4.初日の終わりに
目が覚めると焼けるような腹の痛みは、嘘のように消え去っていた。血の海だったはずの服には赤いシミだけが残り、破れた布地の奥にある肌は、すっかり元通りに塞がっていた。
「治った…のか?」
泥だらけの手で自分の腹に触れる。骨が砕けるような衝撃も、内臓がせり出すような悪寒も、綺麗さっぱり消え失せていた。それどころか、すり減っていた体力が急速に底上げされたような感覚すらある。
あの少女は一体何者だったのだろう。周囲の人間は彼女を『現人神様』と呼んでいた。
すべてを見通すような、底の知れない大きな黒い目。僕の世界には絶対にいない、完璧に整った顔立ち。彼女の全てが脳裏に焼き付いて離れなかった。
ガタゴトと、また一台の荷馬車が僕の横を通り過ぎていく。御者は相変わらず、泥に塗れた僕を路傍の石でも見るような目で一瞥し、そのまま去っていった。
僕はゆっくりと立ち上がり、ズボンについた乾いた泥を払う。理不尽に殴り飛ばされ、死にかけたというのに、不思議と心は落ち着いていた。いや、落ち着かせるしかなかった。ここは僕の知っている日本ではないのだ。
命の価値が恐ろしく軽い、本物の異世界。
「……まずは、安全な場所を探さないと行けないな。」
気がつけば、空はすっかり濃い藍色に染まっていた。その空には大きな月が光っていた。
夜の帳が下りても、大きな道を行き交う人波が絶えることはなかった。むしろ、魔法で動いているようなランタンらしき淡い光を灯した馬車が、次々と一定の方向へと進んでいく。僕はその人々の流れに遅れないよう、必死に足を動かした。
やがて、道の先に巨大な石造りの城壁が見えてきた。
壁のあちこちに設置された篝火が、夜の闇を赤々と照らし出している。開け放たれた頑丈な鉄の門をくぐると、そこには活気に満ちた、異世界の街並みが広がっていた。
「すごい……」
思わず、感嘆の声が漏れる。
レンガ造りの家々が整然と立ち並び、ガラス窓の奥からは温かみのあるオレンジ色の光が漏れている。露店からは肉の焼ける香ばしい匂いが漂い、すれ違う人々は誰もが武器や見慣れない衣装を身に纏っていた。
僕が趣味の小説で何度も描き、空想し続けた、本物のファンタジーの世界がそこにあった。
けれど、胸のワクワク感はすぐに現実的な問題によって塗りつぶされる。
身体が、酷く睡眠を欲していた。限界まで動き回った精神と、一度死にかけた肉体は、とっくに悲鳴を上げている。
「寝る場所を、探さなきゃな」
僕は周囲を見回しながら歩いた。
しばらく行くと、木製の看板にベッドの絵が描かれた建物が目に留まる。窓から漏れる光も静かで、いかにも旅人が足を休める宿屋といった風情だった。
意を決して、古びた木の扉を押し開ける。
カランカラン、と小気味よい鈴の音が響いた。
カウンターの奥には、恰幅のいい中年の男が座っており、羊皮紙の束に目を落としていた。
「あの、すいません。部屋は空いてますか?」
男は顔を上げ、僕の姿を一目見るなり、あからさまに眉をひそめた。
銀髪は泥で汚れ、服もボロボロだ。不審者と思われても仕方のない格好だった。
「……あァ? 空いてるが、一晩で銅貨十枚だ。前払いだぞ」
ぶっきらぼうに告げられた言葉に、僕は凍りついた。
銅貨十枚。
それが日本円でどれくらいの価値なのかは分からない。だが、致命的な事実に今更になって気がついた。
僕は、この世界の衣服を着せられて目覚めた。
財布なんて持っているはずがない。当然、この世界の通貨など一硬貨たりとも持ち合わせていなかった。
「あの…お金は……今…持っていなくて」
僕が俯きながらそう呟くと、男の顔から完全に愛想が消え失せた。手元にあった羽ペンを乱暴に机に置く。
「金がねえ? 舐めてんのか。冷やかしならさっさと出ていきな! うちにゃ物乞いに貸す部屋はねえんだよ!」
「すッすいません!」
怒鳴り声に圧されるようにして、僕は脱兎のごとく宿屋を飛び出した。
冷たい夜風が、再び僕の身体を打ち据える。
行くあてを失い、夜の街をとぼとぼと歩く。
どれだけ綺麗な街並みでも、金がなければ地獄だ。あの男の言う通り、今の僕はただの物乞いと変わらない。どこか適当な路地裏で夜を明かすしかないのだろうか。だが、またあのうさぎのような魔物や、昼間の男たちのような人に襲われたら、今度こそ終わりだ。
あてもなく彷徨っていると、ひときわ騒がしい声が響く一角に出た。
大きな木造建築の入り口から、酒と、荒々しい男たちの笑い声が漏れ聞こえてくる。看板には酒瓶のマーク。酒場だ。
扉は半開きになっており、中には武装した男たちや、見た事がない衣服を纏った者たちが大勢集まっていた。彼らは大きな木樽のジョッキを片手に、ゲラゲラと下品な声を上げて笑い合っている。
ここなら、座って休憩するくらいは許されるかもしれない。
僕は誰の目にも留まらないよう、気配を消して店内に滑り込んだ。喧騒に紛れながら、一番端にある、薄暗い壁際の席へと腰を下ろす。
木の椅子の硬さが、今の僕にはひどく有り難かった。
壁に頭を預け、そっと目を閉じる。
体中が鉛のように重い。傷は治っても、精神的な疲労は限界を超えていた。意識が急速に泥の中へと沈んでいくのを感じる。
ガシャーン、と店内のどこかで皿の割れる音が響いたが、それすらも遠い世界の出来事のように思えた。




