった。それを覚えていてくれる者が、まだいる。ヴィンターハルトの名は、死んでいない。こちらから頭を下げるまでもなく、向こうから申し出てくる」
ジーク様は、満足そうに小刀を動かしはじめた。
「お前も、使いご苦労だった」
私は「はい」とだけ答えた。濡れた髪の先から、まだしずくが落ちていた。
決定的な証拠をつかんだのは、カスパルだった。
下町には、私のほかにも代書屋がいる。そのうちの一人、手の震える老人が、四年あまり前の秋にいきなり羽振りがよくなり、すぐに姿を消した。カスパルたちは、その老人を川向こうの酒場で見つけた。
私は代書の客のふりをして、老人の隣に座った。
三杯目の酒で、老人は泣きだした。あの秋、侯爵家の家令に金貨を積まれ、ある手紙を書いた。手本として渡された伯爵の筆跡を、そっくりまねて。隣国の将軍へ宛てた、密約の手紙だった。
「二百何十人も、首を落とされたんだろう。わしの書いた字のせいで。毎晩、夢に出るんだ。殺されると思った。だから、家令の書いた指図書を、全部取っておいたんだ」
老人の家の、かまどの灰の下から、油紙の包みが出てきた。
その夜、宿の机に包みを広げた。家令の筆跡の指図書が七枚。伯爵の筆跡の手本が三枚。侯爵家の家紋の入った封筒。
ジーク様は一枚ずつ灯にかざして、長いあいだ黙っていた。それから、戸口で居眠りしかけていたカスパルを呼んだ。
「お前が見つけたのか」
「酒場の裏で、三晩張ってたんだ」
ジーク様は、カスパルの赤毛の頭に手を置いた。
「よくやった。お前は、いい騎士になる」
カスパルは返事もできずに、欠けた前歯を見せたまま固まっていた。ノエラが、エプロンの端で目もとを押さえた。
皆が眠ったあと、私はもう一度、包みを調べた。
七枚の指図書の下に、もう一枚、小さく折りたたんだ紙が貼りついていた。家令の筆跡ではなかった。細く、流れるような、上等の筆。家令の主人、侯爵その人の字だろう。
紙の端に、封蝋が半分だけ残っていた。
黒い百合。
夜会の庭で、ヴェロニカ様と寄り添っていた男の胸に、同じ飾りがあった。処刑の日、見物席でヴェロニカ様に砂糖菓子を差し出していた男の襟にも。王の二番目の息子、第二王子フェルディナント殿下の紋章だ。王位を狙っていると、下町の酒場でさえ噂される人。
侯爵家の地下で、焼きごての熱の向こうに聞いた声がよみがえった。第二王子殿下に、ご報告を。
燭台を引き寄せて、書き出しの一行を読んだ。
『フェルディナント殿下のご意向により、北の雪狼を片づける』




