第12話 ユリウスを逃がす
侯爵家の地下で、二度目の夜が来た。
鎖は、壁の鉄の輪から私の左の足首へつながっていた。右手の甲は、脈を打つたびに焼けた。
扉の外で、見張りの下男が二人、酒を飲みながらしゃべっていた。
「殿下のお使いは、いつ来るんだ」
「三日後だとさ。それまで生かしておけとよ。水だけやっとけ」
「もったいねえなあ。殿下のところへ行ったら、どうせ生きて帰れねえんだろ。その前に、もう少し遊んでも」
「やめとけ。旦那様に知れたら、お前の手にも印が入るぞ」
笑い声のあと、瓶の底を叩く音がした。真夜中を過ぎると、片方が帰り、残った一人がいびきをかきはじめた。
天井近くの、拳ほどの通気口で、羽の音がした。
クロが、すきまから身をねじこんで落ちてきた。私の胸に下りて、短く鳴く。それから扉の下のすきまをくぐって、外へ出ていった。
しばらくして、鉄の触れ合う小さな音がした。扉の下から、鍵の輪が押しこまれてきた。下男の腰から、くちばしで外してきたのだ。
「えらいね」
クロは、得意げに胸をふくらませた。
足首の錠を外す。扉を開けると、下男は椅子にもたれたまま眠っていた。
台所で働いた五日間に、屋敷の造りは頭に入れてあった。地下の廊下の突き当たりに、石炭を落としこむための細い穴がある。そこを這い上がると、裏庭に出る。
石炭の粉にまみれて、夜の裏庭に転がり出た。冷たい空気が、焼けた右手にしみた。
侯爵は「まだ殺すな」と言った。生かしておいたのは、第二王子殿下に差し出すためだろう。朝になれば、追っ手が出る。
手首に巻いた黒い紐を、指で確かめた。切った髪を結んでいた紐。ほどけていなかった。
それから、塀を越えた。
翌朝、右手の甲に布を巻き、その上から黒い革の手袋をはめた。
井戸の水で顔を洗うと、水面に、見慣れない女が映った。癖でうなじの結び目を探した指が、短い毛先に触れて止まる。灰色の目の下には、青い影ができていた。
処刑の日まで、残り十三日。
密約の下書きは、もう焼かれただろう。若様を救う道は、また見えなくなった。けれど、監獄塔の別棟には、もう一人いる。若様の弟のユリウス様。十三歳。大逆罪の家の子は、子どもでも、大人と同じ日に処刑台に上がる。胸の浄化の魔核ごと、砕かれる。
ユリウス様だけなら、今の私にも逃がせるかもしれない。
下町のはずれに、小さな修道院がある。年老いた神父が一人で守っていて、週に一度、死刑囚の牢へ祈りに通っている。牢番たちの噂話で、それを知った。
夕方、修道院の扉を叩いた。
出てきた神父は、白いひげの、背の曲がった人だった。私の手袋に目をとめたが、何も聞かなかった。
「神父様。牢にいる子どもを一人、死んだことにしていただけませんか」
神父は、しばらく私の顔を見ていた。
「ヴィンターハルトの子か」
「はい」
「見つかれば、私も吊るされる」
「わかっています」
それ以上、言えることがなかった。お金もない。差し出せるものは、何もなかった。
「お前さんに、何の得がある。主の弟だろう。主のほうを助けるのが、影というものではないのかね」
「若様は、私がお助けします。ですが、ユリウス様はまだ十三です。あの子に罪はありません」
「あの家の誰に、罪がある」
神父は、ぽつりとそう言った。
それから黙って、奥の部屋の扉を開けた。
寝台に、小さな体が横たわっていた。白い布がかけてある。
「今朝、熱病で死んだ。十二か十三だろう。名前も、親もわからん」
この冬、下町では熱病がはやっていた。高い熱が三日続き、体の弱い子どもから死んでいく。引き取り手のない亡骸は、修道院の裏の墓地に、名前もなく埋められる。
「伯爵様には、昔、ここの屋根を直していただいた」
神父は、布の端を整えながら言った。
「おかげで、子どもらがひと冬、凍えずに済んだ。この子には悪いが、少し名前を借りよう。名もなく土に入るより、伯爵家の若様の名をもらえるなら、この子も少しは誇らしかろう」
私は床に膝をついて、頭を下げた。額が、冷たい石の床についた。
策は、こうだった。
冬眠り草の根を煎じた薬を飲むと、人は半日ほど深く眠る。息は浅くなり、肌は冷たく、脈もほとんど触れなくなる。伯爵家の影の修行で、草の名と効き方を習ったときに覚えたものだ。
ユリウス様にこれを飲ませ、牢の中で「熱病で死んだ」ことにする。神父が死を見届け、亡骸として運び出す。そして墓には、この名前のない子を、ユリウス・ヴィンターハルトとして葬る。
翌日の昼、私は見習いの修道女の頭巾をかぶり、神父のあとについて牢の門をくぐった。
「おや、神父様。今日は若い娘っ子を連れて」
「見習いだ。祈りの言葉を覚えさせている」
