第19話 ロザリーと交流授業
交流授業。
それは、諸外国の学園から選ばれた代表生徒七名がガーデンドール学園へ訪れ、合同で授業を受ける行事である。
期間は約一ヶ月。互いに理解を深めたところで、最終的にはガーデンドール学園からも代表七名を選抜し、「最終試験」という名目で知恵、魔術、そして武力をそれぞれ互いに競い合うのだ。なお、対抗戦のような形式を取るものの、あくまで交流が目的のため、そこまで厳しいルールが設けられているわけではない。
クラス別に来訪する学園は異なっており、ロザリーたち特待クラスはミレッタ国の「ソトス学園」の生徒たちと交流することになった。
北方に位置する国であるミレッタは、一年を通して雪が降り続く極寒の地。そんな厳しい環境にそびえ立つ学び舎こそがソトス学園である。
そして本日、はるばるガーデンドール学園へとやって来た生徒たちとの交流授業が行われようとしていた。
ロザリーは教室へ行く前に記憶と手帳の記述から、この行事で起こることを予習する。
未来のロザリーはこの交流授業の最中、その時既に覚醒していた闇の力を使ってソトス学園の生徒を故意に傷付け、問題となっていた。
その一件がガーデンドール学園内でのロザリーの知名度を良くも悪くも上げることとなり、後の取り巻きなど彼女に近寄る者を飛躍的に増やし、「黒き女王」などと祀り上げられては、やがて増長、そして破滅へと繋がっていったのであった。
(……我ながら、愚かしく恐ろしいことをしでかすものですわ)
他国の、それも人的交流のためにやって来た者に手を出すのは、下手すれば国際問題に発展しかねない。
そんなことも分からない程に未来のロザリーは盲目になっていたのだろうか。
(時々、ワタクシは未来のワタクシが怖くなりますわ……)
辿ってきた道筋が違うとはいえ、それでもその行動は今のロザリーとあまりに乖離し過ぎている。
当初こそ、蓄積された孤独や絶望がその心根を歪ませたのだと、少しでも彼女を理解しようとしたが、今ではまるで理解出来なくなっていた。
(……まあ、未来のワタクシのことは一旦置いておいて。今回、ワタクシのすべきことはそう難しくは無いですわ。"闇の力を使わないこと"と"ソトス学園の生徒を傷付けないこと"。主にこの二つになりますわね)
今のロザリーには他人を無為に傷付けるような邪念は無い。しかし、ものの弾みというのはあるし、故意では無いにせよ、結果的に相手に怪我を負わすということになる可能性はある。
運命の強制力というのがもしあるならば、例え経緯が違うとて、結果が同じであるという事態は可能な限り避けるべきであろう。
(頑張るんですわ!ロザリー・ローゼス・ロッソ!)
鼓舞するように心の中でそう言うと、ロザリーは教室へと向かった。
「ええぇ。本日から暫くの間、我がガーデンドール学園へ学びに来る、遠いところからのお友達を紹介します」
「初めまして皆様。ソトス学園代表のトールです」
マグミスに促されてそう挨拶したのは眼鏡を掛け、如何にも真面目といった風貌の少年であった。
「至らない点、また文化の違いなどもありますでしょうが、よろしくお願いします」
トールの生真面目な挨拶に、特待クラスの生徒たちは歓迎の意を込めて拍手を送る。
ソトス学園の生徒たちは、一年の大半を雪に閉ざされた北方で過ごしているためか、何処か肌が白く感じられる。
衣服も防寒を意識した厚手の仕立てのものを着ており、この温和な気候のガーデンドール学園では些か暑そうだが、着崩そうともしないところに彼らの真面目さが窺えた。
「そうだわ。皆さんで彼らにガーデンドール学園を案内してあげましょう!」
マグミスの提案でロザリーたちは、トールをはじめとするソトス学園の生徒たちを案内することになった。
ロザリーは入学式を思い出す。案内される立場であった自分たちが、半年程で案内する側になるなど、時の流れを感じた。
「ここは植物園ですわ」
ロザリーが案内すると、トールは眼鏡を押し上げ、興味深そうに視線を巡らせた。
「……素晴らしいですね。私たちの国では、育つ植物自体があまり無いですから。このように多種多様な草木に花は、書物の中でしか見たことがありませんでした」
「それは……過酷な環境なのですわね」
「ええ。ですが、私たちにとってはその厳しさが日常ですから」
トールは生真面目に、それでいて誇らしげに言った。
「じゃあさ、トールくんたち、やっぱりその格好だと暑いんじゃない?」
「正直なところを言えば……。でも、大丈夫です」
「だったら、制服の上着を脱いでもいいんじゃない?私たちの冬服より厚そうだし、それ」
