第11話 侯爵家の下働き
あの方の命を救うには、証拠がいる。
モルゲンロート侯爵は、密約の場に立ち会ったと言った。それが嘘だという証拠を、侯爵家の中で見つけるしかない。
残り二十日。
物置小屋の雨水の桶をのぞくと、水面に知らない娘が映っていた。髪を売ってから、まだ慣れない。肩の上で不揃いに跳ねた黒髪。尖った顎。灰色の目だけが、前と同じだった。
かまどの煤を指につけ、頬と首すじに薄く塗る。最後に、影の服を脱いで、古着屋で買った麻の粗い服に着替えた。
ヴェロニカ様は、私の顔を知っているかもしれない。夜会の庭で、私のいるあたりに目を止めた。屋敷の玄関では、夜の庭は冷えるでしょう、とささやいた。
でも、ヴェロニカ様が見たのは、灰色の影の服を着て、長い黒髪を結った影だ。煤で汚れた短い髪の下働きの娘など、侯爵家の令嬢は目にも留めないだろう。
侯爵家の台所は、ちょうど洗い場の娘を探していた。冬を前にして、前の娘が田舎へ帰ったのだという。
「名前は」
「リーネと申します。身寄りはありません」
台所頭の女は、私の手のひらを裏返して見た。剣の稽古で硬くなった手だった。
「働き者の手だね。いいよ、明日から来な。ただし、お嬢様の前では顔を上げるんじゃないよ。前の娘は、お嬢様と目が合ったってだけで、頬を十も打たれたんだから」
洗い場の仕事は、夜明け前から夜更けまで続いた。鍋を洗い、床を磨き、灰を運ぶ。私はそのあいだに、屋敷の造りを頭に入れた。どの廊下がどこへ通じているか。夜の見回りは何刻ごとか。侯爵の書斎は、二階の東の端。
台所の女たちは、手を動かしながら、よくしゃべった。
「聞いた? お嬢様、また監獄塔へ行ったんですって」
「元の婚約者のところへ? まだ未練があるのかしら」
「まさか。新しい恋人と二人で、笑いに行ったのよ。檻の中の雪狼を見物しに。帰ってきてから、侍女たちにその話を何度もさせて、お腹を抱えて笑ってたわ」
「こわいこわい。あの若様、お嬢様にずいぶん入れこんでたんでしょう」
「だから面白いんじゃない。お嬢様、言ってたわよ。『あの人、最後まで私を信じてるの。犬みたいに』って」
鍋の底をこする私の手が、一度だけ止まった。
三日目の昼、廊下で桶を運んでいたとき、向こうからヴェロニカ様が歩いてきた。
侍女を二人連れて、淡い黄色のドレスの裾をさばいている。蜂蜜色の髪は、今日は下ろしていた。
私は壁際に寄り、桶を下ろして、深く頭を下げた。
侍女の一人が、通りすがりに桶を靴の先で蹴った。汚れた水が、私の膝に跳ねた。
「ちょっと。お嬢様のお通りに、汚い桶を置かないで」
「いいのよ。下働きなんて、目に入れないようにしているの。目が汚れるから」
ヴェロニカ様は、楽しげに言った。
ドレスの裾が、目の前を通り過ぎていく。足音は、一度も止まらなかった。
五日目の夜、私は書斎に忍びこんだ。
鍵は、台所頭が預かっている鍵束の中にあった。夕食の片づけのあと、台所頭が居眠りをしている隙に、その一本だけを外した。
書斎は暗かった。指先に、ほんの小さな灯りをともす。窓ガラスに、灰色の目の縁を銀の輪が囲むのが映った。私は窓から顔をそらした。
机の引き出しには、鍵がかかっていなかった。侯爵は、自分の屋敷の中でまで用心する人ではないらしい。
手紙の束、領地の帳簿、夜会の招待状。
いちばん下に、何枚も書き損じたような紙が重ねてあった。
灯りを近づける。
『北の国境の砦を明け渡す代わりに』
あの審問の間で、宰相が読み上げた文句だった。
それが、何度も書き直されていた。言い回しを変え、線で消し、また書く。紙の余白に、別の字で書きこみがあった。
『雪狼の印、蝋は赤。娘に手配させる』
手が震えた。
密約の手紙は、伯爵様が書いたものではない。この屋敷で、この机で、作られたものだ。印章のことまで、ここに書いてある。
娘に、手配させる。
これを王の前に出せば、審問はやり直しになる。
私は紙を折りたたみ、服の胸もとに押しこんだ。灯りを消し、引き出しを閉める。
扉に手をかけたとき、外から開いた。
ランプの光が、まともに顔を照らした。
「やはり、お前か」
侯爵家の家令だった。後ろに、屈強な下男が二人立っていた。
「台所頭の鍵束が、一本足りないと思ったら。新入りの洗い場の娘が、侯爵様の書斎で何をしている」
逃げ道を探した。窓は二階。扉の前には三人。
下男の一人が、私の腕をつかんだ。もう一人が胸もとに手を突っこみ、折りたたんだ紙を引き出した。家令はそれを開いて、顔色を変えた。
