第13話 千段の石段
残り十一日。
王都の北の丘に、大神殿がある。ふもとから正門まで、白い石の階段が千段続いている。
この国には、古いしきたりがある。王に願いを聞いてほしい者は、身分を問わず、この千段を、膝をついて上る。一度も立ち上がらずに頂上までたどり着けば、門の前に控える王の侍従が、その願いを王の耳に届ける。百年前、ある農夫の娘がそうして、無実の父を救ったという。
私に残された道は、もうこれしかなかった。
侯爵家の書斎で見た、密約の手紙の下書き。あれを誰かに伝えなければならない。けれど、姓もない影の言葉を聞いてくれる役人はいない。王ご自身に聞いていただくしかなかった。
夜明けのふもとには、誰もいなかった。石段の下の水たまりに薄い氷が張っていて、のぞきこむと私の顔が映った。肩の上で切った黒髪が、寝癖のまま跳ねている。目の下は青黒く、唇は乾いて割れていた。灰色の瞳だけが、氷の色に溶けこんでいた。
影の上着の襟を立て、黒い手袋をはめ直した。
見上げると、白い石段は、朝もやの中へまっすぐ消えていた。頂上は見えなかった。空へ続く梯子のようだった。
朝、一段目に膝をついた。
石は冷たかった。十段で、膝の皮がすりむけた。五十段で、すりむけたところに石の角が食いこんだ。両手を前の段について、膝を引き上げる。その繰り返し。
昼すぎ、雪が降りはじめた。
参拝の人たちが、傘をさして私の横を通りすぎていく。足を止める人もいた。人が人を呼び、いつの間にか、石段の両脇に見物の輪ができていた。
「おい、見ろよ。千段参りだ」
「若い娘だな。髪なんか、男の子みたいに短くして」
「あの手、罪人の印じゃないか」
石段に手をつくうちに、右手の手袋が裂けていた。革のすきまから、赤黒い烙印がのぞいていた。隠そうとして、やめた。両手は、体を支えるのに要る。
「罪人が千段参りだって? 厚かましい」
「聞いたか。ヴィンターハルトの影だとよ。大逆の家の」
「へえ。主人の首がつながるとでも思ってるのかね」
「どうせ途中で倒れるさ。賭けるか? 俺は四百段だ」
「じゃあ俺は三百。見ろよ、もう膝が真っ赤だ」
笑い声が、雪の中に散った。誰かが投げた林檎の芯が、私の肩に当たって転がり落ちた。
背中の鞭の痕が、膝を出すたびに引きつれた。肩の上で切りそろえた黒髪に雪が積もり、溶けて、襟の中へ冷たく流れこんだ。
三百段目で、膝から血がにじんで、石段に赤い跡が残った。振り返ると、点々と下まで続いていた。雪が、すぐにその上を白く覆った。
「三百を越えたぞ。お前の負けだ」
「ちっ。しぶとい女だ」
五百段目で、日が暮れた。見物人たちは、寒さに肩をすくめて、ひとり、またひとりと帰っていった。
「明日の朝、死体になってるかどうか、見に来ようぜ」
最後の足音が遠ざかると、石段には、私と、雪の音だけが残った。
神殿の灯が、はるか上にぼんやりと見えた。クロが私の肩で、羽をふくらませていた。
「先に帰っていいのよ」
クロは動かなかった。
六百段目のあたりで、神殿の見習いの少年が、桶を下げて石段を下りてきた。私の前でしゃがみこみ、ひしゃくで水を差し出した。
「飲むだけなら、立ったことにはならないから」
礼を言おうとして、唇がうまく動かなかった。水は氷のように冷たく、喉を落ちていくのがわかった。
「去年も一人、ここまで来た人がいたよ。七百段で、立っちゃった。泣きながら、立っちゃったんだ」
少年は桶を持ち直して、それきり振り返らずに上っていった。
風が出た。雪が横から吹きつけて、頬を針のように刺した。石段の縁に、白いものが吹き溜まっていく。前の段に手をつくと、手のひらが雪に沈んだ。
指先の感覚が、なくなっていった。最初は痛かった。そのうち痛みも遠のいて、手が自分のものではないみたいに重くなった。左手の小指と薬指が、石の上で曲がったまま伸びない。
