第19話 何も持たない人
王都の南の下町に、「麦わら亭」という古い宿がある。
その二階のいちばん奥の部屋を、ひと月いくらで借りている。宿代は、私の居場所を聞きつけた修道院の神父が、あとから黙って届けてくれた。窓から見えるのは、隣の家の煤けた壁だけ。寝台がひとつと、椅子がひとつ。冬なのに、暖炉の火は夜しか焚けない。
若様は、その椅子に座っていた。
ここへ来て、数日になる。
判決の「追放」とは、貴族の名簿から名前を消されることだった。爵位も、屋敷も、領地も、伯爵家の財産はすべて王家に取り上げられる。貴族街の門は、二度とくぐれない。若様は、ただの平民になった。
平民になっても、若様を消したい誰かは消えない。牢に刺客を送った者は、まだどこかにいる。だから、人の多い下町に紛れることにした。
広場で倒れた私を、若様は自分の腕で宿まで運んだらしい。目が覚めたとき、私は寝台にいて、若様は床で壁にもたれて眠っていた。血のこびりついた両手を、膝の上で開いたまま。
それから、若様はほとんど口をきかない。
朝、私が麦のかゆを作って出すと、半分食べて匙を置く。昼は、窓の外の煤けた壁を見ている。夜は、椅子に座ったまま眠る。
階段の下で、宿の女将が私の袖を引いた。太った腕に、粉がついていた。
「ねえ、あんた。あの男、口がきけないのかい」
「疲れているだけです」
「疲れてるって顔じゃないよ。あれは、魂が抜けた顔だ。うちの亭主が戦から帰ってきたときと、同じ目をしてる」
女将は声を落とした。
「広場の、あの処刑の日から来たんだろう。わけは聞かないよ。でも、首をくくるような真似だけは、うちの部屋でさせないでおくれ」
ご両親の死を、若様は処刑台の上で見ていた。
ユリウス様が獄中で熱病により死んだことも、役人が読み上げるのを聞いた。
私は、ユリウス様が生きていることを、まだ言わなかった。
言えば、若様はきっと会いに行こうとする。北の修道院へ向かう若様のあとを、誰かがつけないとは限らない。ユリウス様の命は、誰にも知られないことで守られている。
言うかどうかは、若様がこれから何を望むのかを聞いてから決めよう、と思った。
だから、黙ってかゆを作った。
三日目の夜、かゆの椀を差し出したとき、若様が初めて口を開いた。
「なぜ、ここにいる」
かすれた声だった。ずっと使っていなかった喉の声。
「影ですから」
「影か」
若様は、短く笑った。笑いには聞こえなかった。
「私には、もう爵位もない。屋敷もない。お前に払う銅貨一枚ない。守るべき家名も、仕えるべき家もない。それとも、主を失った犬は、ほかに行くあてもないか」
椀を持つ指に、力が入った。
「同情なら、いらん。哀れまれるのは、首を落とされるより屈辱だ」
若様は、椀を受け取らなかった。
「好きなところへ行け。お前の顔を見ていると、あの台の上を思い出す」
私は、椀を若様の椅子の肘掛けに置いた。
「冷めないうちに、どうぞ」
それきり、寝台の端に戻って、繕いものを続けた。若様は長いあいだ椀を見ていた。私が針を三度通したころ、匙の音がした。
好きなところへ行け、と言われて、行きたいところを考えてみた。どこも思いつかなかった。
四日目の朝、宿の裏の井戸で、若様の髪を切った。
「座ってください」
「自分でやる」
「刃物は、お渡しできません」
若様は私を見た。私は目をそらさなかった。若様のほうが、先にそらした。黙って、井戸の縁に腰を下ろした。
肩まで伸びてもつれた銀髪に、櫛が通らなかった。少しずつほどいて、襟足にかかる長さで切りそろえた。無精ひげも剃った。剃刀を当てるあいだ、若様は目を閉じて、されるままになっていた。
こけた頬と、左の眉尻の小さな古傷が、ひげの下から出てきた。顔の骨の形が、屋敷にいたころよりはっきり浮いていた。
宿の女将に頼んで、古着の麻のシャツと、継ぎのあたった茶色の上着を手に入れた。若様の肩には少し窮屈だった。最後に、黒い布で銀髪を包んだ。下町で銀の髪は目立ちすぎる。
井戸の水面に、二人が映っていた。黒い布を巻いた、やつれた平民の男。その横に、肩の上で髪を切った、顔色の悪い女。
伯爵家の長男と、その影には見えなかった。
「ひどい顔だ」
若様は、水面に向かって言った。
「どちらがですか」
「両方だ」
ほんの少しだけ、若様の口もとが動いた。すぐに、消えた。
手当てをする傷は、若様の体にはひとつもなかった。
ひと月、鎖につながれていた手首にも、擦れた痕ひとつない。処刑台で槍の柄に打たれた背中も、なめらかなままだった。牢でついたはずの傷は、影の誓約が、全部私のほうへ運んできていた。
だから私にできるのは、湯を沸かして若様の手足を拭くことと、眠れない夜に薬草の湯を煎じることだけだった。若様は黙って腕を差し出した。目は、私を見ていなかった。
私の傷は、何ひとつ変わらなかった。
腹の右側の傷は、毎朝包帯に血をにじませた。背中の鞭の痕も、膝の傷も、手袋の下の烙印も、あの日のまま。左手の小指と薬指は、曲がったまま伸びなかった。
若様が、私の手袋や包帯に目を留めることはなかった。私も、回復核のことは言わなかった。
夜明けには、胸の奥が冷たくなった。
広場で吸いこんだ、あの黒い糸。日が昇る前のひととき、それが胸の奥でかすかに動く。冷えが指先まで広がって、しばらく息が浅くなる。収まったあと、体のどこかが、前の日より少しだけ軽くなっている。
命が、ひと匙ずつ、すくい取られていく軽さだった。
枕の下には、銀の鈴があった。
一度も、鳴らさなかった。
五日目の夕方、市場から戻ると、若様が椅子から立ち上がっていた。窓の外を見ていた。
煤けた壁の上の、細い空を、白い鳥が渡っていくところだった。
「おい」
声をかけられたのは、三日目の夜以来だった。
「はい」
「あの日、広場で倒れていたのは、なぜだ」
私は、買ってきた麦の袋を床に下ろした。
「人ごみに押されて、古い傷が開きました」
「そうか」
若様は、それ以上聞かなかった。窓の外の鳥は、もう見えなくなっていた。
「お前の血は、温かかった」
それだけ言って、若様はまた椅子に座った。
六日目の夜。
暖炉の火が落ちて、部屋が冷えはじめたころだった。
椅子のほうから、うめき声がした。
若様が、眠ったまま肩を震わせていた。額に汗が浮いて、黒い布がずれ、銀髪がこぼれていた。唇が動いている。
「父上、母上」
声が、だんだん大きくなる。
「やめろ。やめてくれ。ユリウスは、まだ子どもだ」
私は寝台を降りた。腹の傷が引きつれたが、かまわなかった。
「若様」
肩に手をかけた。
「若様、夢です。起きてください」
若様が、叫んだ。言葉にならない声だった。処刑台の上で、鐘が鳴ったときと同じ声だった。
次の瞬間、左の手首をつかまれた。
強い力だった。曲がったままの指が、きしんだ。
若様の目が開いていた。けれど、私を見てはいなかった。暗い天井の、どこか遠くを見ていた。
「……行くな」




