第15話 回復核
「承知しました」
答えるのに、時間はかからなかった。
暖炉の薪が、ひとつはぜた。テオドラの笑みが、一瞬だけ固まった。泣いてすがるか、せめて青ざめるのを見たかったのだろう。
「意味、わかって言ってる?」
「はい」
わかっていた。回復核は、胸の奥で魔核と並んで脈打つ、もうひとつの器官だ。傷を塞ぎ、病を退け、使い切った魔力を満たしなおす。それを失った者は、切り傷ひとつが何か月も塞がらない。魔力はなかなか戻らず、傷跡は何年たっても消えない。ひびの入った器のまま、一生を使いつづけることになる。
「あの方が助かるなら、それでかまいません」
「あの方、ね」
姉は、口の中で転がすように繰り返した。それから、手を叩いて笑い出した。
「お母様、聞いた? あの方、ですって。犬が、ご主人様のために胸をくり抜いて差し出すそうよ。泣かせるわね」
「下品よ、テオドラ」
「だって、おかしいんだもの。ねえ、ネフェリア。あなたの主人は、あなたが今ここで這いつくばってること、知ってるの?」
「いいえ」
「知らないの。じゃあ、一生知らないままね。胸に穴をあけて尽くしても、誰も褒めてくれないのよ。かわいそう」
姉は、それがいちばんおかしいというように、肩を揺らした。
「先に言っておくわ。魔塔が陛下に申し上げるのは、一人のことだけ。娘一人の回復核で、一家まるごとは高すぎるもの」
「伯爵様と奥様も、どうか」
「一人よ」
姉は指を一本立てて、私の鼻先で振ってみせた。
「選ばせてあげる。主人か、その父親か、母親か。どれにする? ほら、早く。迷っているあいだにも、処刑の日は近づいてくるわよ」
義母が、扇の陰でくすりと笑った。
「悪趣味ねえ」
「見たいじゃない。この子が、恩人を順番に捨てるところ」
膝の上で、手を握った。動く三本の指だけで。
ユリウス様は、もう北の修道院へ向かっている。残るのは、若様と、伯爵様と、奥様。最初の冬に、毛織りの肩掛けをくださった奥様の手の温かさを、私はまだ覚えていた。
「若様を、お願いします」
声は、震えなかった。震えなかったことが、いちばん恐ろしかった。
「迷いもしないのね」
姉は唇をとがらせ、それから目を細めた。
「恩知らず。拾ってくれたのは伯爵夫妻でしょう? その二人を、今、あなたが処刑台に送ったのよ。よく覚えておきなさい」
その言葉は、胸の奥の、まだ回復核のある場所に、まっすぐ刺さった。
私は顔を上げた。
「ただし、契約を結んでください」
姉の眉が、ぴくりと動いた。義母の扇が、止まった。
「魔塔の契約書で。私の回復核と引き換えに、魔塔は若様を救うために、できることをすべてする。ノルトハイムの陛下に鑑定の結果を届け、刑を改めるよう申し上げる。処刑の日まで、手を引かない」
「器の分際で、私に紙を書けって言うの」
「核を抜いたあとで約束を守る方は、この塔にはいらっしゃいません」
この塔で育った私は、知っている。器から取るものを取ったあとの口約束など、夜が明ける前に忘れられる。
魔塔の契約書は違う。血で名を記し、魔力で封をする。破れば、署名した者の魔核が、内側から焼ける。塔の古い記録には、契約を破って胸から煙を上げて死んだ魔術師の名が、三つ残っている。
姉の瞳の縁に、銀の輪がちらついた。暖炉の炎が、姉の怒りに合わせて低くうなった。
それから、姉は鼻で笑った。
「器のくせに、知恵だけはつけたのね。いいわ、書いてあげる。どうせ守るつもりの約束だもの。あなたの主人の首ひとつ、魔塔には安い買い物よ」
侍女が、黒い革の筒から羊皮紙を取り出した。姉は羽根ペンを走らせながら、わざと声に出して読み上げた。
「ひとつ。ネフェリア・オストヴァルトは、その回復核をテオドラ・オストヴァルトに差し出す。ひとつ。魔塔は、ジークベルト・ヴィンターハルトの命を救うため、なしうることをすべてなす。処刑の日まで、手を引かない。はい、満足?」
姉が指先を針で突き、血で名を記した。家を預かる者として、義母も扇を置いた。
「あの女の子どもと、同じ紙に名を並べるなんて。手が腐りそう」
義母は顔をしかめて指を突き、名を記した。
私も、動く三本の指で針を取った。
ネフェリア・オストヴァルト。三年あまりぶりに、その名を自分の手で書いた。
羊皮紙が、薄く光った。三つの名が、血の赤から金の色に変わり、紙の中へ沈んでいった。胸の奥が、一瞬だけ焼けるように熱くなった。契約が結ばれたしるしだった。
姉は羊皮紙を丸めて、私の頬を軽く叩いた。
「これで、あなたの胸の中身は、私のものよ」
処置は、その夜に行われた。
塔の地下の、白い石の部屋。壁に埋めこまれた灯の石が、青白い光を床に落としていた。魔塔に出入りする高位の神官が呼ばれていた。核を人から人へ移せるのは、神殿で長く修行を積んだ神官だけだ。禁じられてはいない。けれど、差し出す側は命を削られる。
石の台に寝かされた。背中の鞭の痕に、冷たい石がじかに当たった。隣の台には、姉が絹の寝間着で横になっていた。
「ねえ、神官様。ゆっくりやってちょうだい」
姉が、天井を見たまま言った。
「この子、昔から声を出さないの。毒を飲ませても、刺客を送っても。一度くらい、悲鳴を聞いてみたいのよ」
「眠っているうちに終わりますよ」
