5.目覚めのおじさん
どれくらい、そうして意識を飛ばしていただろう。
「おい、アンタ」
低い声が鼓膜を叩き、僕はハッと目を開けた。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。あれほど騒がしかった酒場の喧騒はすっかり消え失せ、室内は妙に静まり返っていた。窓の外を見ると、月はすでに傾き、夜が明ける直前の薄暗い光が差し込み始めている。
「……あ、えっと」
慌てて身を起こそうとして、自分の正面に誰かが座っていることに気づいた。
逞しい体型をした、スキンヘッドのおじさんだ。彫りの深い顔に、不精髭を生やしている。その鋭い眼光が、じっと僕のことを見つめていた。僕は無意識に身体を強張らせる。また、昼間の男たちのように殴られるのではないかと、肩が小さく震えた。
「アンタ、大丈夫か? 服に血がついてるし、なんかあったのか?」
おじさんの口から出たのは、怒号ではなく、低く落ち着いた、案じるような言葉だった。
僕が返答に詰まっていると、おじさんは手元にあった木製の器を、僕の前へと滑らせてきた。中からは、湯気と一緒に香ばしい野菜の匂いが立ち上っている。
「まあ、とりあえずこれでも食べなよ。冷めちまう前にさ」
温かいスープだった。
僕は差し出された器と、おじさんの顔を交互に見た。
この世界に目を覚ましてから、理不尽に襲われ、人々に無視され、泥の中に投げ捨てられた。あの白と金の服を着た黒髪の少女以外に、僕にまともな言葉をかけてくれた人はいない。それどころか、見ず知らずの、泥と血で汚れた僕に、こんな温かい食事を差し出してくれるなんて。
「あ…ありがとう……ございます……」
器を両手で受け取った瞬間、視界が急激に滲んだ。
一度堪えきれなくなった涙は、堰を切ったようにボタボタとスープの表面に落ちていく。お腹が空いていたことすら忘れていた。喉の奥が震えて、まともな声にならない。
「お、おいおい…なんだよ。アンタ…大丈夫か?」
おじさんは目に見えて困惑し、大きな頭をガリガリと掻いた。
「そんなに泣くほどのことかよ。ただの余り物の野菜スープだぜ?」
「すいません……すいません……」
僕は袖で乱暴に涙を拭い、温かい器に口をつけた。
塩味の効いたスープが、冷え切っていた身体の芯に染み渡っていく。美味しい、という感情と一緒に、自分がまだ生きているのだという実感が湧いてきて、また涙が溢れそうになった。それを必死に堪えながら、スプーンを使って無我夢中でスープを口に運んだ。
おじさんは、僕が器を空にするのを、急かすことなく黙って見ていた。
最後の一滴まで飲み干し、ふぅ、と小さく息を吐き出す。
「……御馳走様でした」
「おう、綺麗に食ったな。結構結構」
おじさんは満足そうに頷くと、椅子の背もたれにどっかと体重を預けた。そして、悪戯っぽく口の端を吊り上げる。
「でお前、さては行くとこないんだろ。俺にはわかるぜ」
「え……」
図星だった。僕は気まずくなって視線を落とす。
「その格好だ。訳ありなのは一目瞭然だからな。……まあ、理由も聞かれたくねえんだろ?」
ニヤつきながらそう言うおじさんの目は、僕を追及するような冷たさは一切なかった。すべてを察した上で、あえて踏み込まないでいてくれている。そんな大人の優しさが伝わってきて、僕は胸の奥がまた熱くなった。
「えっと、その、僕は……」
なんて説明すればいいか迷い、言葉を濁す。異世界から来ました、なんて言っても信じてもらえるはずがない。
僕がもごもごと口ごもっていると、おじさんは突然立ち上がり、僕の席の横まで歩いてきた。そして、大きな、分厚い掌で、僕の銀色の頭をクシャクシャと手荒に撫で回した。
「よし、決めた! うちで働け!」
「ひゃいっ!?」
突然の宣言に、変な声が出た。
「最近、うちの使いっ走りが急に辞めちまってな。ちょうど困ってたんだよ。アンタ、身体は細いが、飯をこれだけ美味そうに食うなら根性はあるだろ」
おじさんは自分の胸をドンと叩き、豪快に笑った。
「部屋もいっこ余ってるんだ。そこで寝な。宿代代わりに働いてもらうが、飯は三食保証してやる」
信じられなかった。
寝る場所も、これからの仕事も、一瞬で決まってしまった。この冷酷な異世界で、こんな救いのような出来事が起きるなんて。
「本当ですか……!? ありがとうございます! ありがとうございます……ッ!」
僕は椅子から立ち上がり、今度は大声で頭を下げた。今度は嬉し涙が溢れそうになるのを、必死に噛み殺す。
「僕は竜胆 燐と言います。リンって呼んでください。何でもやりますから、よろしくお願いします!」
「おう、リンか。良い名前じゃねえか」
おじさんは真っ白な歯を見せて笑い、僕の肩を叩いた。
「俺はガルバ。この酒場『荒鷲の拠り所』の店主だ。よろしくな、リン」