「こんな地獄で修行とはねえ。お嬢ちゃん、罪人に色目を使われたら、俺に言いな」
門番が下品に笑った。私は頭巾の下で、目を伏せたまま通り過ぎた。
監獄塔の別棟は、若様のいる北の塔より、さらに暗かった。子どもの泣き声が、どこかの牢から細く聞こえていた。分家の子たちだ。誰かが母親を呼んでいた。私は、その声のほうを見ないようにした。
指先に、小さな灯をともした。灯を使うとき、私の灰色の瞳の縁には細い銀の輪が浮かぶ。魔塔主の血筋にだけ出るしるしで、誰にも見られたくなかった。頭巾を深く引き下げた。
鉄格子の奥で膝を抱えていた子が、顔を上げた。銀色の髪。兄と同じ、青い瞳。頬が、最後に会った日よりずっとこけていた。
「アマリア姉さん?」
唇に指を当てる。神父が祈りの言葉を唱えはじめた。その声に紛れて、私は格子越しに小瓶を渡した。
「これを飲んで。眠くなって、体が冷たくなる。でも、死なないから」
ユリウス様は、小瓶と私の顔を見比べた。
「兄上は?」
「若様は、私が必ずお助けします。だから先に、あなたが外へ出て」
「僕だけ? 父上と母上は?」
答えられなかった。
ユリウス様は、私の顔を見て、それ以上聞かなかった。かわりに、格子のすきまから細い指を伸ばして、私の手袋に触れた。
「その手、どうしたの。手袋の上から押さえてる」
右手を、袖の中に引っこめた。
「転んだの」
「姉さんは、嘘が下手だね」
ユリウス様は、小さく笑おうとして、うまく笑えなかった。小瓶の栓を抜いて、ひと息に飲んだ。
しばらくして、小さな体が藁の上に崩れた。
神父が牢番を呼んだ。牢番は格子の外から中をのぞき、子どもの土気色の顔を見て、後ずさった。
「熱病か。この冬、牢でも三人目だ」
神父がユリウス様の首に指を当て、首を横に振る。
「早く運び出してくれ。うつったらかなわん。どうせ二週間もすりゃ、首を落とされるガキだ。手間が省けた」
牢番は、亡骸に手を触れようとさえしなかった。死亡の書き付けに名前を書き入れ、神父に押しつけた。
ユリウス様を布にくるんで、荷車に乗せる。門を出るまで、私は一度も顔を上げなかった。荷車の車輪が石畳の継ぎ目を越えるたびに、布の中の小さな体が揺れた。そのたびに、息が止まった。
その夜、修道院の裏の墓地に、新しい土が盛られた。墓標には、ユリウス・ヴィンターハルトの名。牢番の使いが確かめに来たが、熱病の亡骸と聞いて、穴をのぞきもしなかった。
「伯爵家の次男、熱病で死亡。よし、帳面はこれで片づいた」
使いの男は、そう言って鼻歌まじりに帰っていった。
ユリウス様が目を覚ましたのは、真夜中だった。
北へ向かう荷馬車が、修道院の裏で待っていた。神父の古い知り合いの、羊毛を運ぶ商人だ。行き先は、北の山あいにある聖ルーエ修道院。王都から馬車で十日かかる。追っ手の目も、そこまでは届かない。
私は、毛布にくるまったユリウス様の前にしゃがんだ。
毛布のすきまから、右手がのぞいていた。小さな手の甲に、「罪人」の印が黒く焼きついていた。判決の翌日、一族の誰もが押されたものだ。死んだことになった子の手に、それだけが残っていた。
私は自分の袖口を裂いて、その手にきつく巻いた。
「人前では、これを外さないで。修道院に着いたら、手袋をもらって。いい? これから、あなたは死んだことになる。誰にも言わないで。若様にも」
「兄上にも?」
「生きているとわかれば、また狙われる。あなたを牢に入れた人たちは、まだ外にいるの」
ユリウス様は唇をかんで、うなずいた。
私の肩から、クロが飛び降りて、ユリウス様の膝にとまった。羽の生えそろわない、カラスのひな。
「この子が、手紙を運ぶから。困ったことがあったら、書いて」
「姉さんは? 一緒に来ないの?」
「若様が、まだ牢にいるもの」
「いつもそうだ。姉さんは、いつも兄上のところへ行く」
ユリウス様の声が、震えた。
「兄上は、姉さんのこと、何も知らないのに。姉さんの手のことも、背中のことも、何も」
「いいの」
「よくない」
ユリウス様の目から、涙がこぼれた。十三の子が、声を殺して泣いていた。私は、毛布ごと、その小さな体を抱きしめた。銀の髪から、牢の藁の匂いがした。
「生きていて。それだけでいい」
商人が手綱を引いた。クロが私の肩に戻る。荷馬車が、きしみながら動き出した。
私は手を振らなかった。振れば、追いかけてしまいそうだった。
荷台の幌がめくれた。毛布を跳ねのけて、ユリウス様が身を乗り出していた。月の光が、銀の髪を白く燃やしていた。
「アマリア姉さん、必ず迎えに来て!」
その声が、夜の街道の向こうへ遠ざかっていった。