「地下へ連れていけ。誰にも見られるな」
侯爵家の地下には、窓のない部屋があった。
石の壁に、鎖と鉄の輪。床の溝には、黒ずんだ染みがこびりついていた。この部屋を使ったのは、私が初めてではないらしかった。
家令は私を椅子に縛りつけ、何度も同じことを聞いた。
「誰に頼まれた。何者だ」
答えなかった。答えれば、伯爵家の影が侯爵家を探っていたことになる。それは、あの方の罪をもうひとつ増やす。
「リーネです。身寄りはありません」
平手が飛んだ。口の中が切れた。
「もう一度聞く。誰の犬だ」
「リーネです。身寄りはありません」
下男が、笑いながら私の髪をつかんで、頭を椅子の背に打ちつけた。
「おい、この女、目を閉じもしねえ。気味が悪い」
「声も出さねえな。舌がねえのか」
「なら、ちょうどいい。何をされても、誰にも言いつけられねえ」
何度打たれても、私は「リーネです。身寄りはありません」としか言わなかった。そのたびに、下男たちは賭けをした。次の一発で泣くか、泣かないか。誰も勝たなかった。
どれくらいたったのか、わからなくなったころ、家令がため息をついて、下男に言った。
「埒があかん。盗人の印をつけておけ。どこへ逃げても、二度とまともな屋敷では雇われんようにな。野垂れ死ぬまで、手の甲に罪を背負って歩け」
この国では、盗みを働いた者の手に、焼いた鉄で「罪人」の印を押す。一生消えない印だ。それを見れば、誰もが、この者は罪を犯したと知る。
同じ印を、私は知っていた。
判決の翌日、監獄塔で、ヴィンターハルトの一族全員の右手の甲に、この印が押された。伯爵様にも、奥様にも、分家の人たちにも。ジークベルト様にも。
あの日、私の右手の甲も、半日のあいだ焼けるように痛んだ。誓約が、あの方の痛みの半分を運んできたのだ。けれど、印そのものは運ばれなかった。罪人の印は、傷ではなく、王家が下した裁きのしるしだ。あの方の手の甲に、黒く刻まれたまま残った。
下男が、炉から鉄の棒を引き出した。先が赤く光っていた。炉の熱で、部屋の空気がゆらりと歪んだ。
「さあ、お嬢ちゃん。生まれて初めての、お名前の刺繍だ。きれいに入れてやるからな」
「暴れたら、指も焼くぞ」
右手を、台の上に押さえつけられた。下男の膝が、私の肘を石の台に縫いとめた。
赤い鉄が、ゆっくりと近づいてきた。わざと、ゆっくり。熱が先に皮膚に届いて、手の甲の産毛が縮れる匂いがした。
「ほら、泣けよ。今なら許してやるかもしれねえぞ」
私は目を閉じた。
熱が、右手の甲に落ちた。
そこから先のことは、よく覚えていない。焦げた匂いと、自分の喉から漏れた音と、誰かの笑い声。
「やっと鳴いたぞ!」
「俺の勝ちだ。銅貨をよこせ」
気がつくと、私は石の床に頬をつけて倒れていた。
右手の甲が、脈を打つたびに燃えた。目を開けても、視界が白くにじんで、天井の染みがいくつにも分かれて揺れていた。
石の床に頬をつけたまま、右手を目の前に持ってきた。手の甲に、赤黒く焼けただれた文字があった。「罪人」。
あの方の手にあるのと、同じ印だった。
おかしなことに、少しだけ、笑いそうになった。
姓もない、一族の名簿にも載らない影の私が、これで、ヴィンターハルトの一族の一人になったみたいだった。
「おい、こいつ、笑ってるぞ」
「頭がおかしくなったんだろう」
階段を下りてくる足音がした。家令の声。それから、もうひとつ、低く落ち着いた男の声。
「この娘か」
「はい、旦那様。書斎で、例の下書きを」
旦那様。侯爵だった。
「顔を上げさせろ」
髪をつかまれて、顔を持ち上げられた。ランプの光の向こうに、白いものの混じった金髪が見えた。指の大粒の翠玉が、炉の火を映して、緑色にぬらりと光った。審問の間で、偽りの証言をした男。
侯爵は、しばらく黙って私の顔を見ていた。目を細め、私の右手の焼き印に目をやり、それからまた顔に戻した。
「どこの犬だか知らんが、よく嗅ぎつけたものだ。冬の湖のような、気味の悪い灰色の目をしている」
侯爵は、口もとだけで笑った。審問の間で見たのと同じ、ヴェロニカ様と同じ形の笑みだった。
「だが、遅かったな。誰のために這いこんできたにせよ、北の雪狼の首は、あと半月で落ちる。下書きが一枚消えたところで、何も変わらん」
侯爵は、家令に言った。
「下書きはすぐに焼け。この娘は、まだ殺すな。使い道がある」
足音が、階段のほうへ遠ざかる。
扉が閉まる直前、侯爵の声が石の壁に響いた。
「第二王子殿下に、ご報告を」




