第10話 婚約破棄の日
背中の傷は、三日で塞がった。
胸の奥の回復核が、使った魔力や傷んだ体を、眠っているあいだに少しずつ元に戻してくれる。姉の毒を何度も飲まされて、それでも生き延びた回復核だ。鞭の痕も、三日で薄い赤い筋になった。
物置小屋の裏の雨水の桶で顔を洗った。水面に映った顔は、頬の線が少し尖っていた。目の下が青い。肩の上で不揃いに跳ねた短い髪を、濡れた手でなでつける。人形みたいだと陰で言われていた顔が、いまは本当に色をなくしていた。
残り二十四日。
私はまた、監獄塔の裏門へ行った。
鞭をもう二十受ける覚悟はできていた。ところが、詰め所の牢番は私の顔を見るなり、顎をしゃくった。
「通んな。今日から、お前はただでいい」
「どうしてですか」
「お心づけをいただいたんでな。余計なことは聞くな。ああ、それから、今日は上が少しにぎやかだ。面白いもんが見られるかもしれねえぞ」
牢番は酒瓶を傾けて、にやにや笑った。
あの夜の金貨が、頭に浮かんだ。
私は差し入れの包みを抱え直し、階段を上った。
北の最上階に着く手前で、上から人の声が降ってきた。
女の声だった。
私は踊り場で足を止め、壁の暗がりに身を寄せた。階段の上の廊下には松明がひとつ。その明かりが、廊下の先の鉄格子と、その前に立つ二人の影を壁に映していた。
一人は、淡い桃色のドレスに白い毛皮の肩掛けをかけた女。波打つ蜂蜜色の髪。湿った黒い石の廊下に、そこだけ春が咲いたようだった。
もう一人は、若い貴族の男だった。女の腰に、当たり前のように腕をまわしている。上着の襟に、黒い百合の小さな飾りが光っていた。
鉄格子の扉には、小窓がついている。その向こうに、鎖の音がした。
「ヴェロニカ」
ジークベルト様の声だった。かすれていたが、確かにあの方の声だった。
「来てくれたのか」
その声に、ほんの少し、明かりがともったのがわかった。
「ええ。最後に一度だけ、きちんとお話ししておこうと思って」
ヴェロニカ様は、扇を開いた。鼻のあたりを覆う。
「まあ、ひどい匂い。ここ、鼠でも死んでいるのかしら」
「すまない。こんな姿で」
「本当ね。あの北の雪狼様が、まるで物乞いみたい」
扇の陰で、くすりと笑う声がした。
「婚約の話は、なかったことにしてちょうだい」
小窓の向こうで、鎖の音が止まった。
「父も、そうしろと言っているわ。罪人の家と縁を持つなんて、ぞっとするもの。あなただって、わかるでしょう?」
「ああ」
「よかった。あなたが聞き分けのいい人で。泣いてすがられたら、どうしようかと思っていたの」
ヴェロニカ様は、扇を閉じて、手のひらにぽんと打ちつけた。
「それに私、もう次のお話が決まっているの。こちらの方」
ヴェロニカ様が、隣の男の腕に指を添えた。男は鉄格子の小窓をのぞきこみ、鼻で笑った。
「ヴィンターハルト殿。噂ほどの美男子には見えないな。北の雪狼というより、檻の中の野良犬だ」
「やめて。かわいそうよ」
ヴェロニカ様が笑った。声を立てて、楽しそうに。
「かわいそうよ、そんなに本当のことを言っては」
「おや、これは失礼」
男も笑った。二人の笑い声が、石の天井に跳ね返って、廊下じゅうに響いた。
「そうだ、ヴィンターハルト殿。処刑の日は、私たちも見物に行くよ。いちばん前の席を取ってある。ヴェロニカがどうしても、と言うのでね」
「だって、最後のお別れですもの。首が落ちるところまで、ちゃんと見届けてあげなくちゃ。それが元婚約者の務めでしょう?」
「なんとやさしい」
「でしょう?」
私は踊り場の暗がりで、壁に爪を立てていた。爪の先が石に削れて、指先に血がにじんだ。
飛び出していきたかった。けれど、影が貴族の令嬢に手を上げれば、それだけで主の罪がひとつ増える。
小窓の向こうから、何も聞こえなかった。
言い返す声も、怒鳴る声もしなかった。
ヴェロニカ様は、しばらく返事を待つように首をかしげていた。それから、肩をすくめた。
「つまらない人。最後まで、何も言わないのね。昔から、そうだったわ。夜会でも、剣の話ばかり。退屈で、あくびをこらえるのが大変だったのよ」
「さようなら、ジークベルト様。お元気で。といっても、あと少しね」
二人が廊下を引き返してくる。私はさらに一段下がり、階段の曲がり角の陰で息を殺した。
毛皮の肩掛けが、すぐ目の前を通り過ぎた。甘い香水の匂いがした。
「ねえ、見た? あの顔。最後まで私を信じてるのよ。笑っちゃう」
「君は本当に、ひどい女だ」
「あら、あなたもそういうところが好きなんでしょう」
