第1話 銀の鈴を鳴らした夜
目を覚ましたとき、胸の奥が空っぽだった。
息を吸っても、吐いても、何も満ちてこない。いつもならそこで静かに脈打っていたはずの温かいものが、ない。指先を動かそうとして、それすら重かった。
「お目覚めですか」
寝台の脇に、白い法衣の男が立っていた。神官オルバン。昨夜、私を処置台に寝かせた人だ。指には、昨日までなかった大きな紅玉の指輪が光っていた。
「処置は終わりました。あなたの魔力の九割と、魔核は、無事にヴェロニカ様へお移ししました」
魔核。人の胸の奥にあって、魔力を生み出す器官のこと。心臓がなければ血が巡らないように、魔核がなければ魔力は生まれない。それを、私は取り出された。
「ヴェロニカ様は、もう頬に赤みが差しておいでです。聖騎士様も、それはもうお喜びで」
オルバンは指輪を撫でながら言い、それから、ふいに目をそらした。
「それと、お腹のお子は、処置のさなかに流れました」
私は何も言わなかった。オルバンは、沈黙が怖かったらしい。早口で続けた。
「私を恨まないでくださいよ。処置は聖騎士様のご命令です。私は神殿の務めを果たしただけですから」
そう言うと、逃げるように部屋を出ていった。
私は、天井を見ていた。
お腹に手を当てる。昨日まで、ここにいた。まだ動きもしない、手のひらにおさまるほどの小さな命だった。それでも、いたのだ。
私の名はアマリア。聖騎士ジークベルト・ヴィンターハルトの「影」だ。
影とは、名門の家が抱える、主の護衛であり、身の回りの世話係でもある者のことをいう。姓も身分も持たない。主のために生き、主の前で死ぬ。それが影だ。
私の主は、聖騎士ジークベルト。
聖騎士とは、神殿が「神の加護を受けた者」と認めた騎士のことだ。この国に三人しかいない。爵位とは別格で、王族の次に重んじられる。
けれど七年前、私が出会ったころのジークベルト様は、ヴィンターハルト伯爵家の長男にすぎなかった。その伯爵家は、四年前に大逆罪で一族ごと滅ぼされた。罪人に落ちたジークベルト様は、そこから這い上がって、聖騎士になった。
冬の月のような銀髪を、いつもうしろへ流している人。薄い氷の色をした青い瞳は、めったに揺れない。聖騎士の白い外套の下、濃紺の上着の胸には、銀糸の雪狼の紋章が今も縫い取られている。滅びた家のしるしだ。
お腹の子の、父親だった人。
昨夜、処置の前に、私はジークベルト様に言った。お腹に、あなたの子がいます、と。
ジークベルト様は、信じなかった。
『避妊の薬は飲ませていたはずだ。子などできるはずがない』
『ですが、本当に』
私はジークベルト様の袖をつかんだ。影が主の服に触れるなど、許されないことだった。それでも離せなかった。
『お医者様に、今ここで診ていただければわかります。どうか。移植をしたら、この子は死にます』
ジークベルト様は、私の手を、袖から一本ずつ外した。
『気のせいか、嘘だ。どちらでもいい。処置は今夜だ』
医師は呼ばれなかった。
あの青い瞳は、少しも揺れなかった。
もう薬は飲まなくていい。あの夜そう言ったのは、あなただったのに。
扉の外を、誰かが通っていった。若い侍女たちの声だった。
「ねえ、聞いた? 影のくせに、聖騎士様の子を身ごもったなんて言い出したんですって」
「嘘に決まってるじゃない。婚礼の前に、ヴェロニカ様の邪魔をしたかったのよ」
「胸を開かれても死なないなんて、しぶといわね。影って、虫みたい」
くすくすと笑う声が、廊下の先へ遠ざかっていった。
真夜中を過ぎていた。壁の向こうから、笑い声が聞こえてきた。
「ジークベルト、見て。もう指先まで温かいの」
