妊婦の幽霊
初めての妊娠で精神が不安定になっているのだと言われたら、それだけの話なんですが……。
どうしても嫌な考えが頭の中をぐるぐるしてしまうので、話を聞いてもらえますか?
きっかけは、夫に抱いた不信感でした。
私が妊娠してから夫の態度が変わったんです。もちろん、私の思い込みかもしれません。
でも、私が話しかけても上の空だったり、ずっと携帯を手放さなかったり。トイレの中にまで持ち込むんです。それに、ときどき私の膨らんだお腹を見てため息をつくこともありました。
そんな態度をされると……疑っちゃいますよね、不倫。
妻の妊娠中に、なんて、よく聞く話ですし。
こんなことを相談できる人がいないし、私の両親も遠くに住んでいましたから、完全に孤立してました。誰にも頼ることができなくて、不安と孤独の中にいたんです。
そんな状況だったからか、私、夕食の買い物帰りに体調が悪くなっちゃって。
家の近くの電柱に手をついて休んでいると、近所に住んでいるスギサキさんが親切に声をかけてくれたんです。
それまで彼のことはなんとも思っていなかったんですが、やさしく声をかけてくれて、家まで送ってくれた。
そんなことが、私には砂漠で一杯の水をもらったような救いになったんです。
そして……気付けばあえて彼の家の前を通ったり、彼の姿を探すことが日課になっていました。
やがて、彼の夢も見るようになりました。
夢の中の私も、現実の私と同じように、彼の姿を遠くから眺めるだけ。
玄関の前を掃除しながら、買物途中に、道端で、そっと静かに。
もちろん、私は夫のことを愛してます。お腹の中にいる子どもが生まれてきて、これからもっと幸せな家庭になるんだって思ってました。
だからスギサキさんへの気持ちなんて存在しない。好意は抱いていても、この好意は恋愛的なものではない。それに彼は既婚者で、お子さんもいます。
夢に見るほど彼を見つめていたのに、私は自分にそう言い聞かせてました。
そんなある日、晩ご飯を食べている夫は神妙な顔をしていました。
息が詰まるような時間でした。もしかしたらこれから、離婚を切り出されるのかもしれない。そう思って、ドキドキしました。
夫はしばらく沈黙した後に、こんなことを言ったんです。
「変なことを聞くんだけどさ。お前、このあたりで妊婦の幽霊って見たことある?」
思わぬ言葉に、私はぽかんとしてしまいました。
妊婦の幽霊の話をされるだなんて、夢にも思いませんでした。
「近所で噂になってるんだよ。妊婦の幽霊」
「なぁに、それ。聞いたことない」
「なんでも、夜な夜な妊婦の幽霊が、ご近所の家の窓から、家の中を覗こうとしているらしい」
「それって本当に、幽霊?」
「俺は見たことないから分からないけど……」
「それが幽霊だとして、どんな目的があるの? もしかして、子どもを生む前に亡くなった妊婦が、幽霊になって同じ妊婦を呪い殺そうとしている……とか?」
「俺もそんな感じのことを考えたんだけどさ、どうもその妊婦の幽霊、ずっと同じ家を見てるみたいなんだ」
「もしかして……うち?」
「違う違う。ごめん、怖がらせちゃった? ご近所の、スギサキさんの家。あそこなんだよ」
スギサキ、という名前を聞いて、私はドキリとしました。
スギサキさんの家を覗いている、妊婦の幽霊……?
「その……妊婦の幽霊って、どんな外見なの?」
「顔はぼやけて見えないらしいけど、髪の長い女性って話だよ。スギサキさん家の旦那さん、もしかして浮気でもしてて、その浮気相手の生霊でも憑いてるんじゃないかって噂だよ」
「……ダメだよ、そんな風に言っちゃ。スギサキさんの奥さんだって、そんな話が耳に入ったら不安になるでしょ。お子さんだってまだ小さいじゃない」
「はは、そうだよな」
この話は、それでおしまいでした。
髪の長い妊婦。
その条件は、私にも当てはまります。でも、髪の長い妊婦なんて、いくらでもいますよね。
それなのに、なんでか私、その妊婦の幽霊が自分のような気がしてしまうんです。
私はただ夢を見ているだけ。
スギサキさんの旦那さんを、遠くから見つめる夢。
けれど、夢を見ている私の体から魂が抜け出して、スギサキさんの家の窓からスギサキさんを見つめている。
そんな風に思えてならないんです。
私自身には、それを確かめるすべはありません。




