第16話 刺客
塔の裏口を出たのは、日が落ちてすぐだった。
ノルトハイムの王都までは、馬車でも二日かかる。辻馬車を雇うお金はなかった。
裏口の外の暗がりで、ハンナが待っていた。
「南の国境へ粉を運ぶ荷馬車に、話をつけてあります。粉袋のあいだに隠れていれば、門番にも見つかりません」
「ハンナ。こんなことをして、あなたが叱られる」
「叱られるのには慣れてます。お嬢様が冷めたスープを飲むのを見ているほうが、よっぽどこたえました」
ハンナは、布に包んだ黒パンを私の懐に押しこんだ。
「お嬢様。生きてくださいよ。テオドラお嬢様のためじゃなく」
粉袋のあいだで揺られて、夜明けに国境の川を越えた。そこから先は、行きあう荷馬車を乗り継いだ。
ノルトハイムの王都の門をくぐったのは、塔を出て二日目の日暮れだった。牢は、西の城壁の内側にある。
走ろうとして、足がもつれた。回復核をなくした体は、少し動いただけで息が上がる。膝の傷から、また血がにじんでいくのがわかった。
それでも走った。
貴族街を避けて、下町の路地から路地へ抜けた。酒場の前で、酔った男に肩をつかまれた。
「おう、姉ちゃん。そんなに急いで、どこの男のところだ」
振りほどいた拍子に転んだ。手袋の右手で受け身を取った。烙印が石にこすれて、目の奥が白くなった。うしろで、男たちの笑い声がはじけた。
「見ろよ、這って逃げてくぞ」
起き上がる。また走る。
クロが、少し先の屋根から屋根へ飛び移りながら、ついてきた。ときどき振り返って、短く鋭く鳴いた。急げ、と言っていた。
閉まりかけた古着屋の軒先で、黒い布を一枚買った。最後の銅貨と引き換えに。
牢に着いたのは、真夜中近くだった。
門の前に、牢番が二人倒れていた。息はある。いびきをかいている。そばに酒の瓶が転がっていて、眠り薬の甘い匂いがした。
誰かが、ここを開けておいたのだ。
私は布で顔を覆い、目だけを出して、頭のうしろで結んだ。影の顔は、知られないほうがいい。今夜ここで見られれば、次に動くときの足かせになる。
廊下の奥。若様の牢の扉が、開いていた。
格子窓から月明かりが差しこんでいた。その下に、黒衣の男が立っていた。手に、細い刃。刃の先に、鎖につながれた若様がいた。
ひと月の牢暮らしで、若様の銀髪は肩まで伸び、もつれて額にかかっていた。あごには無精ひげ。頬がこけて、左の眉尻の小さな古傷が、前より目立って見えた。
目だけが、屋敷にいたころと同じだった。薄い氷のような青が、刃の先を少しもそらさずに見ていた。
壁際に追いつめられていた。鎖が短くて、それ以上は下がれない。
「誰に頼まれた」
若様の声は、こんなときでも落ち着いていた。
「侯爵か。それとも、侯爵の後ろにいる誰かか」
「ご明察だが、答える義理はない」
黒衣の男が、布の奥で笑った。
「減刑の審議だそうだな、元伯爵令息。おめでとう。だが、知らせが届く前に、お前は牢で首を吊る。絶望して、自分でな。牢番どもは、そう証言する手はずになっている」
「やってみろ」
若様は、鎖のついた両手を胸の前に上げた。素手で、刃を受けるつもりだった。
「誇り高いことだ。その誇りごと、ここで終わる」
男が、刃を低く構えた。
私は床を蹴った。
考えるより先に、体が動いていた。三年あまり、毎日そう鍛えられてきた。影は、主の前に立つ。
若様と刃のあいだに、飛びこんだ。
腹の右側に、熱いものが入ってきた。
痛みは、少し遅れて来た。焼けた鉄を、腹の中でひねられたようだった。
「何だ、お前は」
黒衣の男が、舌打ちをした。刃を引き抜き、もう一度振りかぶる。
私は、その腕にしがみついた。動く三本の指で、男の手首をつかんでひねる。修行で何百回も繰り返した動きだった。
