第17話 処刑台
夜明け前に、修道院を抜け出した。
「その傷で行けば、死ぬぞ」
神父は、扉の前に立ちふさがった。
「行かなければ、もっと悪いことになります」
神父は長いあいだ私を見て、それから黙って脇へよけた。古い外套を、私の肩にかけてくれた。
腹の右側の傷に包帯をきつく巻き直した。外套は大きすぎて、裾が石畳を引きずった。頭巾を深くかぶって、短い髪と、色のない顔を隠した。
空は、鉛の色をしていた。夜明けになっても、日は昇らなかった。北から吹きおろす風に、細かい霙が混じっていた。
王都の中央広場は、もう人で埋まっていた。
真ん中に、木の処刑台が組まれていた。奥には黒い幕が張られ、その向こうは群衆から見えない。広場の北側には、王宮の鐘楼がそびえていた。台の手すりには、どこから集まってきたのか、カラスが何羽も並んでいた。
この国では、罪人の刑が執行されるたびに、鐘楼の鐘がひとつ鳴らされる。ひとつの鐘は、ひとつの命が終わったしるしだ。
人をかき分けて、前へ進んだ。押されるたびに、腹の傷が引きつれた。クロは外套の内側で、じっとしていた。
焼き栗の匂いがした。広場の端では、見物人目当ての屋台が湯気を上げていた。子どもを肩車している父親もいた。
「北の国境を守ってた家だろう。それが隣国と通じてたとはな」
「二百何十人だってよ。日が暮れるまでに終わるのかね」
「長男は、あの銀髪の男前だろう。もったいねえ」
「おい、賭けるか。本家の三人のうち、誰が最初に泣きわめくか」
笑い声が上がった。
処刑台の正面には、貴族のための見物席が組まれていた。毛皮と絹が並ぶ中に、蜂蜜色の髪が見えた。
ヴェロニカ様だった。
白い毛皮の肩掛け。隣には、襟に黒い百合の飾りをつけた、あの若い貴族の男。牢の前で、いちばん前の席を取ってあると笑っていた二人だった。ヴェロニカ様は、男の差し出した砂糖菓子を指でつまみ、口に運んでいた。
「モルゲンロートのお嬢様だ。元の婚約者の最期を見に来たんだと」
「おやさしいことだ。ほら、ハンカチで目を押さえていらっしゃる」
ハンカチの下の唇が、笑っていた。私のいる場所からは、それが見えた。
太鼓が鳴った。
刑は、夜明けから始まっていた。
分家の人たちが、十人ずつ縄でつながれて、処刑台へ上がっていく。伯爵様の弟君。その奥方。従兄弟たち。夜会で遠くから見かけた顔。名前も知らない、遠い縁者の老人や、私より幼い娘もいた。ひと月、魔力を絞り取られつづけた体は、どれも枯れ木のように細かった。
鐘が鳴った。また鳴った。
私は、数えた。
最初のうち、群衆は鐘のたびにどよめいた。罪人め、と石を投げる者もいた。台の上の娘が、母を呼んで泣いた。その声も、次の鐘にかき消された。
百を過ぎたころ、群衆はもう、どよめかなくなった。二百を過ぎたころには、屋台の前で、子どもが焼き栗をねだって泣いていた。賭けをしていた男たちは、とっくに飽きて酒を回していた。
霙が雨に変わった。鐘の音は、濡れて重くなった。
二百八十三。
最後の鐘が、雨の中に沈んでいった。
残っているのは、本家の三人だけだった。ユリウス様は、もう死んだことになっている。
兵士に引き立てられて、伯爵様と奥様が処刑台に上がった。
伯爵様の髪は、ひと月で真っ白になっていた。それでも背筋は伸びていた。奥様は、伯爵様の腕に手をかけていた。
三年あまり前、泥だらけの私を屋敷に置くことを許してくださった方たちだった。最初の冬、奥様は私に厚い毛織りの肩掛けをくださった。
二人のうしろから、若様も処刑台に引き上げられた。台の端に、ひざまずかされる。
順番を待つ者は、先に死ぬ者を、台の上で見届けさせられる。それも、大逆の刑のうちだった。黒い幕の向こうは、群衆からは見えない。けれど、処刑台の上からは、すべてが見える。
役人が罪状を読み上げた。大逆罪。隣国との密約。
「なお、次男ユリウスは、獄中にて熱病により死亡した」
群衆が、ざわめいた。奥様の肩が、大きく揺れた。
外套の中で、拳を握った。言えない。ここでは、何も。
黒い幕の前で、奥様が一度だけ振り返った。
「ジークベルト」
雨を割って、声が広場に届いた。
「生きなさい。何があっても」
伯爵様が、奥様の肩を抱いた。それから若様を見て、ただ一度、深くうなずいた。
二人は、黒い幕の向こうへ連れていかれた。
