第9話 牢の鍵(後編)
床に落ちた服を拾って身につけ、上着をはおると、背中に布が張りついた。一歩ごとに、焼けた鉄を当てられているようだった。階段を上る。北の最上階まで、百を超える段を数えながら。
三つ目の踊り場で、足が止まった。
壁の向こうから、声がした。くぐもった男の声と、乾いた鞭の音。
「罪を認めろ。隣国と通じていたと、ひと言いえば終わる」
答えはなかった。代わりに、また鞭の音がした。
「強情な若様だ。お前の父親は、もう半分認めかけてるぞ。母親は泣いてばかりだ。お前が意地を張るぶん、家族の苦しみが長引くだけだ」
尋問室の扉は、わずかに開いていた。すきまから、灯りが細く漏れている。
ジークベルト様が、柱に縛りつけられていた。
シャツは剥がされ、背中に赤い筋が幾重にも走っていた。歯を食いしばって、うつむいている。銀髪の先から、汗が床に落ちていた。
「認めない」
かすれた声が、それだけ言った。
「父上は、王家に背いていない」
鞭が鳴るたびに、私の背中にも、同じ痛みが半分だけ走った。誓約の第一の段が、律儀に分け前を運んでくる。さっき牢番に打たれた二十の傷の上に、さらに重なっていく。
あの方の背が、震えていた。
半分では、足りなかった。
私は踊り場の壁に背を預けて、胸に手を当てた。
牢の結界は、外へ放つ魔術を封じる。けれど誓約の糸は、放つ魔術ではない。二年前にすでに結んだ、魂の結び目だ。その結び目を締め直すことまでは、結界にも止められないはずだった。
角を折ったまま二年、一度も唱えなかった頁の文句は、一字も忘れていなかった。
第二の段は、影の命を大きく削る。古い書きこみが、まぶたの裏に浮かんだ。
かまわなかった。
第二の段。魂の、最後の結び目。
唱え終えた瞬間、胸の奥の糸が、きつく締まった。
それから、来た。
あの方の背中にあった傷が、すべて。焼けるような熱が、背骨に沿って流れこんでくる。私は自分の手首を噛んで、声を殺した。膝が石段に落ちた。視界が白く弾けて、しばらく何も見えなかった。
扉のすきまの向こうで、尋問官が鞭を下ろした。
「何だ、これは」
ジークベルト様の背中から、赤い筋が消えていた。打たれた跡が、ひとつも残っていない。
尋問官がもう一度、鞭を振るった。乾いた音がして、私の背中が裂けた。あの方の肌には、何も起きなかった。
「おい、見ろ。跡がつかん」
「馬鹿な。今、確かに当たったぞ」
「神の加護か」
「大逆の罪人に、神が加護をくださるものか」
「なら、これは何だ!」
尋問官たちが、顔を見合わせた。ひとりが、胸の前で聖印を切った。もうひとりは、鞭を床に取り落とした。
「今夜はここまでだ。牢へ戻せ。上に報告する」
あの方は、何が起きたのかわからない顔で、自分の肩越しに背中を見ようとしていた。
私は石段に手をついて、ゆっくり立ち上がった。背中は、もう痛いのかどうかもわからなかった。
四半刻のうち、半分が過ぎていた。
右から三つ目の牢。
鍵を回すと、重い鉄の扉がきしんだ。
中は暗かった。石の床に藁が敷かれ、高いところの小さな窓から、月の明かりが細く差しこんでいるだけだった。
「誰だ」
かすれた声がした。
奥の壁に、ジークベルト様が座っていた。尋問室から戻されたばかりで、両手首と片足に鉄の鎖をかけ直されている。冬の月の色だった銀髪は、伸びかけて、もつれていた。頬はこけ、あごの無精ひげは影のように濃くなっている。
それでも、月明かりの中で私を見た目は、少しも鈍っていなかった。
「アマリア」
「はい」
「来るなと書いたはずだ」
「読みました」
「その髪は、どうした」
「邪魔でしたので」
私は膝をつき、包みを広げた。パンとチーズ。水の入った革袋。傷薬と熱さまし。
「お召し上がりください。毒は入っておりません。私が確かめました」
あの方は、しばらく包みを見ていた。それから、鎖の音を立ててパンに手を伸ばした。
一口かじって、飲みこむ。もう一口。食べ方は、屋敷の食卓にいたころと同じように静かだった。けれど手は、わずかに震えていた。
私は傷薬を手に、鎖の当たる手首をのぞきこんだ。
鉄の輪の下の肌は、白いままだった。擦り傷ひとつない。
その代わり、私の手首が、手袋の下でひりついていた。捕らえられた日から半分ずつ分けあってきた擦り傷が、今夜からは全部、私のほうにある。傷薬は、あの方には要らなかった。私は薬の小瓶を包みに戻した。
「父上と母上は」
「別の棟におられます。お会いはできませんでしたが、差し入れは牢番に託しました」
「ユリウスは」
「同じく、別の棟に。差し入れは、託してあります」
あの方は目を閉じた。
それから、目を開けて言った。
「ヴェロニカは無事か」
薬を塗る手が、止まった。
自分のことでもなく、両親のことでもなく、弟のことでもなかった。最後に、いちばん聞きたかったことを聞いたのだと、声の調子でわかった。
「侯爵家は、何のお咎めも受けておりません。ヴェロニカ様も、ご無事です」
「そうか」
あの方の肩から、力が抜けた。
「よかった。あの人まで巻きこまれていたら、と思っていた」
ヴェロニカ様の父親が、審問で偽りの証言をしたことを、ジークベルト様は知っている。その場にいたのだから。
それでも、よかった、と言った。
「侯爵は、きっと脅されたんだ。あの人は、何も知らない。父親が何をしたかも、きっと知らずに泣いている」
私は何も言わずに、熱さましの包みを、あの方の膝もとに置いた。
「金はどうした」
急に聞かれて、顔を上げた。
「牢番は、ただでは通さないだろう。屋敷の金は、すべて王家に取り上げられたはずだ」
「ご心配なく」
「何をした」
「影の務めです」
あの方は眉をひそめた。けれど、それ以上は聞かなかった。
背中の傷が、上着の下で脈を打っていた。上着の裏に、じわりと温かいものが広がっていくのがわかった。私は背筋を伸ばし、少しでも楽に座っているように見せた。
四半刻は、すぐに過ぎた。
「また参ります」
「来るなと言っている」
私は一礼して、牢を出た。扉を閉め、鍵をかける。鉄の扉の向こうで、鎖の音がひとつだけした。
階段を下りきったところで、足を止めた。
裏門の詰め所に、明かりがついていた。誰かいる。
私は柱の陰に身を寄せた。
牢番の前に、フードをかぶった女が立っていた。上等な絹の外套。フードの縁から、波打つ蜂蜜色の髪がひと房こぼれている。
女が牢番の手に、何かを握らせた。
灯りを受けて、金色に光った。金貨だった。一枚ではなかった。牢番の太い指のあいだから、こぼれ落ちそうなほどだった。
「さっきの影の娘。いい声で鳴いた?」
「それが、ひと声も。つまらねえ女でさ」
「あら、残念」
女は、くすくすと笑った。広間で聞く鈴の声とは違う、喉の奥で転がす笑い方だった。
それから、牢番の耳もとに顔を寄せ、何かを囁いた。牢番が、にやにやしながらうなずく。
「へえ、そいつは。お安いご用で」
女がフードを少しずらした。口もとに、小さなほくろがあった。
ヴェロニカ様だった。




