閑話 牢の中の男(ジークベルト)
痛みが、来なかった。
尋問室の柱に縛りつけられ、背中に鞭を受けていた夜のことだ。最初の何打かは、たしかに痛かった。肉が裂け、熱が背骨を走った。歯を食いしばって、声だけは出すまいとした。
それが、ある一打を境に、ふっと消えた。
鞭の音はする。肩に、打たれた衝撃も来る。けれど、焼けるような痛みが、どこかへ吸いこまれるように抜けていく。
尋問官が「跡がつかん」と言った。背中に手をやると、裂けていたはずの肌が、なめらかに閉じていた。
「神の加護か」
誰かがそうつぶやいて、その夜の尋問は打ち切られた。
牢に戻されてから、私は長いあいだ、自分の背中を指でなぞっていた。
加護。
父上は、隣国と通じてなどいない。私も、何ひとつ恥じることはしていない。神というものが本当にいるのなら、無実の者を見捨てはしないということか。
そう考えると、少しだけ、背筋が伸びた。
やはり、私は選ばれた側の人間なのだ。
今日、牢番に二十打たれたときも、同じだった。
衝撃だけがあって、痛みがない。牢番は気味悪がって、唾を吐いて出ていった。私の背中には、また何の跡も残っていなかった。
壁にもたれて、目を閉じる。
父上と母上は、別の棟にいる。ユリウスもだ。会わせてはもらえない。毎朝、魔力を絞り取る役人が来て、胸に冷たい銀の板を当てていく。そのたびに体の芯が冷え、一日が終わるころには、指を動かすのもおっくうになる。
あと二十日あまり。
死ぬのは、怖くない。そう言えば嘘になる。けれど、ヴィンターハルトの名を背負った者として、うろたえる姿だけは見せたくなかった。
ヴェロニカのことを考えた。
昼間、ヴェロニカは、この鉄格子の前に立った。婚約はなかったことにしてほしい、と言った。罪人の家と縁を持つのはぞっとする、と。隣には、知らない男がいた。
檻の中の野良犬、とその男は言った。
かわいそうよ、とヴェロニカは笑った。首が落ちるところまで見届けてあげる、とも。
腹は立たなかった。
立てるべきなのかもしれない。けれど、ヴェロニカの笑い声を思い返すと、どこか無理をしているように聞こえた。隣の男は、黒い百合の飾りをつけていた。第二王子殿下の一派だ。あの男の前で、罪人の私をかばうようなことを言えば、侯爵家まで目をつけられる。
だから、ああ言うしかなかったのだ。
それに、牢番は言った。差し入れの薬も、食べ物も、ヴェロニカの心づけだと。人前では冷たくしなければならない、お家の事情だと。
婚約をやめても、私を飢え死にさせるのは忍びない。そう言って、金を置いていったのだと。
やはり、そうだった。
あの人らしい、と思った。人前では冷たくふるまっても、裏では、こうして手を差し伸べる。夜会で私の剣の話を、目を細めて聞いていたあの人は、やはり、あの人のままだった。
退屈であくびをこらえていた、などと言っていたが、あれも芝居だ。そうでなければ、わざわざ監獄塔まで足を運ぶはずがない。
それだけで、少し、救われた。
扉の下の差し入れ口に、包みが押しこまれていた。パンとチーズと、熱さましの包み。
ヴェロニカが届けさせたものだ。
パンをちぎりながら、ふと、別の顔が浮かんだ。
アマリア。
来るな、と書いた。来るなと、面と向かっても言った。それでも、あれは来た。あの夜、黒い手袋の手で包みを広げて、毒は入っておりません、と言った。
髪が、短くなっていた。
腰まであった黒髪を、肩の上でばっさり切っていた。何があったのかは、聞かなかった。あれは、聞いても答えない。影の務めです、と言うだけだ。
牢番に、金を払えるはずがない。屋敷の金は、すべて王家に取り上げられた。
そうか、と思い当たった。
あれが通れたのも、ヴェロニカの金のおかげだ。牢番がそう言っていた。あれは、自分の力で来たような顔をしていたが、結局は、ヴェロニカの情けの上を歩いてきただけだ。
何をした、と聞いたときの、あれの顔を思い出す。いつもと同じ、何も映さない灰色の目だった。
影とは、そういうものだ。拾ったときに、そう教えた。影は主の前で死ぬものだと。あれは、律儀に、その言葉どおりに生きているだけだ。
だから、礼を言う必要はない。
主の役に立つのは、影にとって当たり前のことだ。剣が主を守ったからといって、剣に礼を言う騎士はいない。
そう思うのに、パンを持つ手が、少しだけ止まった。
包みを広げるとき、あれの手袋と袖のすきまから、手首が少しだけのぞいた。帯のような擦り傷があった。
私の手首は、鉄の輪に何日も締めつけられているのに、白いままだ。
あれの手首には、ちょうど鉄の輪の幅で、傷がある。
偶然だろう。影の稽古で、何かに擦ったのだ。
それ以上、考えるのはやめた。考えたところで、牢の中の私に何ができるわけでもない。
私は、パンを口に運んだ。固くて、塩辛かった。
あの日、森で拾った痩せっぽちの娘を思い出した。騎士が分けた干し肉を、毒でも入っていないかと、何度も匂いを嗅いでいた。
今は、あれが、私の食べるものの匂いを嗅いでいる。
それも、影の務めだ。
鉄格子の向こうで、松明が揺れた。
窓の外は、雪になっていた。
この雪の下のどこかで、ヴェロニカが私を想ってくれている。そう思えば、凍える夜も耐えられた。
同じ雪の下で、短い髪の影が、どこで眠っているのか。そのことは、一度も考えなかった。