若様の顔が、幕のほうを向いていた。目を閉じることは、許されていなかった。兵士が、うしろから若様の髪をつかんで、顔を上げさせていた。
「父上」
若様の声が、かすれた。
「父上、母上」
鐘が、ひとつ鳴った。
若様が、叫んだ。言葉にならない声だった。鎖を引きちぎろうとするように身をよじり、立ち上がろうとした。兵士が槍の柄で、その背中を打ちすえた。
同じ瞬間、私の背中に、重い衝撃が走った。
誓約が、運んできたのだ。若様の背中には、何の痕も残らない。私は外套の中で前のめりになり、前の男の肩に額をぶつけた。
「何だ、酔っぱらいか」
群衆が、どっとどよめいた。見物席で、ヴェロニカ様が男の腕にもたれて、肩を震わせていた。泣いているように見える角度で。
鐘が、もうひとつ鳴った。
どよめきは、さっきより小さかった。どこかで誰かが泣いていた。別の誰かが、罪人めと罵っていた。
伯爵様と奥様は、死んだ。
太鼓が、また鳴った。
若様が、処刑台の中央に引き出された。
もつれた銀髪が、雨に濡れて額に張りついていた。牢で着ていたシャツは、袖が裂けて、片方の肩がのぞいていた。薄い青の瞳は、まだ黒い幕のほうを見ていた。たった今、その向こうで、両親が死ぬのを見た目だった。
その目が、ゆっくりと広場を見渡した。前の列から、うしろの列へ。
見物席で、止まった。
ヴェロニカ様が、ハンカチを目に当てたまま、小さく手を振った。
若様の瞳が、遠目にも濃くなった。
頭巾の陰で、私は顔を伏せた。
首切り役人が、大きな刃を持ち上げた。群衆が、最後の見ものを前に静まりかえった。屋台の主まで、手を止めていた。
そのとき、広場の入口で、馬のいななきが響いた。
「待て! 陛下のお言葉である!」
王家の旗を掲げた使者が、馬で群衆を割って進んできた。泥がはね、人が転がるようによけた。使者は処刑台の前で手綱を引き、巻き物を広げた。
「伯爵家長男ジークベルト・ヴィンターハルト。その罪には疑わしき点がある。よって死罪を免じ、爵位と財産を剥奪のうえ、追放とする!」
群衆が、さっきとは違う声でどよめいた。
「何だよ、ここまで来て」
「金返せ。いちばんいいところだったのに」
「疑わしき点だと? じゃあ、さっきの二百何十人は何だったんだ」
見物席で、ヴェロニカ様のハンカチが、膝の上に落ちていた。その顔から、笑みが消えていた。隣の男が、何かを短く耳打ちした。二人は、群衆が騒いでいるうちに席を立った。
膝が、崩れそうになった。
間に合った。魔塔は、約束を守った。
外套の内側で、クロが身じろぎした。私は布の上から、その小さな背中を押さえた。回復核ひとつで、あの方の首がつながった。安いものだった。
兵士が、若様の鎖を外しはじめた。
そのときだった。
私の三人前に立っていた、灰色の外套の男が、右手を上げた。指のあいだから、黒い糸のようなものが伸びた。まっすぐ、処刑台の若様へ。
呪いだった。
影の修行で、名前だけは教わっていた。人の命を、何年もかけて少しずつ削っていく呪い。かけられた者は、すぐには気づかない。気づいたときには、もう手遅れになっている。
黒い糸が、若様の胸に届く寸前で、向きを変えた。
私のほうへ。
影の誓約だった。主が負う傷や呪いや毒を、影が自分の体で代わりに引き受ける、古い魔術。十六の夜、私が誰にも告げずに結んだもの。
黒い糸が、私の胸に吸いこまれた。
冷たかった。冬の井戸の底に沈められたように、胸の奥から冷えていった。
その冷たさが、腹の傷に重なった。
塞がっていなかった傷が、内側から裂けるのがわかった。外套の下で、包帯が一気に重くなった。
灰色の外套の男は、もう人ごみに紛れて見えなかった。
処刑台の上の若様は、何も気づいていなかった。自分の胸に手を当てることもなく、鎖の外れた手首をさすっていた。
石畳が、近づいてきた。
倒れたとわかったのは、頬に冷たい石が当たってからだった。頭巾がはずれて、短い髪が雨の石畳に広がった。
「おい、女が倒れたぞ」
「血だ。すごい血だ」
人の輪が、私のまわりにできた。
視界が、白く染まっていく。雨の音が遠ざかる。鐘楼のカラスが、いっせいに飛び立つ羽音がした。
その白さの奥から、聞いたことのない声がした。
ひどく明るい、女の人の声。
「ミッション、コンプリート!」




