第20話 下町の隠れ家
宿の扉が叩かれたのは、麦わら亭に来て十日目の朝だった。
短剣に手をかけて、扉を細く開けた。見慣れた顔があった。そばかすの散った頬。栗色の髪をきっちり結い上げ、大きな布包みを背負っている。
「やっと見つけた」
ノエラだった。伯爵家にいちばん長く仕えてきた侍女で、私より八つ年上。屋敷が取りつぶされた日に、ほかの使用人たちと一緒に暇を出されていた。
「下町じゅうの宿に、銀の髪を布で隠した男の人と、髪の短い娘の二人連れはいないかって聞いて回ったの。五軒目で、ここの女将さんが目をそらしたから」
ノエラは私の顔を両手ではさんで、じっと見た。
「なに、この顔色。ちゃんと食べてるの? 食べてないわね。髪までこんなにして」
それから私の肩越しに、窓辺の椅子を見た。麻のシャツに黒い布の頭巾の若様が、顔を上げていた。
ノエラは床に膝をついて、頭を下げた。
「若様。お仕えさせてください。若様をお一人にはできません」
「もう、払う給金はない」
「いただくつもりはございません」
ノエラは包みをほどいた。着替えと、鍋と、小さな革袋。袋の中で、銀貨が鳴った。
「十年分の蓄えです。足りなくなったら、また働きます」
「ノエラ。私は罪人だ。そばにいれば、お前まで石を投げられる」
「石なら、ここへ来る途中で三つ投げられました。伯爵家の侍女だったって、近所に知れてますから。一つもあたりませんでした」
ノエラは胸を張った。
若様は、しばらく何も言わなかった。それから、小さくうなずいた。
その日のうちに、ノエラは隣の部屋も借りた。
ノエラは、若様が牢から着てきたシャツを、何も言わずに洗った。罪人の服だった。袖は裂け、襟には牢の黒い汚れがしみついていた。冷たい水で何度もこすり、裂け目を繕って、若様の枕元に置いた。
「捨てたほうが、よくない?」
私が言うと、ノエラは首を振った。
「若様が、生きて持って帰ってきた服よ」
その夜、ノエラは私の手袋を外させた。烙印を見て、唇を引き結んだ。それから、屋敷にいたころと同じように薬を塗ってくれた。曲がったままの二本の指を、温かい手で一本ずつ包んでさすった。
「伸びるわよ」
私の短い髪を指で梳いて、それだけ言った。
何も聞かなかった。
ノエラが隣の部屋に引き上げたあと、私は窓辺の若様の前に膝をついた。
「若様。これから、どうなさりたいですか」
若様は、窓の外を見ていた。下町の屋根の向こうに、王宮の塔の先が、月の光で白く浮かんでいた。
「北の果てでも、海の向こうでも、名前を変えて静かに暮らす道もございます。若様がそれをお望みなら、私はどこへでもお供します」
もし、若様が望むのが、穏やかな暮らしだったなら。私は迷わず、ユリウス様のことを打ち明けただろう。北の修道院へ、二人で迎えに行っただろう。
若様は、ゆっくりとこちらを向いた。
薄い氷の色の瞳が、燃えていた。
「父上と母上が、首を落とされるのを見た」
低い声だった。
「分家の者たちも。ユリウスも、獄で死んだ。二百八十七人だ。ヴィンターハルトの名を持つ者が、ひと月で、この世からいなくなった。見物人は、焼き栗を食いながら笑っていた」
若様の手が、膝の上で握りしめられた。
「偽りの証言をした者。偽の手紙を作った者。それを命じた者。ひとり残らず、引きずり出す。父上の名を、もう一度、陽の当たる場所に戻す。それまでは、死なない」
復讐の道を行く人のそばに、生きている弟の名を置けば、それは敵に差し出す人質になる。
だから、私は、ユリウス様のことを言わなかった。若様にさえ。
「わかりました。お供します」
私は、深く頭を下げた。
それでも、三人が食べていくにはお金が要った。ノエラの銀貨は、いざというときのために残しておきたかった。
だから、私が働いた。魔力を売ったのだ。
学校の灯りの石、役所の封印の箱、病院の熱を冷ます器、教会の結界。どれも、誰かの魔力を注がなければ動かない。注ぎ手はいつも足りていない。裏通りの賭場や密輸の蔵の結界なら、ひと晩で金貨が出る。けれど闇の仕事は、闇の人間に顔を覚えられる。私は、安いまっとうなほうを選んだ。
