第21話 名前を呼ばれた日
市場で、牛の骨を一本もらった。
肉屋の娘に、恋文の代書をしてやった礼だった。骨を割って、玉ねぎと干し豆と一緒に、宿の台所でひと晩煮た。灰汁をすくい、塩をひとつまみ。塔の台所で、下働きの女たちが作っていたのを見よう見まねで覚えた味だ。
木の椀によそって、窓辺の机に運んだ。ノエラは自分の椀を持って、いつものように戸口の脇に立った。
若様は匙を取り、ひと口すすって、手を止めた。
「うまいな」
私は盆を抱えたまま、動けなくなった。屋敷で三年、何百回も茶を運んだ。うまいと言われたのは、初めてだった。
若様は、戸口を見た。
「ノエラ。お前も座れ」
「とんでもない。使用人が主と同じ机など」
「主も使用人もあるか。ここは下町の安宿だ。お前の銀貨で借りている。立って食われると、こっちが落ち着かん」
ノエラは椀を抱えたまま、しばらく動かなかった。それから、そばかすの頬を赤くして、椅子の端に浅く腰かけた。
「アマリアも」
椅子は二つしかなかった。若様は寝台の端を顎で指した。私は、そこに座った。
窓の外から、カスパルの声がした。
「なんか、いい匂いがする!」
「嗅ぎつけたわね」
ノエラが笑って、四つ目の椀を出した。カスパルは床にあぐらをかいて、椀に顔をつっこむようにして食べた。
「姉さん、これ、王様のスープだ」
「王様は、牛の骨なんか煮ないわよ」
「じゃあ、王様は損してる」
若様の匙が、ほんの一瞬止まった。それから、残りを一度も休まずに食べた。椀の底に、骨の髄の脂が丸く浮いていた。
「明日も、これがいい」
「骨が手に入ったら」
「手に入れてこい。代書なら、私もできる」
次の日から、若様は肉屋の娘の恋文を、私の代わりに書いた。字があまりに美しすぎて、相手の男が「どこの貴族に頼んだ」と怖がったと、あとで肉屋の娘が笑いに来た。
春になっていた。
若様は、日に一度は外へ出るようになった。黒い布で銀髪を包み、継ぎのあたった上着で、裏の井戸から水を汲み、薪を割る。
ある朝、若様は薪の中から細い枝を二本選んで、一本をカスパルに放った。
「構えてみろ」
カスパルは枝を両手で握って、腰を引いた。
「肘が開きすぎだ。騎士になる者の背中は、まっすぐなんだろう」
自分の言ったことを覚えていてもらえたのに気づいて、カスパルは欠けた前歯を見せて笑った。それから毎朝、宿の裏で、枝の打ち合う乾いた音がするようになった。
「痛っ。今の、ずるい」
「戦場に、ずるいはない」
「ここ、戦場じゃないもん。井戸だもん」
洗濯物を干していたノエラが、声を立てて笑った。
侯爵家の御者が漏らした「もっと大きな方」のことは、まだ若様に話していなかった。誰なのか確かめてからにしたかった。不確かなことを言って、また退けられるのが怖かったのかもしれない。
夜は、相変わらずだった。
私は影として、若様の部屋の戸口に寝床を敷いていた。ひと月に何度か、若様はうなされた。父上、母上、ユリウス。そのたびに私は寝床を出て、肩に手をかけた。
その晩も、そうだった。
目を開けた若様は、しばらく荒い息をついていた。暖炉の燠が、顔の半分だけを赤く照らしていた。
私が手を引こうとしたとき、若様の頭が傾いた。
額が、私の肩に乗った。
汗で湿った前髪が、首筋に触れた。私は動けなかった。影の修行では、剣の受け方も毒の見分け方も習った。けれど、こういうときに手をどこに置けばいいかは、誰も教えてくれなかった。
「少しだけだ」
肩の上で、くぐもった声がした。
「少しだけ、このままでいろ」
燠が崩れて、火の粉が上がった。若様の息が、だんだん深くなる。
