第14話 捨てた家の門
三年あまりぶりに見る魔塔は、記憶よりも低かった。
北の隣国エーレンフェルトの王都、その東の外れに立つ、灰色の石の塔。十五歳の私には、空まで届くように見えていた。塔のまわりの空は、昔と同じに狂っていた。真冬だというのに、塔の足もとだけ陽炎が揺れ、そのすぐ上には、季節はずれの霰が渦を巻いていた。
大神殿のふもとの宿場に、魔塔の紋をつけた馬車が待っていた。それに揺られて、北へ二日。国境の川を渡った。膝の傷は乾ききらず、揺れるたびにズボンの布が皮膚から剥がれた。クロは、私の上着の懐で眠っていた。
三年あまり前、この塔の裏の通用口から、私は一人で逃げ出した。二度と戻らないと決めて。
その門の前に、今、自分の足で立っている。若様の処刑の日まで、残り八日。
正門の前で、門番が槍を交差させた。
「何の用だ。物乞いなら裏へ回れ」
門番の後ろの、磨かれた銅の扉に、私の姿が映っていた。肩の上で不ぞろいに切った黒髪。雪と泥のしみた灰色の上着。裂けた手袋。膝の破れたズボンには、乾いた血が黒くこびりついている。左手の二本の指は、曲がったまま袖口にのぞいていた。
物乞いに見えても、おかしくはなかった。
「ネフェリア・オストヴァルトです。呼ばれて来ました」
その名を口にするのは、塔を出て以来だった。舌の上で、他人の名前のように固かった。
門番は顔を見合わせ、一人が奥へ走った。
中庭を通るとき、洗濯物を干していた下働きの娘たちが、手を止めてこちらを見た。
「ねえ、あれ。逃げたお嬢様じゃない?」
「まさか。あんな、ぼろ雑巾みたいな」
「でも、あの灰色の目。人形の目よ」
「髪がない。売ったのかしら。魔塔の娘が、髪を売るなんて」
「奥様に見つかったら、また扇よ。かわいそうに」
「かわいそう? 旦那様をたぶらかした女の子どもよ。いい気味だわ」
ささやきが、背中に貼りついてきた。
通された廊下は、昔と同じ匂いがした。蝋と、古い紙と、薬草を煮つめた匂い。台所の前を通るとき、隅の小さな腰掛けが目に入った。私が毎晩、一人で冷めたスープを飲んでいた場所。
案内されたのは、義母の居間だった。暖炉で火が赤々と燃えていて、凍傷の指が急な温かさにうずいた。
長椅子に、義母と、姉のテオドラが並んで座っていた。
義母は、少しも変わっていなかった。真珠を編みこんだ髪。孔雀の羽の扇。白粉の下の、薄い唇。その唇が、私を見るなり、汚れたものを見たように歪んだ。
「誰が、これを絨毯の上に通したの。泥がつくわ」
「お母様、私が呼んだのよ」
「あなたが? まあ、物好きね」
義母は扇を開いて、鼻と口を覆った。
「お父様は、南へ遠征中よ。お兄様もお供して、お戻りはひと月先」
テオドラが先に口を開いた。二十一になった姉は、昔より化粧が濃くなっていた。
「あの手紙を出したのは、私。迎えの馬車もね。まず、ノルトハイムの王都の買い付け人から、とんでもなく魔力のこもった黒髪の束が届いたの。お父様の研究室の秤が振り切れたわ。まさかと思って、すぐに手紙と迎えの馬車を出させた。そうしたら今度は、千段参りをした伯爵家の影が魔塔の娘に似ているって、国境の向こうの神殿から噂が回ってきたの」
姉は、私の頭のてっぺんからつま先までを眺めた。
「本当に、あなただったのね。ひどい格好。下水から這い出てきた鼠みたい」
義母は、私には目もくれず、暖炉の火を見ていた。
「伯爵家の影ですって。あの女の子どもが、よその家の犬になっていたなんて。血は争えないわね。母親も、男の足もとに這いつくばるのが得意な女だったもの」
「お願いがあって参りました」
私は、敷物の上に膝をついた。石段で傷んだ膝が、鈍く痛んだ。
「ヴィンターハルト伯爵家は、偽の証拠で罪を着せられました。モルゲンロート侯爵の書斎に、密約の手紙の下書きがありました。もう焼かれたと思います。でも、私がこの目で見ました。伯爵家の印章を、侯爵の娘に手配させると書いてありました」
「それで?」
「魔塔の力で、ノルトハイムの陛下にそのことを届けていただきたいのです。魔塔の言葉なら、よその国の陛下でも聞いてくださいます」
私は、額を敷物につけた。
「ただでとは、申しません。その代わりに、私の身を、お父様と魔塔に差し上げます。どこへでも嫁ぎます。第六王子殿下でも、王弟殿下でも、ほかのどなたでも。魔塔に戻って、器として使っていただいてもかまいません。一生、逃げません」
塔を出るとき、もう二度と器にはならないと決めた。その決めごとを、私は自分の手で差し出していた。あの方の首と引き換えなら、安いものだった。
しばらく、誰も何も言わなかった。暖炉の薪がはぜる音だけがした。
それから、テオドラが、ぷっと吹き出した。
「聞いた? お母様。一生逃げません、ですって」
「聞こえたわ。耳が腐りそう」
「虫のいい話ね。三年も前に逃げ出した器が、ひびだらけになって戻ってきて、どうぞ使ってくださいって」
姉は、声を立てて笑った。笑いすぎて、目尻の化粧が少しにじんだ。
「その伯爵家とやらは、あなたの何なの」
義母が、初めて私に向かって口をきいた。
