第22話 結婚しよう
窓の桟に、雪が積もっていた。
下町に隠れて、三度目の冬が来ていた。
あの夜、手の甲の印のことを聞かれて、私は少し考えてから答えた。
「告発のあった、あのころに。やむをえないことがありまして」
それだけだった。
侯爵家に下働きとして忍びこんだことも、書斎で何を見たのかも、地下で何をされたのかも、話せなかった。侯爵家の名を出せば、ジーク様は、なぜそこに私がいたのかを考える。考えれば、ヴェロニカ様のことに行き着く。ジーク様は今も、ヴェロニカ様だけは自分を見捨てなかったと信じている。
それに、自分のために誰かが傷ついたと知ったら、ジーク様は、きっと自分を責める。
ジーク様は、黙って自分の右手に目を落とした。手の甲に、同じ「罪人」の文字があった。
「そうか。お揃いだな」
それ以上は、聞かなかった。ただ、次の日から、私の手袋が濡れていると、黙って暖炉の前に掛けなおすようになった。
二年と少しのあいだに、いろいろなことが変わった。
肩の上で切った髪は、またうなじで結べる長さになった。結び目を指で確かめる癖も、戻ってきた。
カスパルは背が伸びて、木剣を振る音が重くなった。ジーク様の彫った小鳥や木の匙を市場で売り歩き、売り上げを一枚残らず持って帰ってくる。
「ちょろまかしたら、騎士様の従者になれないもん」
それがカスパルの口癖になった。ジーク様は、そのたびに銅貨を一枚だけ返してやっていた。
「駄賃だ。従者にも給金は出る」
「じゃあ、ぼく、もう従者?」
「見習いの、見習いだ」
二度目の春から、ジーク様は自分の剣を振るようになった。カスパルの相手ではなく、夜明けの井戸端で、ひとりで。うなされて私の手首をつかむ夜は、いつのまにか、ひと月に一度もなくなっていた。
秋口に、ノエラが風邪で三日寝込んだ。私が教会の結界の仕事から戻ると、台所に焦げた匂いが立ちこめていた。ジーク様が、鍋の前で袖をまくっていた。
「かゆというのは、どうして底から焦げるんだ」
「かき混ぜないからです」
「先に言え」
「お聞きになりませんでしたから」
焦げたところを避けてよそったかゆを、ジーク様は自分で隣の部屋へ運んだ。ノエラは「若様のお作りになったものを、もったいなくて」と泣きながら、焦げの匂いのするかゆを全部食べた。熱が下がってからも、ノエラはしばらくその話ばかりしていた。
そして、秋の終わりの夜から、私はジーク様の恋人になった。
何があったのかを、言葉にしたことはない。ある晩、戸口の寝床に戻ろうとした私の手首を、ジーク様がつかんだ。うなされた夜と同じ手だった。けれど、今度は私の顔を見ていた。
「行くな」
あの夜と同じ言葉だった。今度は、私に向けて言っていた。
それから、夜が明ける前に、私は必ず台所へ下りて、薬草を煎じた。
苦い薬湯だった。子を宿さないための薬。伯爵家で草の名と効き方を習い直したから、私にはどの草をどれだけ入れればいいかがわかる。
最初の夜、そうしろと言ったのはジーク様だった。
「今はまだ、子を持てる身ではない」
罪人の名を背負った男の子どもは、生まれたときから罪人の子になる。言われなくても、わかっていた。私は毎回、椀の底まで飲みほした。舌の奥に残る苦さにも、そのうち慣れた。
初雪の日の夕方、ジーク様は布包みを抱えて帰ってきた。
「着てみろ」
ほどくと、淡い青の木綿が出てきた。古着屋の匂いがした。袖口にほつれを繕った跡がある、町娘が祭りの日に着るようなドレスだった。
「これは」
「いいから、着てみろ」
隣の部屋で、ノエラが着替えを手伝ってくれた。背中の紐を結びながら、ノエラは何度も鼻をすすった。
「どうして泣くの」
「泣いてないわよ。あなたにこういう色を着せたかったの、ずっと前から。屋敷でも、ここでも、灰色ばっかり着て」
ノエラは私の髪をほどいて、櫛を入れ、もう一度うなじで結びなおした。結び目に、自分の髪からはずした小さな青いリボンを添えた。