「無理をするな。まだ横になっていろ」
「平気よ。こんなに体が軽いの、生まれて初めて」
ヴェロニカの声だった。
ジークベルト様の初恋の人。ジークベルト様の、最初の婚約者だった人。
けれど四年前、ヴィンターハルトの一族が大逆の罪で処刑台へ送られたとき、ヴェロニカは牢のジークベルト様に婚約の取り消しを告げに来て、別の男の腕に寄り添って帰っていった。いちばん苦しいときに、ジークベルト様を見捨てた人だ。
三か月前、今度はヴェロニカの侯爵家が没落した。そのときジークベルト様は、ヴェロニカにされたことなどすっかり忘れたように、颯爽と救い出した。物語に出てくる、姫を救う騎士のように。そして、自分の手で屋敷に連れて帰ってきた。
その人が、昨日まで「魔核が枯れる病」で寝込んでいて、今は私の魔核で、元気に笑っている。
そして今は、ふたたびジークベルト様の婚約者だ。
ひと月前、二人の婚約は、王都じゅうに披露された。婚礼は、もう十日もしないうちに神殿で挙げられる。屋敷の広間には、婚礼の飾りの台が組まれはじめている。
ヴェロニカが来た日から、ジークベルト様が私にくれた「結婚しよう」という言葉は、どこにもなくなった。誰も、最初からなかったように振る舞っている。ジークベルト様自身も。
私と過ごした七年も、そのあいだに積み上げた情も、愛も。初恋の前では、塵にひとしかった。
「ねえ、ジークベルト。あの影は、どうしているの?」
壁越しに、ヴェロニカの声が少しだけ甘くなった。
「放っておけ。影は丈夫だ。三日も寝ていれば起きる」
「そう。かわいそうに。でも、おかげで私、こんなに元気になれたわ。あとで、お礼を言わなくちゃね」
お礼。その言葉の端に、私だけが知っている笑い方がにじんでいた。口の端だけを持ち上げる、あの笑い方だ。壁を隔てていても、目に浮かんだ。
私は、ヴェロニカが大嫌いだ。
影は、主の想う人を憎んではいけない。わかっている。それでも、この胸の、魔核のあった空っぽの場所で、それだけは、はっきりと燃えていた。
「よかった。本当に、よかった」
ジークベルト様の声は、やわらかかった。
昔は、私にも向けられていた声だった。下町の隠れ家で、私の作ったスープを「うまいな」と言ったときの声。悪い夢から覚めて、私の肩に額を預けたときの声。ヴェロニカが来てから、私の耳には一度も届かなくなった声。
ああ、と思った。
涙は出なかった。胸の奥が空っぽで、泣くための何かまで、魔核と一緒に抜かれてしまったらしかった。
ノエラがいたら、泣いてくれただろう。
私を妹のように可愛がってくれた侍女のノエラは、二日前に死んだ。
廊下ですれ違いざまにヴェロニカの袖に触れ、手にしていた茶をドレスに数滴こぼした。それだけだった。ヴェロニカは侍女に持たせていた雷鞭を取り、ノエラを打った。雷鞭は、打つたびに稲妻の魔力が走る鞭だ。貴族が使用人の罰に使うもので、本来は痛みで懲らしめる道具にすぎない。
一度目で、廊下の燭台が青白く瞬いた。二度目で、ノエラの悲鳴が途切れた。
ノエラは三度目で動かなくなった。
『こんなに強い罰だなんて、知らなかったの』
ヴェロニカは、ジークベルト様の胸で泣いた。
ジークベルト様は、それ以上何も咎めなかった。
四年前、一族を失って罪人に落ちたジークベルト様を、下町の隠れ家で支えたのはノエラだった。伯爵家から暇を出されたのに、私たちを探し出して、自分の蓄えを差し出してくれた。罪人の着る服を、文句ひとつ言わずに洗ってくれた。
カスパルがいたら、「姉さん」と駆け寄ってきただろう。
路地裏で拾ってきた孤児のカスパルは、ひと月前に処刑された。聖騎士の秘密を敵に売った罪で。まだ十二歳だった。
