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「お前は妾で十分だろう」と言われたので、二十四時間後にこの世を去ります  作者: 鷹居鈴野


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第8話 鶏も犬も残さず

 最初に聞こえたのは、犬の声だった。


 伯爵様の猟犬たちが、裏庭の犬舎でいっせいに吠えはじめた。兵士が戸を開ける音。


「一匹ずつ出すな、面倒だ。中でやれ」


「こいつ、噛みやがった!」


「だから中でやれって言ってんだよ。ほら、尻尾を振ってやがる。馬鹿な犬だ。主人が首を落とされるってのに」


 笑い声と一緒に、吠え声が、ひとつ、またひとつと途切れていく。最後まで鳴いていたのは、ユリウス様がいちばん可愛がっていた、耳の垂れた老犬だった。


「じじい犬のくせに、しぶといな」


 その声も、止まった。


 私は植えこみの陰で、両手で口を押さえていた。


 兵士たちは犬舎を出て、厩舎へ向かった。馬たちが暴れて、板壁を蹴る音が響く。ジークベルト様の黒い愛馬が、高くいなないた。


「おい、この黒いの、いい馬だぞ。殺すのはもったいねえ。こっそり売っちまおうぜ」


「やめとけ。大逆の家の馬なんか持ってたら、お前も首が飛ぶ。王家の役人は、帳面の数を一頭ずつ数えるんだ」


「ちっ。じゃあ、せめて一番槍は俺だ」


 影は、主の持ち物を守るものだ。けれど、ここで飛び出せば、私も捕らえられる。捕らえられれば、牢にいる主のために動ける者が、誰もいなくなる。


 だから私は、動かなかった。動けなかった。爪が、手のひらに食いこんでいた。


 黒い馬の最後のいななきが、冬の空に長く響いて、途切れた。


 厩舎の中が静かになった。藁と、鉄と、生温かいものの匂いが、風に乗って流れてきた。


 兵士の一人が、中から出てきて叫んだ。


「おい、梁の上に鳥がいるぞ。カラスだ」


「伯爵家の使い魔だろう。そいつも数に入ってる。帳面に『黒い鳥一羽』ってあるぞ」


「鳥まで帳面かよ。役人ってのは細けえな」


 体が勝手に動いていた。


 植えこみを飛び出し、裏口から厩舎へ回りこむ。戸口から中をのぞくと、兵士が梁に槍の柄を突き上げていた。


「降りてこい、ほら。ご主人様のところへ送ってやるからよ」


 クロが落ちた。


 羽をばたつかせて床の上を跳ねるクロを、兵士の手がつかんだ。首を握られて、クロが細い声を上げた。


「小せえな。これで使い魔か。羽も生えそろってねえ。こんなのに餌をやってたのか、伯爵家は」


「首をひねれば一発だろ。さっさとやれ」


「待てよ。たまには、ゆっくりやらせろ。犬は吠えるばっかりで、つまらなかった」


 兵士がもう片方の手で、腰の短剣を抜いた。刃先で、クロの小さな胸をつつく。


 私は戸口の陰から飛び出した。


 兵士が振り向く前に、その手首を打った。教わったとおりの場所を、教わったとおりの角度で。指がゆるむ。クロが、私の手の中に落ちてきた。


 クロを懐に押しこんで、走った。


「待て! 女だ!」


「使用人の生き残りか! 逃がすな!」


 背後で怒鳴り声がした。厩舎の裏の戸を体当たりで開ける。外に出た瞬間、左腕に熱いものが走った。


 追いかけてきた兵士の槍が、私の腕を裂いていた。


 構わずに走った。裏庭の垣根の破れ目をくぐり、屋敷の裏手の雑木林へ飛びこむ。背中で兵士たちの声がした。


「追うか?」


「放っとけ。逃げた女中ひとりとカラス一羽だ。帳面には『処分済み』と書いときゃいい」


「そりゃあいい。誰も数えに来ねえよ」


 声は、やがて遠ざかった。


 雑木林の奥に、古い物置小屋がある。庭師が使わなくなった道具を放りこんでいた場所だ。


 私は中に入り、戸を閉めて、壁に背をつけて座りこんだ。


 息が整わなかった。左の袖が、肘から下まで濡れていた。


 懐から、クロを出した。


 クロは私の手のひらの上で、羽をふくらませて震えていた。首の羽が、兵士の指の形に乱れている。それでも、黒い目を開けて、私を見ていた。


「よかった」


 声が、かすれた。


「あなただけでも」


 犬たちは、もういない。馬たちも。毎朝ユリウス様のあとをついて歩いた老犬も、ジークベルト様を乗せて北の街道を何度も往復した黒い馬も。


 クロが、私の指を一度だけ軽くつついた。


 私はクロを膝にのせ、袖を裂いて、腕の傷をきつく縛った。走るうちに髪の紐がほどけかけていて、黒髪が肩から胸へ垂れていた。指で束ね直し、結び目を確かめる。手が震えて、二度やり直した。