「よし。どこのお嬢様にも負けない」
戸口から、カスパルが首を突っこんだ。
「うわ。姉さん、お姫様みたい」
「のぞかないの」
「騎士様、真っ赤になるよ。賭けてもいい」
「さっさと寝なさい」
ノエラにお尻を叩かれて、カスパルは笑いながら逃げていった。
部屋に戻ると、窓のガラスに私が映っていた。
灰色のお仕着せでも、影の上着でもない。淡い青の裾が、膝の下で揺れている。黒い髪をうなじで結び、右手にだけ黒い手袋をはめた、痩せた女。ガラスの中の顔は、自分でも見たことのない顔をしていた。
ジーク様は暖炉の前の床に座っていた。黒い布を外していて、銀髪に火の色が映っていた。
振り向いて、それきり、何も言わなかった。
長いあいだ、言わなかった。
「似合いませんか」
「いや」
ジーク様は、ようやく目をそらした。耳の先が、火の色よりも赤かった。カスパルの賭けは、当たっていた。
「座れ」
私はジーク様の隣に膝をついた。薪がはぜて、火の粉が煙突へ吸いこまれていく。
ジーク様は、しばらく火を見ていた。
「父上の名誉を取り戻す。ヴィンターハルトの名を、もう一度、陽の当たる場所に出す。何年かかるかわからん」
「はい」
「そのあいだ、お前にはまた苦労をかける。魔力を売らせて、手を荒れさせて。私は、あの台の上で、全部なくした。もう何も持っていない。お前に約束できるものも、ひとつしかない」
ジーク様は、私のほうを向いた。
「全部取り戻したら、結婚しよう」
薪が、もう一度はぜた。
「お前を、妻にする」
返事をしようとして、声が出なかった。
塔で、器と呼ばれて育った。伯爵家で、影と呼ばれて生きてきた。誰かの妻になる日が来るなんて、一度も考えたことがなかった。考えてはいけないことだと思っていた。
私はうなずいた。一度では足りない気がして、何度もうなずいた。膝の上の青い木綿に、ぽつぽつと濃い染みができていった。
「泣くな」
ジーク様の親指が、私の頬をぬぐった。不器用に、二度、三度。
「お前に泣かれると、どうしていいかわからん」
ジーク様が、上着の内側から何かを出した。
細い銀の指輪だった。飾りも石もない、市場の露店に並んでいるような安物。カスパルが売り歩いた木彫りの代金で買ったのだと、あとで知った。
ジーク様は私の左手を取った。
薬指は、千段の石段の雪の日から、曲がったまま伸びない。ジーク様の指が、その曲がった指の上で一度止まった。
「そこで、いいです」
私が言うと、ジーク様は少しずつ、関節を押さないように、指輪をくぐらせた。曲がった指の付け根で、銀の輪が小さく光った。
「似合わんな」
「はい」
「もっといいものを買ってやる。全部取り戻したら、金でも、宝石でも」
「これが、いいです」
ジーク様は笑った。目尻に、細いしわが寄った。
「欲のない女だ」
壁の向こうで、ノエラが鼻をかむ音がした。カスパルの「ほらね」という小さな声もした。ジーク様は額に手を当てて、天井を仰いだ。
その夜も、夜明け前に台所へ下りた。薬湯の椀を、ジーク様は戸口で見ていた。
「すまんな」
「いいえ」
私は苦いものを飲みほした。
部屋に戻って、寝台の下の衣装箱を開けた。
いちばん底に、白い紗が一反しまってある。半年前、魔力を売った稼ぎを少しずつ貯めて、市場の布屋で買ったものだ。何に使うつもりなのか、自分でもはっきりさせないまま、ずっとしまっておいた。
ジーク様は、もう寝息を立てていた。
燭台を引き寄せ、紗を膝に広げた。花嫁が頭からかぶる、長いヴェール。縁には、小さな花を縫い取ろう。
針に糸を通す。曲がった二本の指で布を押さえて、最初のひと針を刺した。
針先が、紗を抜けて、人さし指の腹に入った。
小さな赤い玉が、ふくらんだ。
回復核のない体は、こんな傷さえ塞がらない。指を口に含んでも、離せばまた赤い玉がふくらんでくる。白い紗の端に、小さな点がひとつ、にじんだ。
私は指に布を巻いて、ふた針目を刺した。
それでも私は、幸せだった。




