第2話 十五歳、私は家を捨てた(前編)
私の本当の名前は、ネフェリア・オストヴァルトという。
オストヴァルトの魔塔。北の国エーレンフェルト王国の王都にそびえる、魔術師たちの塔だ。国じゅうの優れた魔術師がそこに集まり、王家でさえ一目置く。その名は、国境の外にまで知られている。その頂点に立つのが魔塔主、マクシミリアン・オストヴァルト。私の父だった。
ただし私は、正妻の娘ではない。
母は、魔塔でいちばん魔力の高い女魔術師だった。父が若いころ、母とのあいだにもうけた子。それが私だ。
母は、塔にいる魔術師の多くと同じ人だった。子への愛情より、魔術師としての高みを選んだ。私の記憶にある母は、いつも研究室の机に向かう背中だ。振り向いてもらった覚えは、ほとんどない。
私が五つのとき、母は魔術の実験のさなかに事故で死んだ。研究室の扉の隙間から漏れた白い光と、焦げた匂いだけを覚えている。私は、塔の子ども部屋に移された。
魔塔には、親に顧みられない子、親を亡くした子が大勢いた。誰も、その子たちに愛情はかけない。魔力が多ければ、塔に残されて道具として使われる。少なければ、身ひとつで町に放り出される。
子ども部屋の寝台は、毎年少しずつ空いていった。昨日まで隣で眠っていた子が、ある朝いなくなる。理由を聞く者はいなかった。
十歳の冬、私は塔の検分室に呼ばれた。
魔核の検分。子どもの胸に手を当てて、魔核の強さと質を見る儀式だ。結果によって、その子が塔に残るか、追い出されるかが決まる。
私の胸に手を当てたのは、父だった。
「この子の魔核は、珍しく出来がいい」
父の瞳の縁に、細い銀の輪が浮かんでいた。魔塔主の血筋の者が魔力を使うと、瞳に現れるしるしだ。その目は、娘の顔を見ていなかった。見ていたのは、私の胸の奥にある魔核だけだった。
同じ輪は、私の瞳にも浮かぶ。父の娘である証は、それだけだった。
「しかも、二つある。片方は、回復核だ」
父の声が、そのとき一度だけ弾んだ。娘が見つかったからではない。掘り出し物が見つかったからだった。
人の胸の奥には、ふつう、魔核がひとつだけある。魔力を生み出す器官だ。けれど、ごくまれに、もうひとつ別の核を持って生まれる者がいる。
私が持っていたのは、ふつうの魔核と、回復核の二つだった。
回復核は、癒やしの核だ。傷ついた体や病を治し、使った魔力を元に戻す。自分の体にも、手を当てた他人の体にも効く。魔核を二つ持つ者は、魔術師の中でもごくわずか。癒やしの核となれば、なおさらだ。王家が何より欲しがるものだった。
その月のうちに、私は魔塔主の家に引き取られた。塔の最上階の三つの階が、魔塔主の一家の住まいだった。
娘としてではない。養女として。それまで姓のなかった私に、オストヴァルトの名が与えられた。絹のドレスを与えられ、礼儀作法と刺繍と、魔力を差し出すための術を教えこまれた。
この国の魔術師の家では、強い魔核を持つ娘は財産だ。王家や大貴族に嫁がせれば、その家と強く結びつくことができる。
父にとって、私は「出来のいい器」だった。
家に上がった最初の晩、私は広間で、父の正妻に引き合わされた。今日から私の義母になる人だった。
名門の貴族の家から嫁いできた人で、魔力も多かった。真珠を編みこんだ髪に、孔雀の羽の扇。その扇が、私の顔の前でぱちりと閉じられた。
「これが、あの女の子ども?」
次の瞬間、頬に熱いものが走った。閉じた扇で、打たれたのだ。
「顔を上げなさい。あの女とそっくりな目。汚らわしい」
もう一度、反対の頬を打たれた。私は十歳で、何が起きたのかわからなかった。
「旦那様。こんなものを、本当に家の中に入れるおつもり?」
「核に傷がつかなければ、好きにしろ」
父はそれだけ言って、書斎へ戻っていった。
私は、父が妻を裏切ってつくった子だ。そして父の庶子は、私ひとりではなかった。父は取りつかれたように外で子をつくった。魔力は親から子へどう受け継がれるのか。強い魔力の女と交われば、どれほどの子が生まれるのか。それを一人ずつ確かめるように。