神官は、どちらの言葉にも顔色を変えなかった。私の胸の上に手をかざす。手のひらが白く光った。
胸の奥で、何かがほどけはじめた。根を張っていたものが、一本ずつ、土から引き抜かれていく。引き抜かれるたびに、体の奥から温かさが抜けて、隣の台のほうへ流れていった。
「ああ、来た」
姉の、うっとりした声がした。
「温かい。これが、あなたの。ずっと、これが欲しかったの」
そこで、意識が途切れた。
目を覚ますと、塔の屋根裏にいた。
三年あまり前まで、私が寝起きしていた部屋だった。暖炉のない、小さな窓がひとつだけの部屋。床に毛布が一枚、敷いてあった。
体が、鉛を詰めたように重かった。起き上がるのに、ずいぶん時間がかかった。
膝が、湿っていた。石段で裂けた膝の傷が、乾きかけていたのに、また開いていた。右手の甲の烙印は、押された日と同じ赤さのままだった。背中の鞭の痕は、薄い筋になりかけていたのに、盛り上がったまま固まっていた。
窓ガラスに、顔が映っていた。唇に色がない。頬の線が、ひと晩で削げていた。
窓の外で、クロが鳴いた。窓を開けると飛びこんできて、私の膝の上で丸くなった。
昼前、盆を抱えて入ってきたのは、白髪まじりの下働きの女だった。私の顔を見て、盆を落としそうになった。
「ネフェリアお嬢様。本当に、お嬢様なんですね」
台所の、ハンナだった。三年あまり前、台所の隅で冷めたスープを飲んでいた私に、焼きたてのパンの端を隠して持ってきてくれた人。
「髪、どうなさったんです。あんなにきれいな黒髪だったのに。それに、そのお膝」
「平気。すぐ止まるから」
止まらないことは、わかっていた。
ハンナは何も言わずに、自分の前掛けを裂いて、私の膝に巻いてくれた。巻きながら、声をひそめた。
「下で、テオドラお嬢様が大はしゃぎですよ。召使いを全部呼び集めて」
階下から、姉の笑い声が上ってきた。
「見て、見て。ナイフで指を切ったのに、もう塞がっているの。ほら、跡もないでしょう」
拍手が起きた。
「まあ、お嬢様、すごい」
「やっぱり、正しい血を引くお方は違いますね」
「逃げた子より、ずっとお似合いですわ」
ハンナは唇を噛んで、盆の上のスープを私の手に持たせた。冷めていなかった。
その日の昼、塔から、ノルトハイムの王宮へ馬車が出た。
夕方のハンナの話では、魔塔の魔術師が三人、ノルトハイムの陛下に申し上げに行ったという。伯爵家の密約の手紙の封には、たしかに伯爵家の魔力が込められている。けれど、蝋には印章の魔力のほかに、押した者の手の魔力もかすかに残る。それは、伯爵のものではない。神殿の魔術師には見分けられない薄い跡まで、魔塔の術なら読み取れる。魔塔の鑑定を、疑う王はいない。
私は屋根裏の窓辺で、待った。
待つあいだに、一度だけ、指先に灯をともしてみた。小さな灯は、すぐに消えた。もう一度ともそうとしても、胸の奥から魔力が上がってこなかった。窓ガラスに映る私の瞳に、銀の輪がうっすら浮かんで、薄れていった。
使った魔力が、戻ってこない。胸の中に、乾いた井戸がひとつ空いていた。
三日目の夕方、テオドラが屋根裏の戸口に現れた。新しい絹のドレスを着て、頬にうっすらと血の色が差していた。私の回復核は、もう姉の体になじんでいた。
「知らせよ。伝令の鳥が運んできたわ」
姉は紙を広げて、もったいをつけるように咳ばらいをした。
「伯爵家長男ジークベルトの死刑は、減刑の審議に入る」
膝から、力が抜けた。床に手をついて、長く息を吐いた。
「よかったわね。契約どおりよ。魔塔は、処刑の日まで手を引かない。あなたの主人の首がつながるところまで、ちゃんと見届けてあげる」
姉は戸口から入ってきて、私の前にしゃがんだ。
それから、私の頬に、そっと手を当てた。
姉の手が、そんなふうに私に触れたことは、一度もなかった。温かかった。私から抜き取った温かさだった。
「ねえ、ネフェリア」
子守歌を歌うような声だった。
「死なないでね」
意味がわからずに見上げると、姉は唇の端だけで笑った。
「移した核はね、もとの持ち主が生きているあいだのほうが、よく働くの。どこかで細い糸がつながっているみたいに。持ち主が死ぬと、少しずつ鈍っていく。お父様の研究で、もうわかっていることよ」
姉の指が、私の頬から首筋へ、ゆっくり下りていった。脈を確かめるように、そこで止まった。
「だから、あなたは私の畑なの。実を取ったあとの畑でも、枯らすと次の実がやせるのよ。どこで、どんなふうに這いつくばっていてもいい。息だけは、していて。わかった?」
姉は立ち上がり、鼻歌を歌いながら階段を下りていった。足音が遠ざかっても、首筋に指の冷たさが残っていた。
この家の者が私を生かしておく理由は、いつも、それだった。
すぐに、クロが騒ぎはじめた。
窓枠に飛び乗り、私の袖をくわえて引く。外へ。南の方角へ。何度も、短く鳴く。
二年半も一緒にいれば、鳴き方で伝わる。クロは、何かを見てきたのだ。
南の、国境の向こうに、若様のいる牢がある。
クロは袖を放し、足につかんでいたものを床に落とした。
黒い布の切れ端だった。刃物に塗る油の匂いがした。
黒い服の誰かが、牢へ向かっている。
減刑の審議が、終わる前に。