「ははは。お気持ちだけ頂きます」
トールは少し困ったように笑った。
「私たちの学園では、『衣服の乱れは心の乱れ』という言葉があります」
と、トールの後ろについていた雪のように白い金髪の少女が口を開いた。
「ですので、一度身に纏った衣服は極力脱いだり崩したりしないんです」
「まあ、あの国じゃ、来た服を脱ごうだなんて思おうとすらしないくらい寒いんだけどな」
そう声を上げてニカッと笑ったのは、一行の中で一際小柄な少年だった。
トールは気を取り直して口を開いた。
「ああ、彼女はクゥーラ。そして、彼はケスと言います」
「ご紹介に預かりましたクゥーラと申します」
「おいらはケスだ。まあ、覚えなくてもいいぞ」
「まあ、ケスったら……。そんな態度で失礼ですよ」
「失礼って言われてもなあ。猫被ったところでどうせ続かねえし、すぐバレるんだから、それなら最初から素の方がいいだろ、クゥーラ?」
クゥーラが小さくため息を吐いた。
「私たちはソトス学園の代表としてここにいるのですから、少しはその自覚を持ってください」
「へーへー、わかりましたよ」
ケスは降参とばかりに両手を軽く上げてみせたが、その表情には反省の色など微塵もない。
そんな二人の様子を見て、トールが苦笑しながらロザリーたちへ向き直った。
「申し訳ございません。ケスは口が悪く不躾に見えるかもしれませんが、決して悪意があるわけではないのです。ただ……少々、裏表が無いものでして」
「どうかお気になさらず。裏でコソコソ言われるよりもマシだと思いますわ」
「そう言ってくださりますと助かります」
「おいおい。トールよお。お前はおいらの父親か何かか?」
「誰が父親ですか!」
呆れたように言うトール。
それらは彼らにとって日常的なやり取りだったのだろう。
気付いた時には初対面の硬さはすっかりと霧散していた。
簡単な挨拶を交わしたところで植物園を後にし、その他の案内も終えたトールたちは、さっそく授業を共に受けることとなった。
学園の代表となるだけあって、彼らは特待クラスの授業内容にも難なくついてくる。
一週間も経つと慣れも出てきたようではあるが、やはりこの国の温和な気候はトールたちには暑いのか、厚手の制服も相俟って時折しんどそうに見えることがあった。
グレアーやミシェルと一緒に廊下を歩いていたロザリーは思わずトールたちへ声を掛ける。
「トールさん。やはり、暑そうに見えますけれども、何か冷たいものでも持ってきましょうか?」
「いえ、それには及びません。クゥーラ、お願いします」
「はい」
と、トールの隣にいたクゥーラが小さく呪文を唱えると、その手元から淡い光とともに、美しく煌めく小さな氷の結晶がいくつも生み出された。
結晶は周囲をふわふわと漂うと、瞬く間にその場の空気を心地よく冷やしていく。
「わあ、綺麗……!それに涼しい!」
ミシェルが歓声を上げ、グレアーもその精密な魔力制御に感心している。ロザリーもまた、その見事な魔術に純粋に目を奪われていた。
「本当に辛い時にはこうして涼を取ることも出来ます。皆さんのご厚意は有難いのですが、自分たちで何とか出来ることに対してまで、ご迷惑をお掛けしてしまうのも申し訳ないですから」
「でも、本当に凄い魔術でしたわ。あんな綺麗な氷、見たことありませんもの」
ロザリーの称賛にトールはまるで自分のことのように顔を綻ばせる。
「私たちは土地柄、水の魔術に秀でてまして。特に彼女……クゥーラはその制御の仕方が天才的なんです」
「まあ、トールったら……」
「へへへ……お熱いことで」
クゥーラの背後から顔を出したケスが、ニヤニヤとした笑みを浮かべた。
「そういや、あんた……ロザリーって言ったか?」
ケスがロザリーへ視線を向けた。
「ええ、ワタクシがロザリー・ローゼス・ロッソですけれども。貴方は確か、ケスさんでしたっけ?」
「おいらのことはどうだっていいや。あんた、もしかして……」
「?」
「……いや、何でもない。忘れてくれや」
そう言ってケスはロザリーに背を向けて去って行った。
「……変わった方ですわね」
ぽつりと呟いたロザリーに、トールが少し申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、気にしないでください。ケスは何時もあんな風に気まぐれな奴なんです」
「ええ、お気になさらず」
ロザリーはそう言いつつ小さく首を傾げたが、本人が今ここにいない以上は考えても仕方のないことと自分に言い聞かせて切り替えた。