隠れ家にいたころ、カスパルは毎朝、自分のパンを半分ちぎってジークベルト様に届けた。「いつか、えらい騎士様になる人だもん」と、まだ何者でもなかったジークベルト様を、誰よりも先にそう呼んだ。
その子の処刑命令書に署名したのは、ジークベルト様だった。
そして、お腹の子も、もういない。
寝台の脇の小さな引き出しに、手を伸ばす。重い腕を、少しずつ動かして、いちばん奥を探る。
指先に、冷たいものが触れた。
小さな銀の鈴。
四年前、私が一度死にかけたとき、女神様からもらったものだ。
『わかった? 離れたくなったら、鈴を鳴らして連絡して』
女神様は、そう言った。
私はずっと、この鈴を鳴らさなかった。どんなに辛くても、ジークベルト様のそばにいたかったから。そう自分で決めたから。
鈴を目の高さに掲げる。
磨かれた銀の表面に、小さく私の顔が映っていた。頬がこけ、唇は紙のように白い。うなじで一本に結んだ黒髪は、艶をなくしてほつれている。
灰色の瞳を、じっと見た。魔力を使うとき、私の瞳の縁には細い銀の輪が浮かぶ。ずっと誰にも見せないようにしてきた、生まれのしるしだ。
試しに、指先にほんの少しだけ力を込めてみた。
何も浮かばなかった。灰色の瞳は、ただの灰色のままだった。
隣の部屋から、また笑い声がした。グラスの触れ合う音もした。二人で、何かを祝っているらしかった。
私は、鈴を振った。
澄んだ音が、ひとつだけ鳴った。
部屋の空気が、ふっと止まった。燭台の炎が揺れるのをやめ、窓の外の風の音も消えた。壁の向こうの笑い声も、言葉の途中でぷつりと途切れた。
寝台の足元に、光をまとった女の人が立っていた。
金色とも銀色ともつかない長い髪。どこか眠たそうな、やさしい目。あの日と、何ひとつ変わらない姿。
女神様だった。
「……そっか」
女神様は、私の顔と、私のお腹と、壁の向こうを順に見て、小さく息をついた。
「決めたんだね」
「はい」
声はかすれていた。それでも、はっきり言えた。
「この世を、離れます」
女神様はしばらく黙っていた。それから寝台の端に腰を下ろし、私の手を取った。温かい手だった。
「あのとき、あなたは『辛くても、ジークベルトのそばにいたい』って言ったよね」
「はい」
「後悔してる?」
少し考えた。
「あの方を好きになったことは、後悔していません」
女神様は、何も言わずに私の手を握りなおした。
「わかった。じゃあ、約束どおり迎えに来る。でも、今すぐじゃないよ」
「え?」
「猶予は二十四時間。それが過ぎたら、迎えに来るよ」
女神様は立ち上がって、いつもの軽い調子で言った。
「やり残したことがあったら、それまでにね」
やり残したこと。
思い浮かぶ顔は、もうほとんど、この世にいなかった。
「二十四時間後、あなたはこの世を離れて、幸せになれる世界へ行く。それでいい?」
「はい」
女神様の姿が、光の中に溶けていく。燭台の炎がまた揺れはじめ、窓の外で風が鳴った。
時が、動き出した。
壁の向こうで、ヴェロニカがまた笑った。ジークベルト様が何か答えている。
「婚礼の日には、あの影にも白い花を持たせましょうよ。いちばんうしろで」
「好きにしろ」
二十四時間。
私は目を閉じた。
まぶたの裏に浮かんだのは、聖騎士の冷たい横顔ではなかった。七年前、血と泥にまみれた私に手を差し伸べてくれた、十八歳の青年の顔だった。銀の前髪が額に落ちていて、青い瞳はまだ少しだけ甘かった。
まだ何も知らなかったころの、あの方の顔。
そして、家を捨てた十五歳の春のことを、私は思い出していた。
私が本当は孤児ではないことを、この屋敷の誰も知らない。