刃が、石の床に落ちて跳ねた。
「くそ、女か」
男は私を突き飛ばした。壁に背中が当たった。男は落ちた刃に一瞬だけ目をやり、廊下の向こうで鳴った鎖の音に肩を跳ねさせて、闇へ駆け出していった。足音が遠ざかる。
私は床に膝をついた。腹を押さえた手のひらが、生温かく濡れていた。指のあいだから、石の床へ、ぽたぽたと落ちていく。
「おい」
うしろで、若様の声がした。
「お前は、誰だ」
振り向かなかった。
顔の布がずれていないか、指で確かめた。
名乗れば、若様は私の腹の傷を見る。手袋の下の烙印も、曲がった指も。今、それを説明している時間はなかった。牢番たちが、いつ目を覚ますかわからない。
「答えろ。誰の差し金だ。侯爵家の者か。それとも」
若様の声が、少しだけ揺れた。
「ヴェロニカが、よこしたのか」
布の下で、唇を噛んだ。
婚約を破りに来た人の名を、若様は、この暗がりで最初に呼んだ。
「顔を見せろ。命令だ」
鎖が鳴った。若様が手を伸ばしたのが、気配でわかった。届く距離ではなかった。
「待て。怪我をしているのか。おい」
私は、落ちていた刃を拾った。証拠になる。それから、壁に手をつきながら、牢の外へ出た。
背中で、鎖が何度も鳴っていた。
牢番たちは、まだいびきをかいていた。
どこをどう歩いたのか、覚えていない。
気がつくと、下町の修道院の扉に、背中を預けて座りこんでいた。石段に、私の通ってきた跡が、点々と黒く続いていた。
扉が開いた。老神父のしわだらけの顔が、灯の向こうに見えた。
「ひどい血だ。中へ。早く」
それから何日たったのか、わからなかった。
熱が出た。体の内側で、火が燃えていた。腹の傷は、神父が針と糸で縫ってくれた。けれど、塞がらなかった。毎朝包帯を替えるたびに、新しい血がにじんだ。
「普通なら、もう皮が張るころなんだが」
神父が首をかしげた。
私は、何も言わなかった。
熱が少し下がった夜、神父が椀の薬湯を私の口に運びながら言った。
「牢で、刺客騒ぎがあったそうだ。ヴィンターハルトの長男は無事だったと」
椀を持つ神父の手が、私の顔の前で止まった。
「誰かが、間に入って刺されたらしい。黒い布で顔を隠した、小柄な女だそうだ。牢番どもは、その女を探しているよ。刺客の仲間に違いない、見つけたら広場に吊るす、とわめいてな。自分たちが眠りこけていたのを、ごまかしたいんだろう」
私は、薬湯を飲んだ。苦かった。
神父はそれ以上、何も聞かなかった。ただ、私の右手の手袋を外して、烙印に冷たい布を当ててくれた。
「ヴィンターハルトの長男は、その女のことを何か言っていましたか」
自分でも、聞くつもりのない言葉だった。
「さあな。そこまでは知らん」
神父は布を絞りなおした。
私は寝台の上で、天井の染みを数えた。顔を見られなかったのなら、それでいい。何度もそう思おうとした。
夢の中で、何度も若様の声を聞いた。お前は誰だ。ヴェロニカが、よこしたのか。
答えようとして、目が覚める。そのたびに、クロが枕元で、私の顔をのぞきこんでいた。
クロは、私が眠っているあいだに、何度か窓から出ていった。帰ってくると、西の空を向いて、短く鳴いた。若様は無事だと言っているのだと、思うことにした。
ある朝、窓の外で、鐘が三度鳴った。触れ役が来るときの鳴らし方だった。
通りがざわめいた。窓の下を、人が駆けていく足音。子どもの甲高い声。
「処刑だってよ」
「ヴィンターハルトの? いよいよか」
「屋台を出すなら、場所取りは今夜からだぞ」
熱にうかされた耳に、触れ役の声だけが、はっきりと届いた。
「明日、中央広場の処刑台にて、ヴィンターハルト伯爵家当主一家の刑を執行する!」
減刑の審議は、まだ終わっていない。
残り、一日だった。