義母と父のあいだに生まれた姉テオドラの魔力は、あまりにも平凡だった。
それが、父の何よりの屈辱だった。魔塔主の正しい血を継ぐ娘が、塔の下っ端の魔術師と変わらない。父が外に子をつくる手は、姉が生まれてから、いっそう止まらなくなった。
ただ、家の中にまで入りこんできた庶子は、私だけだった。
だから義母は、行き場のない憎しみを、全部私にぶつけた。
すれ違うたびに、扇が飛んできた。廊下で、階段で、客を送り出したあとの玄関で。
「あの女の子どもが、私の家の床を踏んでいるのね」
「あの女の子どもに、パンなんて上等なものはいらないでしょう。床に落ちたのを拾わせなさい」
「お前の母親は、魔術と男にだらしない、汚い女だったのよ。お前の体にも、同じ血が流れているの。覚えておきなさい」
義母は、一度も私の名を呼ばなかった。義母にとって私は、最後まで「あの女の子ども」でしかなかった。
客のいる晩餐では、私は令嬢として食卓の端に座った。義母は客の前で私の髪を撫で、「うちの末の娘ですの。おとなしい子で」と微笑んだ。客が帰った瞬間、同じ手が、私の髪をつかんで食卓から引きずり下ろした。
客のいない夜は、台所の隅で食べた。与えられた部屋は、北向きの屋根裏だった。冬でも暖炉に火は入らなかった。
姉は、私より三つ上だった。
魔術も、魔力の量も、私のほうが上だった。塔の子ども部屋で育った五年間、私は毎日のように倒れるまで魔力を絞り出させられた。魔力の器は、限界を迎えるほど大きくなる。空になるまで使い切った翌朝には、前の日より少しだけ多く満ちている。家に引き取られてからも、家の結界、父の研究の魔道具、義母の部屋を温める炉の石に、毎晩、空になるまで差し出した。
十五になるころには、私の魔力の量は、同じ年ごろの誰と比べても、はるかに上になっていた。家庭教師に守られて育った姉は、限界まで使い切る経験をしていない。
父の屈辱の種である姉にとって、庶子の私のほうが上だということは、何より許せないことだったらしい。
「器のくせに」
姉は、私を殺したがっていた。
十一の秋。夕食のスープを一匙すすったとたん、喉が焼けた。床に倒れた私を、姉はドレスの裾を持ち上げて見下ろした。
「あら、飲んだの。お行儀が悪いわね。毒見もしないで」
姉は笑っていた。
「お父様の前で、二度と私より上手に術を使わないで。次は、もっと苦くしてあげる」
部屋に毒の粉をまかれるのも、食事に毒を入れられるのも、それからは珍しいことではなくなった。どれも、人ひとりが死ぬのに十分な量だった。
それでも私が生きていたのは、胸の奥の回復核のおかげだった。毒を飲んでも、回復核が体を内側から癒やし、三日寝こめば起き上がれた。
四日目に食堂へ下りていくと、姉はいつも同じ顔をした。
「まだ生きてるの? 気持ちの悪い子。ゴキブリだって、もう少しおとなしく死ぬわよ」
四度目からは、匙を口に運ぶ前に、匂いでわかるようになった。毒を見分けることを、私は誰に教わるより先に、この家で覚えた。
眠っているあいだに、刺客が来ることもあった。
屋根裏の床板がきしむ音で目を覚ますと、黒い布で顔を覆った男が、短剣を手に寝台の脇に立っている。私は毛布ごと転がり落ちて、階段を駆け下りた。腕を切られた夜も、髪をつかまれた夜もあった。
ある夜、逃げ遅れて、喉に刃を当てられた。男は低い声で笑った。
「悪く思うなよ。お前が生きていると、眠れないお方がいるんだ」
階下で物音がして、男は窓から消えた。
差し向けたのが姉なのか、義母なのか、私にはわからなかった。どちらでもおかしくなかった。
翌朝、廊下ですれ違った義母は、扇で口元を隠したまま言った。
「あら。まだいるのね、あの女の子どもは」
その日の昼、姉は窓辺で紅茶を飲みながら、私を見もせずにつぶやいた。
「役に立たない刺客ね。お金の無駄だわ」
いつのころからか、私は扉に背を向けて眠れなくなった。
父に訴えても、返ってくる言葉は決まっていた。
「魔核さえ傷まなければ、それでいい」




