第18話 ミッション・コンプリート
目を開けると、何もなかった。
白かった。上も下も、どこまでも。雪の白でも、布の白でもない。光そのものが、やわらかく積もっているような白だった。床があるのかどうかもわからないのに、私はちゃんと立っていた。足もとで、細かい光の粒が、踏むたびに花びらのように舞い上がった。
腹が、痛くなかった。
手を当てる。血もない。右手の甲の烙印も消えていた。左手の小指と薬指が、ふつうに曲がって、ふつうに伸びた。何度も、握ってはひらいた。
背中に、重みがあった。振り向くと、黒髪が腰まで流れていた。牢番に払う金のために切って売ったはずの髪が、うなじで一本に結ばれている。結び目に触れると、いつもの黒い紐の手ざわりがした。
「あ、起きた?」
声のほうを見ると、女の人が立っていた。
光をまとっていた。金色とも銀色ともつかない長い髪が、風もないのに揺れて、揺れるたびに鈴のような音がかすかに鳴る。裾の長い白い衣は、歩くと水面のように波打った。どこか眠たそうな、やさしい目。
「はじめまして。私、女神。名前はいろいろあるんだけど、まあ、女神でいいよ」
「女神、様」
「そう。さっきも言ったけど、もう一回言わせて。これ、言うの好きなんだ」
女神様は、両手をぱちんと合わせた。光の粒が、ぱっと散った。
「ミッション、コンプリート!」
私は、何と答えればいいのかわからなかった。
「私は、死んだのですか」
「うーん、半分くらい? ここは時間が止まってる場所なの。あなたの体は今、広場の石畳の上」
女神様は、何でもないことのように言って、宙に腰を下ろした。椅子はなかった。
「説明するね。あなたの今の人生、実は試練だったの」
「試練」
「魂にはね、ときどきそういうのが回ってくるの。あなたの課題は、二つ。フェニックスを救うことと、ユリウスくんを救うこと」
「フェニックス……?」
「あなたがカラスだと思ってたひな。クロ、だっけ? あの子のことよ」
女神様は、私の肩のあたりを指さした。そこには何もいなかったけれど、いつもクロがとまっている場所だった。
「神獣が弱ると、ああいう姿で身を隠すの。いつまでたっても大きくならないでしょ、あの子。本当は、金色の炎の翼を持ってるんだよ。お屋敷の生き物を全部殺せって命令が出たとき、あなた、腕を槍で裂かれても、あの子を離さなかったよね。あれ、私、見てて叫んじゃった」
腕の傷。兵士の手から、クロを奪い取ったあの日。
「それから、ユリウスくん。浄化の魔核を持った子は、この世界にとって大事なの。あのまま処刑台に上がっていたら、魔核ごと砕かれてた。あなたが牢から連れ出して、修道院に隠したから、あの子は生きてる」
女神様は、指を一本立てた。
「でもね、生きてるだけじゃ、足りなかったの。もし家族がみんな殺されて、ひとりぼっちで生き残ってたら、あの子はいつか、世界ごと憎むようになってた。浄化の力を持った子が闇に落ちると、大変なことになるのよ。清めるはずの力が、ぜんぶ反対に向くから。川も、畑も、人の心も、端から腐っていく」
「闇に」
「そう。だから、最後の鍵は、お兄さんだった。家族がひとりでも生きていれば、あの子は、まっすぐなままでいられる。お兄さんの刑が改められた、さっきのあの瞬間に、ユリウスくんの救いが決まったの。クロと、ユリウスくん。二つそろって、達成」
あの方の刑が改められて、私が石畳に倒れたとき。遠くで聞いた明るい声は、それを告げていたのだ。
「それだけ、ですか」
「それだけ。でも、それができる人って、なかなかいないんだよ。たいていの人は、途中で自分を守るほうを選ぶから。それが普通だし、悪いことでもないんだけどね」
女神様は、少し笑った。
「だからね、あの男の人が助かったのは、ユリウスくんのためのおまけ。あの人そのものは、試練には入ってないの。ついで」
「ついで」
「うん、ついで」
女神様は、悪びれずにうなずいた。私は、少しだけ笑いそうになった。あの方を「ついで」と呼ぶ人に、生まれて初めて会った。
「クロは、これからどうなるのですか」
「あの子は、あなたのそばで、ゆっくり力を取り戻すよ。何年もかかるけどね。大事にしてあげて。って、言わなくてもするか、あなたは」
「若様は」