屋敷の稽古場で、若様に言われたことがある。
「左手が甘い。剣は右で振るが、支えるのは左だ。左の小指が抜けたら、刃は相手に届かない」
十六の夏だった。若様は私の左手を取って、柄の握り方を直した。指の一本ずつに、自分の指を重ねて。若様にとっては、影の手入れのひとつだったのだと思う。私は、その夜なかなか眠れなかった。
その左の小指が、今、石の上で動かない。
若様は今ごろ、牢の中で寒くないだろうか。毛布の一枚も、もらえているだろうか。
七百段。
膝が、勝手に伸びようとした。立ってしまえば、楽になる。体じゅうが、そう叫んでいた。
私は、動かない左手を、右手で石段に押しつけた。
八百段。
数えるのをやめた。ただ、膝を前に出した。
夜明け前、石段が終わった。
東の空が、灰色から薄い金色に変わりはじめていた。雪がやみ、千段の白い階段が、ふもとまで一本の光の帯になって見えた。その帯の真ん中に、雪にうずもれかけた赤い点が、ずっと下まで続いていた。
大神殿の門の前で、私は額を雪につけた。
「ヴィンターハルト伯爵家の影、アマリアと申します。陛下に、お聞きいただきたいことがございます」
門が開いた。出てきたのは、毛皮の外套を着た王の侍従だった。神殿の神官が、その後ろに控えていた。侍従は、湯気の立つ杯を手に持ったままだった。
侍従は、私を見下ろした。それから、裂けた手袋の下の手の甲を見た。
「影、と言ったか」
「はい」
「姓は」
「ございません」
「罪人の印まであるな」
侍従は、杯をひと口すすって、神官を振り返った。
「朝から、こんなものを見せられるとはな。千段参りは、民のためのしきたりだ。姓も身分もない影は、民の数にも入らん。犬が石段を這い上がってきたのと同じだ」
「お願いいたします。伯爵家は、はめられたのです。モルゲンロート侯爵の書斎で、私は」
「侯爵閣下を、罪人の印のある手で指さすか」
侍従の眉が、不快そうに寄った。
「影ごときの言葉を、陛下は聞かぬ」
「せめて、お話だけでも」
「くどい。神殿の前を汚すな。神官殿、この石段は、あとで清めておかれよ。罪人の血がついている」
門が閉まった。
重い扉が閉じる音が、千段の下まで転がり落ちていった。
閉じた門を、しばらく見ていた。雪が、また降りはじめた。私の肩と、クロの背中に積もっていった。
立ち上がろうとして、立てなかった。膝が、まっすぐに伸びなかった。
下りるのに、また一日かかった。石段の脇の手すりにすがって、一段ずつ。朝になって戻ってきた見物人たちが、私を見て舌打ちした。
「なんだ、生きてやがる」
「門前払いだってよ。ざまあない」
ふもとの施療院で、年配の女の薬師が私の左手を見て、顔をしかめた。
「凍傷だね。小指と薬指は、もう元どおりには動かないかもしれないよ」
胸の奥の回復核が、体を内側から温めようとしているのがわかった。けれど、千段の雪に削られた体は、回復核の力でも追いつかなかった。
手を握ろうとした。親指と人さし指と中指だけが、のろのろと曲がった。残りの二本は、鉤のように曲がったまま、ぴくりともしなかった。
剣を握るのに、小指は要る。私は、影なのに。
施療院を出ると、石段の下で、クロが待っていた。いつの間にか私の肩を離れて、どこかへ行っていたらしい。
くちばしに、一枚の紙をくわえていた。
厚い、上等の紙だった。封蝋の紋章を見て、私は足を止めた。
塔と、その上に輝く星。オストヴァルトの魔塔の紋章。
三年あまり前に捨てた家の、紋章だった。
動く三本の指で、封を切る。中には、一行だけ。
『ネフェリア・オストヴァルト。魔塔へ来られたし』
父が、私の居場所に気づいた。
髪を売った日から、こうなることはわかっていた。
雪の上に、紙を持つ手の影が落ちていた。三本の指しか動かない手が、震えていた。寒さのせいではなかった。