朝は学校の灯りの石。昼は役所の封印の箱と、病院の器。夕方から夜中までは、教会の結界の石に手を当てた。空になるまで絞り出しては、次の場所へ歩く。回復核をなくしてから、魔力の戻りは遅い。それでも、毎晩限界まで空にすると、器はまた少しずつ広がっていった。
魔塔に売れば、もっと高く売れる。すぐに、その考えは捨てた。父の手の者は、金を払うより先に私の身柄を押さえるだろう。
帰り道の路地裏で、子どもたちが待つようになった。売れ残りのパンを分けてやったら、次の日には三人になり、十日もすると十人を超えた。
その中に、ひときわ痩せた男の子がいた。
くすんだ赤毛で、前歯が一本欠けている。袖の長すぎる大人の上着を、縄で腰に縛って着ていた。八歳だという。名前は、カスパル。雨の夜、ごみ捨て場の木箱の中で丸くなっていたのを、私が見つけて連れてきた子だった。
カスパルは、いつの間にか私を「姉さん」と呼ぶようになった。そして毎朝、宿の裏口に来ては、自分の黒パンを半分ちぎって二階へ駆け上がっていった。
「はい、あげる」
窓辺の若様の膝に、パンを置く。若様は見向きもしなかった。
「いらん。持って帰れ」
「やだね。あげたもんは、もうおじさんのだもん」
「おじさんではない」
「じゃあ、なんて呼べばいいのさ」
若様は答えなかった。カスパルは気にせず、次の朝もまた来た。
「どうして、あの人にあげるの。自分のぶんが減るでしょう」
私が聞くと、カスパルは鼻をこすった。
「だって、あの人、いつか、えらい騎士様になる人だもん」
「どうしてわかるの」
「背中がまっすぐだから。下町の大人は、みんな背中が曲がってる」
隣の部屋の戸口で、ノエラが吹き出した。
「この子、見る目があるわ。雇いましょう、アマリア」
「お給金は、パンの耳でいいよ」
「まあ、安い」
半月ほどたった朝、若様はパンを受け取った。ひと口かじって、「固いな」と言った。
「でしょ。噛めば噛むほど、あごが強くなるんだ。騎士様には、強いあごがいるんだよ」
「どこで聞いた、そんなこと」
「今、考えた」
カスパルが、歯の欠けた口で笑った。若様の目尻が、ほんの少しだけゆるんだ。牢を出てから初めて見る、笑ったような顔だった。
ノエラが、エプロンで目もとを押さえて、台所へ引っこんだ。
ひと月目の夜、若様が熱を出した。
私は、クロを連れて貴族街を探りに出ていた。戻ると、ノエラが椅子を寝台のそばに引き寄せて、若様の額の布を替えていた。
「休んで、ノエラ。私が代わる」
「いいの。若様が少年のころも、熱の夜はこうしてたのよ。私の手のほうが、慣れてるわ」
夜が明けるまで、ノエラは一度も横にならなかった。
子どもたちは、下町のどこにでも入りこむ。屋敷の裏口にも、酒場の床下にも、貴族の馬車のうしろにも。大人は、汚れた子どもを見ても、そこにいないものとして扱う。
だから私は、子どもたちに頼んだ。パンの代わりに、見たこと、聞いたことを教えて、と。
カスパルが、いちばんよく覚えてきた。
「姉さん、あの貴族のお屋敷に、また黒い馬車が来てたよ。紋章のない、真っ黒いの。夜中にだけ来るんだ」
「どこのお屋敷?」
「川向こうの、でっかい門の家。門に、赤い朝日の飾りがついてる」
モルゲンロート侯爵家だった。
クロも働いた。夜になると窓から飛び立ち、貴族街の屋根を回って、どの窓に遅くまで灯がついていたかを、私の手のひらで短く鳴いて伝えた。月に一度は北の聖ルーエ修道院まで飛んで、ユリウス様の手紙を持ち帰った。
『姉さんへ。ここは寒いけど、パンがおいしいです。毎朝、兄上と姉さんのことをお祈りしています』
読み終えた手紙は、暖炉で焼いた。若様の目にも、ノエラの目にも触れないように。
ある夕方、カスパルが息を切らして路地裏に駆けこんできた。
「姉さん、聞いて。酒場で、侯爵家の御者が酔っぱらってしゃべってたんだ」
「何て?」
カスパルは大人の口まねをして、声を低くした。
「『うちの旦那なんか、ただの使い走りよ。モルゲンロート侯爵家の裏には、もっと大きな方がいる』って」
夕暮れの路地に、冷たい風が吹きこんだ。
侯爵より大きな方など、この国に何人もいない。




