第9話 牢の鍵(前編)
クロが戻ってきたのは、二日後の朝だった。
物置小屋の板壁の隙間から、黒い頭がのぞいた。足には、私が結んだ紙がそのまま結ばれていた。
ほどいて広げる。監獄塔の見取り図の、北側の最上階。右から三つ目の牢に、爪で押したような小さな印がついていた。
その横に、見慣れた字が一行だけ。
『来るな』
私は紙を胸に当てた。生きている。字を書く力がある。
それだけ確かめれば、十分だった。
残り二十八日。
監獄塔の門は、昼も夜も牢番が守っている。重い罪人に会うには、王家の許しの札か、牢番に握らせる金がいる。
私には、どちらもなかった。屋敷を出るとき持ち出せたのは、影の服と短剣と、木彫りの小鳥だけだ。
売れるものは、ひとつだけあった。
物置小屋の雨水の桶の前で、うなじの黒い紐をほどいた。腰まである黒髪が、背中に落ちた。影になってから三年あまり、毎朝この紐で結んできた髪だった。
短剣を肩の上に当てて、ひと息に引いた。
ざくり、と重い音がした。黒い束が、膝の上にとぐろを巻いて落ちた。首のうしろが、急に寒くなった。
魔力の高い者の髪には、魔力がこもる。魔道具の芯や、術の触媒になるので、魔塔が高く買い取る。王都の裏通りにも、魔塔の買い付け人が店を出していることを、私は知っていた。
髪を売れば、魔塔の者の目に触れる。これほど魔力のこもった黒髪を持つ娘が誰なのか、父ならすぐに気づくだろう。私が生きていることも、この国にいることも、塔に知られる。
それでも、ためらいはなかった。金になるなら、それでよかった。
買い付け人の老人は、黒い束を秤に載せ、目を丸くした。
「こりゃあ、たまげた。娘さん、どこの魔術師の家の出だね。こんな髪、十年に一度も入らんよ」
「孤児です」
「孤児、ねえ」
老人は、私の顔をじろじろ眺めながら、手のひらに金貨を三枚落とした。
ほどいた紐は、捨てられなかった。手首に巻きつけて、袖の中に隠した。桶の水面に、肩の上で不揃いに跳ねた黒髪の娘が映っていた。
夕方、私は薬草屋で傷薬と熱さましを買い、パン屋で固いパンとチーズを買った。伯爵様、奥様、ジークベルト様、ユリウス様。四人分の包みにした。金貨は一枚と少し残った。牢番に握らせるには、とても足りない。
日が落ちてから、監獄塔の裏門へ回った。
黒い石を積み上げた塔は、夜空に突き刺さった杭のようだった。窓という窓に鉄格子がはまり、ところどころから、呻き声とも風の音ともつかないものが漏れていた。
裏門の詰め所には、太った牢番がひとり、酒瓶を抱えて座っていた。赤ら顔に、脂で光る額。
「ヴィンターハルト伯爵家の皆様に、差し入れをさせてください」
牢番は私を上から下まで眺めた。灰色の影の服。黒い手袋。切ったばかりで不揃いな黒髪。
「大逆の罪人に会いたいってか。札は」
「ありません」
「なら金だ。金貨で十枚」
「持っていません」
牢番は鼻で笑った。
「話にならねえな。帰れ。罪人の犬に用はねえ」
「何でもします」
牢番の目が、少しだけ細くなった。酒瓶を床に置き、壁にかかっていた革の鞭を手に取る。罪人を打つための、先の割れた鞭だった。
牢番は鞭の柄で、私の顎を持ち上げた。脂で光る顔が、にやりと崩れた。
「何でも、ねえ。若い娘が、そう簡単に言うもんじゃねえぞ」
「何でもします」
「いいねえ。その目」
牢番は、私のまわりをゆっくり一周した。鞭の先が、私の肩から腰へ、なぞるように滑っていく。
「俺はな、この鞭で女を叩くのが好きなんだ。悲鳴が聞けりゃ、なおいい。だがな、いちばんたまらねえのは、お前みてえに、誰かのために黙って体を差し出すやつをいたぶることさ。泣いて許しを乞うまで、ゆっくりな」
酒の匂いのする息が、頬にかかった。
「なあに、約束はちゃんと守ってやる。服を脱げ。下着だけになれ。二十だ。泣きも叫びもしねえで耐えられたら、門を通してやる。ひとつでも声を出したら、最初からやり直しだ。どうする、お嬢ちゃん」
王家に仕える牢番や衛兵の多くは、幼いころに、男の働きを封じる術をかけられている。罪人の女や、牢を訪ねてくる女に手を出させないためだ。だからこの男も、私を襲うことはできない。
その代わりに、こういう男は、自分の手の届く小さな檻の中で、ゆがんだ楽しみを探す。
私は上着を脱いだ。シャツを脱ぎ、ズボンを落とした。
「靴もだ。罪人の犬は、裸足がお似合いだ」
冬の石の床の冷たさが、裸足の裏から這いあがってきた。
牢番の目が、私の体の上をゆっくりと動いた。それには、何も感じないことにした。塔で、検分の台に寝かされて、大人たちに胸の魔核をのぞきこまれたときと同じだ。私はここにいない。そう思えばいい。
「へえ。影ってのは、もっと傷だらけかと思ったが、きれいなもんだ。今夜で、それも終わりだがな」
詰め所の冷たい石の壁に両手をつき、背中を向けた。
「数えろ。声に出すんじゃねえぞ。心の中でだ。俺が数を間違えたら、最初からだからな」
一打目で、息が止まった。
空気を裂く音が、遅れて耳に届いた。背中に、熱い一本の線が走った。
「いいねえ。いい音だ」
二打目からは、数を数えた。三、四、五。数のほかには、何も考えないようにした。あの牢の中の人のことも、考えないようにした。考えれば、声が出る。
「おい、震えてるぞ。寒いのか? それとも怖いのか?」
六、七。
「罪人の主人のためにここまでするとはな。どうせ三十日後には首が落ちるんだ。お前のこの背中も、全部無駄になるんだぜ。なあ、わかってるか」
八、九、十。
十を過ぎたころ、壁についた手のひらが汗で滑った。爪を石の目に立てて、こらえた。唇の内側を噛んだ。鉄の味がした。
「十五。ほら、あと五つだ。泣いてもいいんだぞ。泣いたら、もう一回最初から遊べるからな」
牢番は、楽しそうに笑っていた。一打ごとに、間を長く取った。来るとわかっている痛みを待つあいだが、いちばん長かった。
二十。
牢番が鞭を下ろした。
「ちっ。声ひとつ出さねえとはな。つまらねえ。大した影だ」
牢番は鍵束を放ってよこした。
「会わせてやるのは一人だけだ。四半刻。残りの包みは、俺が届けてやる」
牢番は、私が抱えていた包みのうち三つを、机の上にまとめて引き寄せた。本当に届けてくれるのかどうか、私には確かめるすべがなかった。それでも、頭を下げるしかなかった。
「ありがとうございます」
「礼を言うのか。気色悪い女だ」
会うのは、あの方にした。