 布の上から、血がにじんでくる。痛みはあった。けれど、それよりも、頭の中で同じ言葉が回っていた。


 三十日。


 三十日後に、あの方は首を落とされる。伯爵様も、奥様も、ユリウス様も。二百八十七の首と一緒に。


 私に何ができるだろう。


 この国で名乗れる姓は、私にはない。本当の姓は、国境の向こうに捨ててきた。家も、金も、味方もいない。


 あるのは、剣と体術と、毒の見分け方。それから、同じ年ごろの魔術師の誰と比べても桁違いの魔力。塔と家で絞られつづけ、この屋敷で誓約に削られながら、それでも育ちつづけた魔力だ。


 けれど、王家の牢は、魔術を封じる結界の中にある。どれほど魔力があっても、あの中では使えない。力ずくで主を連れ出すことは、できない。


 審問をやり直してもらうには、侯爵の言葉が嘘だという証拠がいる。印章をどうやって使ったのか。誰が使ったのか。


 ヴェロニカ様の顔が浮かんだ。夜会の庭。奥の廊下。夜の庭は冷えるでしょう、とささやいた声。審問の間の柱の陰で、ヴェールの下に浮かんだ笑み。ジークベルト様は、私の言葉を聞かなかった。


 でも、今は、それを考えている場合ではなかった。


 まず、あの方が生きていることを確かめたかった。牢の中で、どんな扱いを受けているのか。食べ物はあるのか。傷はないのか。


 傷のことだけは、わかった。


 私は袖をまくり、自分の腕と脚を確かめた。捕らえられた日から、手首にだけ、鎖で擦れたような浅い傷が帯になって残っている。誓約の第一の段が、あの方の傷の半分を運んできたものだ。それ以外に、新しい傷は増えていない。


 打たれてはいない。少なくとも、今はまだ。


 けれど、誓約が運ぶのは、傷と痛みと、呪いと毒だけだ。飢えも、渇きも、寒さも、運んではくれない。あの方が牢で食べ物を与えられず、凍えていても、私にはわからない。代わりに飢えてあげることも、できない。


 だから、行くしかなかった。


 判決が下ると、罪人は王宮の地下牢から、王都の西にある監獄塔へ移される。監獄塔も、魔術を封じる古い結界に包まれている。そのうえ、王宮の地下よりも衛兵が多く、門は牢番が昼も夜も守っている。去年、ジークベルト様が北の捕虜の引き渡しで監獄塔を訪れたとき、私も供をした。どの廊下がどこへ続き、どの窓に鉄格子がはまっているか、私は覚えていた。


 小屋の隅に、庭師の古い帳面が落ちていた。最後の一枚を破り取る。指先に灯りの魔力を少しだけともして、手もとを照らした。


 炭のかけらで、監獄塔の見取り図を描いた。


 塔の階、廊下、窓の位置。重い罪人が入れられる、北側の高い牢の並び。


 その下に、小さく書いた。


『どの牢におられますか。印をつけて、この鳥にお返しください。必ず参ります』


 名前は書かなかった。字を見れば、あの方にはわかる。


 紙を細く折りたたんで、クロの足に糸で結んだ。


 クロは、まだ少し震えていた。首の羽も乱れたままだ。今日、殺されかけたばかりの小さな鳥に、王都の空を飛ばせる。それがどれほどひどいことか、わかっていた。


 でも、ほかに頼れるものがなかった。


「ごめんね」


 クロは、首をかしげた。それから、私の指を嘴でそっとくわえて、放した。わかった、と言っているように見えた。


 小屋の戸を細く開けた。夕暮れの空が、紫色に沈みかけていた。遠くで、屋敷の門を閉める音がした。重い鉄の音が、ヴィンターハルトの名の終わりを告げる鐘のように、林の奥まで響いてきた。


 クロを両手で包み、空へ向けて差し出した。


「行って。あの方に届けて」

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