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8.ルナ・セレスティア


その日の夜の営業も、酒場『荒鷲の拠り所』はいつも通りの大盛況だった。

荒くれ者の冒険者たちがエールを注ぎ合い、ガルバさんの怒鳴り声とアーリさんの明るい笑い声が絶え間なく店内に響く。僕はとにかく夢中でトレイを運び、テーブルを拭き、気がつけば深夜の閉店時間をとっくに過ぎていた。


「ふぅ……。今日も疲れたなぁ」


片付けを終えてガルバさんたちに挨拶を済ませ、僕は建物の一角にある自分の部屋へと戻った。

部屋と言っても、元々は物置だった狭い空間に小さなベッドと机を置かせてもらっているだけの場所だ。それでも、夜露をしのげる自分だけの居場所があることが、今の僕には何よりもありがたかった。


泥のように疲れた身体を引きずり、部屋の木扉を開けて、明かりをつけようとした、その時だった。


「-おかえり、リン君」


不意に、暗闇の奥から鈴を転がすような、けれど妙に聞き覚えのある声が鼓膜を叩いた。


「ひゃ、ひゃあぁああかっ!?」


僕は情けない、女の子のような悲鳴を上げて飛び退いた。心臓が跳ね上がり、背中が冷たい壁にぶつかる。


慌てて視線を向けると、窓際に設置された小さな木机の上に、ちょこんと腰を掛けて足を揺らしている人影があった。

窓から差し込む青い月光が、その姿を妖しく、そして美しく浮かび上がらせる。


夜の闇を溶かしたような艶やかな黒髪。すべてを見通すように澄んだ、大きな黒い瞳。昼間、あの厳かな行列のなかで僕の命を救い、周囲から『現人神様』と呼ばれていたあの少女だった。


「あ、あの時の……っ!? なんで僕の部屋に……っ」


「あははは! なにその声! 面白すぎる!」


僕のあまりの狼狽ぶりに、彼女はツボに入ったのか、お腹を抱えてケラケラとおかしそうに笑い出した。昼間の神聖な雰囲気はどこへやら、今の彼女はただの年相応の、悪戯が成功してはしゃぐ女の子にしか見えない。


ようやく笑い声を収めた彼女は、机からすっと床に降り立ち、僕の顔を覗き込んできた。


「ねえねえ、君…酒場の店員さんは楽しい?」


「え……? あ、うん。まぁ、ガルバさんもアーリさんも良い人だし、ご飯も美味しいし……結構、満足してるよ」


突然の質問に戸惑いながらも僕が正直に答えると、彼女は少しだけ意外そうな顔をした後、ふふっと柔らかく微笑んだ。


「そっか。それはそれで素敵だけどね。……でもさ!」


彼女は一歩、僕との距離を詰める。月光を浴びた黒い瞳が、爛々と輝きを増した。


「もっと、もーっと面白いことが、この世界にはたくさんあるんだよ! 例えばそう、世界を巡る『冒険』! モンスターとの手に汗握る熱い戦い! 命を預け合える仲間との熱い友情! --ねえ、そんなワクワクするような冒険を、私と君で一緒にしてみない?」


両手を広げて、まるで物語の主役を誘うように彼女は言った。その圧倒的なオーラと、放たれた言葉の熱量に、僕は完全に気圧されてしまう。


昼間の様子や周りの態度からして、おそらくこの世界で途方もなく尊ばれている『現人神』という特別な存在なのだろう。そんな雲の上の人が、なぜレベル1のしがない酒場店員の僕をわざわざ夜中に訪ねてきて、冒険に誘っているのだろうか。


ぐるぐると混乱する頭を頑張って動かした出た言葉はこれだった。


「ええっと……。あの、お誘いは光栄なんだけど……その前に、普通はさ……自己紹介からじゃないかな?」


「あ……」


彼女は一瞬、呆気に取られたように瞬きをした。それから「確かに」と納得したように、自分の綺麗な額をぽんと叩く。


「ごめんごめん、つい焦っちゃって! 昼間に君のステータスを見た時から、ずーっと気になってたからさ」


彼女はいたずらっぽく笑うと、今度は背筋をピンと伸ばし、僕の目を真っ直ぐに見つめて、自身の胸に手を当てた。


「私の名前はルナ・セレスティアだよ。-よろしくね、リン君!」


あの『現人神』と思わしき少女が、僕の狭い物置部屋で、満面の笑みを浮かべて右手を差し出していた。

やっぱり…彼女は本当に綺麗だ。

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