ヴェロニカ様が声を立てて笑った。二人分の靴音が、楽しげに重なって階段を下りていった。湿った石の匂いの中に、香水だけがしばらく残っていた。
足音が遠ざかるのを待って、私は廊下へ上がった。
鉄格子の小窓から、中をのぞいた。
ジークベルト様は、扉のほうを向いたまま座っていた。もつれた銀髪の下で、薄い青の瞳が、さっきまで二人がいた場所を見ていた。
その色が、濃くなっていた。
夜会でヴェロニカ様を見つめていたときと同じ色だった。その色は、少しも薄まらない。
私は、扉を叩けなかった。
いまあの方の前に出ていけば、あの方は、捨てられたところを影に見られたと知る。誇り高い人だ。それだけは、させたくなかった。
扉の下の差し入れ口に、包みを押しこんだ。パンとチーズと、熱さましの残り。音を立てないように、指先で奥へ送る。小窓の向こうで、あの方は動かなかった。
そのとき、背後の階段から、重い足音が上がってきた。あの牢番だった。私は廊下の奥の、空の牢の陰に身を寄せた。
牢番は、鉄格子の小窓をのぞきこんで言った。
「よう、伯爵家の若様。振られちまったなあ。廊下の下まで聞こえてたぜ。檻の中の野良犬、だとよ」
返事はなかった。牢番は構わずに続けた。
「まあ、そう落ちこむなって。いい知らせをひとつ持ってきてやったぜ。このあいだの差し入れの薬と食い物な。あれは、ヴェロニカ様からのお心づけだそうだ。影の娘を通してやったのも、あの方が金を払ってくださったからでな」
私は、壁の陰で目を見開いた。
あの夜、詰め所で囁かれていたのは、これだったのだ。
「今日も、たんまりいただいた。お優しい方じゃねえか。婚約はやめても、あんたを飢え死にさせるのは忍びねえとさ。人前では冷たくしなきゃならねえ、お家の事情ってやつだ。泣かせるねえ」
牢番は、腰の鍵束を鳴らした。
「しかし、叩くなとは言われてねえ。大逆罪の一族なんざ、お国のために、俺が罰してやるよ。尋問官どもは気味悪がって手を出さねえが、俺は気にしねえ。跡がつかねえなら、何発叩いても誰にもばれねえってことだ」
鉄の扉が開いた。牢番の手に、あの先の割れた鞭が握られていた。
「壁に手をつけ。お貴族様の背中を叩けるなんざ、一生に一度の楽しみだ」
一打目の音が、廊下に響いた。
同時に、私の背中が裂けた。
塞がりかけていた赤い筋の上に、新しい熱が走る。私は空の牢の陰にうずくまり、袖を口に押しこんだ。誓約は、もう半分ではない。あの方の背に落ちる鞭は、ひとつ残らず、私の背に落ちてくる。
「どうした、若様。痛くねえのか。ほら、もっと鳴けよ。影の娘も鳴かなかった。主従そろって、つまらねえなあ」
二打目。三打目。
声が漏れないように、袖をさらに深く噛んだ。空の牢の陰から、そっと身を乗り出して、開いた扉の奥をのぞきこんだ。
あの方は、両手を壁について、背中をさらしていた。鞭が鳴るたびに、肩がこわばる。けれど、来るはずの痛みが来ない。あの方は、何度か、自分の肩越しに振り返ろうとしていた。何が起きているのか、わからない顔だった。
私は、また陰に戻った。
私は数えた。あの夜と同じように。
二十。
牢番が、荒い息をついて鞭を下ろした。そして、黙った。
「なんだ、こりゃ」
鉄格子の向こうで、ジークベルト様の背中は、白いままだった。赤い筋のひとつもない。
「尋問官どもが言ってた噂は、本当かよ。神の加護だか何だか知らねえが、気味が悪い」
牢番は唾を吐き、扉に鍵をかけて、階段を下りていった。
私は壁に額をつけて、しばらく動けなかった。背中を伝って、温かいものが腰まで流れていた。
小窓の向こうで、長い沈黙があった。
あの夜、牢番に打たれた二十打ち。今、あの方の代わりに受けた二十打ち。どちらも、一打ごとに数えた。
ヴェロニカ様は、このあいだの食事とも、今日の差し入れとも、何の関わりもない。
そう言ったら、ジークベルト様は信じてくれるだろうか。
少しだけ考えて、やめた。
そんなことは、ささいなことだった。誰が運んだものでもいい。あの方が今夜、パンをひと口でも口にできるなら、それでいい。影は、主に恩を売るものではない。
それに、あの方は、さっきの笑い声を聞いている。野良犬と呼ばれたのを聞いている。首が落ちるところを見に来ると言われたのを、聞いている。
それでも、あの方の瞳は、濃い色のままだった。
小窓の奥で、あの方がうつむくのが見えた。鎖が、膝の上で小さく鳴った。
それから、かすれた声で、ひとりごとのように言った。
「それでも、あの人だけは私を見捨てなかった」