やがて若様は顔を上げ、何も言わずに横になった。私は戸口に戻った。肩の上に、まだ重さが残っていた。
それから季節がひとつ、ふたつと移るうちに、若様は少しずつ笑うようになった。
大きな声ではない。カスパルが酒場の亭主の口まねをしたときや、ノエラが市場で値切りに勝って胸を張ったときに、ふっと口の端がゆるむ。そのたびに、目尻に細いしわが寄った。屋敷にいたころの若様にはなかったしわだ。
ある夕方、私は机で帳面をつけていた。若様は向かいで、拾ってきた木切れを小刀で削っていた。昔、退屈しのぎにしていたのと同じ手つきだった。
「何を彫っていらっしゃるのですか」
「カスパルに、木剣の柄だ。枝では手の皮がむける」
木切れは、どう見ても芋の形をしていた。
私は笑ってしまった。声が出たのは、何年ぶりかわからなかった。
若様の手が止まった。
「お前、笑うとそこがへこむんだな」
小刀の柄で、自分の左の頬を指した。
私は手で頬を押さえた。えくぼのことは、塔にいたころ姉に「品がない」と言われて以来、誰にも言われたことがなかった。
「知らなかった。四年も、そばにいたのに」
若様は、また木を削りはじめた。耳の先が、少し赤かった。
「もう一度、笑ってみろ」
「笑えと言われて、笑えるものではありません」
「強情な影だ」
翌朝、芋の形の柄をつけた木剣を受け取って、カスパルは宿の裏を三周走り回った。
「見て、ノエラ姉さん。騎士様が作ってくれた!」
「まあ。立派なお芋」
「芋じゃない!」
井戸端のノエラが、腰に手を当てて若様を見上げた。
「若様。私の物干し竿も、そのうち削っていただけます? もう折れそうで」
「考えておく」
三日後、物干し竿は新しくなっていた。ノエラはそれを撫でて、「曲がってますね」と言い、一日じゅう機嫌がよかった。
次の日の昼、市場から戻ると、若様が階段の上にいた。
「アマリア」
私は次の言葉を待った。茶を、とか、外套を、とか。屋敷にいたころ、私の名前はいつも用事の前についていた。
何も続かなかった。
「何か、ご用でしょうか」
「いや」
若様は、少し困ったような顔をした。
「呼んだだけだ」
階段の途中で、私は立ち止まったままだった。抱えていた籠の中で、林檎がひとつ転がった。
階段の下で、ノエラが洗濯籠を抱えたまま、こちらを見上げていた。
「若様。今のは、何のご用でした?」
「用などない」
「まあ。用もないのに名前を呼ぶのは、お好きな方にだけですよ。私の田舎では」
「お前の田舎の話は聞いていない」
若様は部屋へ引っこんだ。扉の閉まる音が、いつもより大きかった。ノエラは籠を抱えなおして、鼻歌まじりに裏口へ出ていった。
その夜、暖炉の前で若様が言った。
「若様と呼ぶのは、もうやめろ。何の若様でもない。ジークでいい」
喉の手前で、止まってしまう。
「ジーク、様」
「様はいらんと言っている」
「これ以上は、無理です」
「強情だな」
隣の部屋の壁越しに、ノエラの小さな笑い声が聞こえた。ジーク様は咳ばらいをして、黙った。
病院の器を洗う手伝いで、その日は右手の手袋を濡らしていた。乾かすために、暖炉の脇の釘に掛けてあった。私はそのことを忘れていた。
膝の上で、ほころびた上着を繕っていたときだった。
ジーク様の手が伸びてきて、私の右手を取った。
長い指が、手の甲をなぞる。焼けて盛り上がった皮膚の上で、止まった。
侯爵家の地下で押された、「罪人」の印。
「この傷は、どうした」
暖炉の火が、ジーク様の青い瞳の中で揺れていた。その青が、ゆっくりと濃くなっていった。
私は、嘘をついた。