「行き倒れていたところを、拾っていただきました。命の恩人です」
「恩人」
義母は、その言葉を舌の上で転がすように繰り返した。
「あの女の子どもは、母親にも振り向いてもらえなかったから、拾ってくれた家に尻尾を振るのね。そのために、そんな姿になって。みじめね。本当に、みじめ」
義母は長椅子から身を乗り出し、開いた扇の縁で、私の頬を打った。昔と同じ、乾いた音がした。
「顔を上げなさい」
上げると、反対の頬を打たれた。
「下げなさい。あの女と同じ目で、私を見ないで」
下げると、扇の先で額を突かれた。
「お前がこの家の床を這っていた五年間、私がどんな思いで暮らしていたか、わかる? 客の前でお前の髪を撫でるたびに、手を切り落としたかった。やっと消えたと思ったら、今度は犬の姿で戻ってくるなんて」
私は、敷物の模様を見ていた。言い返す言葉は、三年あまり前にこの家に置いてきた。
姉が指を鳴らした。暖炉の炎が、ひと息に天井近くまで伸び上がった。熱が顔を叩いた。
炎を映した姉の瞳の縁に、細い銀の輪が浮かんでいた。魔力を使うとき、魔塔主の血筋の者の目にだけ現れるしるし。私の目にも、同じものが出る。長椅子の義母の目には、それがない。
義母が私を憎むのは、私が夫の不倫相手の子だからだ。夫の庶子は塔にも下町にも大勢いるのに、家の中にまで入りこんだのは、私だけだった。
姉と私は、同じ血だった。認めたくなくても。
姉は立ち上がって、私の前に来た。絹の靴の先が、私の膝の傷のすぐそばで止まった。
「あなたが逃げたあと、この家がどうなったか知ってる? 第六王子殿下のお話も、王弟殿下のお話も、全部つぶれたのよ。魔塔の娘が縁談から逃げ出したって、社交界じゅうの笑いものになったわ。お父様は、半年ずっと口をきいてくださらなかった。私に、よ。あなたじゃなくて、私に」
「申し訳ございません」
「謝ってほしいわけじゃないの」
姉は、靴の先で、私の膝の傷を踏んだ。ゆっくりと、体重をかけて。血が、また布ににじんだ。
「それに、あなたの身なんて、もう誰も欲しがらないわ。第六王子殿下は、去年、別の家の娘をお迎えになった。王弟殿下は、この春に亡くなられた。逃げた娘を、今さら差し出されても困るのよ。髪もない、指も曲がった、傷だらけの器なんて。値がつくと思った?」
姉の声が、少しだけ低くなった。
「それにね。あなたがこの家に戻ってきたら、お父様はまた、あなたばかり見るようになる。私は、それがいちばん嫌なの」
姉は、私のあごに指をかけて上を向かせた。それから、私の右手を取って、裂けた手袋を引き抜いた。
烙印が、暖炉の明かりの下にさらされた。
「あら。罪人の印」
姉は、楽しそうに眉を上げた。
「お母様、見て。魔塔の娘の手に、罪人の印よ」
「まあ。とうとう、本物の罪人になったのね。お似合いだわ。あの女の子どもには」
義母が、扇の陰で笑った。初めて、楽しそうな声だった。
「それに、この指。曲がったまま動かないの? 気持ち悪い。鉤みたい」
姉は、私の左手の動かない二本の指をつまんで、無理に伸ばそうとした。骨がきしんだ。私は声を出さなかった。
「つまらない。昔から、声を出さない子だったわね。毒を飲ませても、刺客を送っても」
姉は、あっさりと言った。悪びれた様子は、少しもなかった。
「ひと月なんて、待っていられないでしょう。処刑の日は、もうすぐだものね。あなたの主人の首が落ちてから頼みに来ても、遅いわよ」
何も言えなかった。そのとおりだった。
「助けてほしいなら、借りを返しなさい」
「何を、お返しすればいいのですか。私に差し出せるものは、もう何もありません」
「あるわよ」
姉は、私の胸を、指先でとんと突いた。
「ここに」
胸の奥で、何かがすくんだ。十五の春まで、毎日のように聞かされていた言葉を思い出した。器。出来のいい器。
「あなた、昔から私より出来がよかったわね。魔核も、回復核も」
義母が、扇を閉じた。ぱちり、という音が、部屋の空気を締めた。
回復核。姉の毒を何度飲まされても、三日寝こめば私を起き上がらせた、胸の奥のもうひとつの器官。
「私には、回復核がないの。ふつうの人と同じ、魔核ひとつだけ。大きな術を使うと、三日は寝込む。だからお父様は、私を跡継ぎにしてくださらない。正しい血を引いているのは、私なのに」
姉の指が、私の烙印の上に爪を立てた。焼けた皮膚が、爪の下で裂けた。
「私の毒を何度飲ませても生き延びた、あのしぶとい回復核。ずっと欲しかったの。あなたが何度死にかけても起き上がるのを見るたびに、ここから抉り出してやりたかった」
「テオドラ、はしたないわよ」
「いいじゃない、お母様。もう、器のほうから頼みに来たんだもの」
義母は、ため息まじりに扇を開いた。止める気配はなかった。
「あなたの好きにしなさい。あの女の子どもの胸から、何を取ろうとかまわないわ。返さなくていいのよ。あの女が、私から取っていったものに比べれば」
「条件は、ひとつだけ」
炎がはぜた。姉の瞳の銀の輪が、まだ消えていなかった。
「あなたの回復核を、私に移しなさい」