言いかけて、口をつぐんだ。女神様は首をかしげて、私の言葉を待っていた。
「若様は、この先、幸せになれるのでしょうか」
「ごめん、それは教えられないの。決まりでね。未来のことは、言っちゃいけないことになってるんだ。神様にも、うるさい決まりがいっぱいあるの」
女神様は、申し訳なさそうに眉を下げた。
それから、手を横に振った。
白い空間に、扉が現れた。
背の高い、両開きの扉だった。木目に、金の蔦が絡みついている。すきまから、蜂蜜色の光がこぼれていた。光と一緒に、匂いが流れてきた。焼きたてのパンの匂い。雨上がりの草の匂い。洗いたての敷布を、日なたに干した匂い。
扉が、ひとりでに少しだけ開いた。
向こうに、なだらかな丘が見えた。丘の上に、煙突から細い煙を上げる家がある。窓辺に花の鉢が並んでいた。どこかで、子どもが笑っていた。母親を呼ぶ声と、それに答える、誰かのやさしい声。
「これが報酬。いつでも、幸せになれる別の世界へ生まれ変われる権利。今すぐでもいいよ。あの扉をくぐれば、痛いのも寒いのも、全部終わり。お腹いっぱいご飯を食べて、あったかいお布団で寝て、誰かに、おかえりって言ってもらえる」
おかえり。
その言葉を、私は一度も言われたことがなかった。塔でも。伯爵家でも。
足が一歩、扉のほうへ動いた。
光が、指先に触れた。温かかった。
そのとき、うしろで声がした。
「アマリア」
振り返った。
白い空間の一部が、窓のように切り取られていた。その向こうに、広場が見えた。灰色の雨。石畳。人の輪。広がっていく血。
その真ん中に、私が倒れていた。短い髪が石畳に散って、顔が紙のように白かった。
若様が、私を抱きかかえていた。
「アマリア。おい、アマリア。目を開けろ」
両手が、私の血で赤かった。もつれた銀髪が額に張りついて、その下の目が、私の顔から少しも離れなかった。
「誰か、医者を。頼む、誰か」
追放を言い渡されたばかりの罪人の声に、足を止める者はいなかった。それでも若様は、何度も、何度も、私の名前を呼んでいた。
あの方の口から、私の名前があんな声で出てくるのを、初めて聞いた。
「戻ったら、痛いよ」
女神様が、隣に来て言った。さっきまでの軽い調子のまま、けれど目だけは、少しも笑っていなかった。
「お腹の傷も、手の傷も、全部そのまま。回復核も、もうない。それに、さっきの呪い。あれ、ずっとあなたの中に残る。毎日、少しずつ命を持っていくの」
「はい」
「あの人、あなたが代わりに受けたこと、知らないよ。たぶん、この先もずっと」
「はい」
「ねえ。うしろの扉、もう一回だけ見て」
見なかった。見れば、行きたくなる。
窓の向こうで、若様が私の頬に額を押しつけていた。肩が震えていた。
十五の夜、森で拾われたときのことを思い出した。焚き火のそばで、若様は私の作り話に泣いて、私の膝に木彫りの小鳥を放ってくれた。私の代わりに、はじめて泣いてくれた人。行く場所がないなら、私の影になれ。あの日から、私の行く場所は、ひとつしかなかった。
「辛くても構いません」
自分の声が、思ったより落ち着いていた。
「あの方のそばにいたいんです」
女神様は、しばらく私の顔を見ていた。それから、ふう、と長く息をついた。
「そっか。あなたは、そう言うと思った」
うしろで、扉がゆっくり閉じていく音がした。パンの匂いが、薄れていった。
女神様が、手のひらを差し出した。小さな銀の鈴が乗っていた。
「これ、持ってて。私への連絡用。鳴らせば、すぐ来るから。扉は、なくならないよ。あなたのために、ずっと取っておく」
鈴を受け取った。冷たくて、軽かった。
女神様は、私の手ごと、鈴を両手で包んだ。光の手は、思ったより温かかった。
「わかった? 離れたくなったら、鈴を鳴らして連絡して」
白い空間が、端からほどけていく。
腰まであった髪が、指のあいだからこぼれて、消えた。
目を開けた。
灰色の空。冷たい雨。体じゅうが、焼けるように痛い。
右手の中に、小さくて冷たいものがあった。握りしめると、かすかに鳴った。
若様の顔が、すぐそこにあった。
薄い氷の色のはずの瞳が、深い湖の底のような青に沈んでいた。唇が震えていた。
三年あまり、一度も見たことのない顔だった。今にも泣き出しそうな、子どもみたいな顔。