幸い、その後も大きなトラブルは起きず、彼らとの交流は穏やかに進んでいく。
そうして時はあっという間に過ぎ、気付けば「最終試験」の日が目前に迫っていた。
「最終試験」の選抜七名は成績の良さだけではなく、普段の生活態度なども加味された上であるという。
ロザリー、カッセル、グレアー、ミシェル、ダイルの五人はその大役を任されることとなった。
「あ、キャスも選ばれたんだ?」
「はい。そのようです」
キャスは何処か憮然とした顔で言った。
選ばれたくは無かったが、カッセルが選ばれたので仕方なく……といった様子か。
彼女は何でもそつなくこなせる程に優秀ではあるものの、編入したばかりの、それも平民である彼女がこうして選抜されるということは、学園側にもカッセルの事情を知る者がいて、手を回したということだろう。と、ロザリーは思った。
「……なるほど。学園へ来たばかりのキャスさんが選ばれたということは、私たちの知り得ない選抜基準があるのでしょうね。もしも成績だけで選抜されていましたら、ミシェルさんはここには居ませんでしょうし」
グレアーが納得したように言った。
「ぐぬぬ……反論出来ない。というか、ダイルも選ばれたんだ!ズバリ、運動の一点突破かな?」
「あのなあ。一応、俺も特待クラスなんだよ。勉強もそれなりにはするっての」
「そんなサボり上等みたいな感じで、実はガリ勉くんでしたか……。私と同じタイプだと思ってたのになあ」
「いや、お前が勉強嫌い過ぎなんだよ。俺も好きじゃねえけど、流石に試験前くらいは真剣になるぞ?」
「アハハ。試験前って、何故だか読みかけの小説とか気になっちゃうよねえ」
「気持ちは分からんでもないが、そんな調子だとガチで留年するぞ、お前」
「……反省します」
肩を落とすミシェルを呆れ顔で見つめていたダイルが、ふと視線をキャスへと移した。
「そういや、お前ら何時の間に編入生と仲良くなったんだよ?」
「色々とねー」
「いえ、お茶会に一度誘って頂いただけです」
キャスがきっぱりと言った。
あまりにそう言い切るので、ダイルも思わず気圧される。
「お、おう……。ああ、自己紹介がまだだったな。俺はダイル。ダイル・デイ・サウスって言うんだ。よろしくな」
「平民のキャスです。よろしくお願いします」
特に感情の起伏も見せず、淡々と答えるキャス。
隣に立つカッセルも思わず苦笑いを浮かべる。
「……なあ、おい。こいつ、いつもこんな感じか?」
ダイルは声を潜めてミシェルに聞いた。
「そうだね。私たち相手でも大体こんな感じだよ」
「マジか……。何というか凄いな。恐れ知らずというか」
「アハハ。全然物怖じしないよねえ」
ミシェルは気にしないどころか、キャスのそういったところを面白いと感じているようであった。
つくづく陽キャのコミュ力の高さを伺わせる。
「それにしても、ワタクシたち五人全員が選ばれるとは思いませんでしたわ」
ロザリーの言葉にミシェルもうんうんと頷いた。
「だよねえ。もしかして、私たちって特待クラスの中でも特に優等生ってことかな?」
「フン。自惚れるなよ」
そう声を掛けてきたのは、ロザリーたちとキャスを除く残りの代表の一人であった。
「あら。マセヌさん。貴方も代表に選ばれたのですね」
グレアーがそう言いながら淑女の礼を取ると、マセヌと呼ばれた少年は冷ややかな視線をキャスへと向けた。
「グレアー。君がそこの平民共や、闇の力なんて得体の知れないものを持ってる奴と懇意にしているのは勝手だが、最終試験はこの学園の威信もかかっている。そいつらに足を引っ張るような真似だけはさせるなよ」
ロザリーはムッとしたものの、すぐに冷静になる。
(忘れていたけれども、よくよく考えたら、あれが貴族としては一般的な振る舞いですわね)
真っ先に叔父夫婦を思い出すロザリー。
(平民やワタクシのような得体の知れない相手でも分け隔てなく接してくれるグレアーさんたちが特別過ぎたのですわ)
と、自虐しながらも、自分で自分を卑下するのはあまりいい気分ではないとロザリーは思った。
「……私のような平民を気にかけて下さり、誠に光栄です」
キャスは表情一つ変えずそう言うと、ただ事務的に一礼した。
代わりに隣のダイルが少し不愉快そうに眉をひそめたが、一応は共に最終試験へ挑むメンバーではあるだけにここで諍いを起こしても益はないと言葉を呑み込む。
「……ご心配には及びませんわ、マセヌさん。最終試験の結果も大事ですが、ソトス学園の皆様との親睦を深めるのが本分。私たちは私たちの役割を果たすまでです」
グレアーがそう受け流すと、マセヌはフンと鼻を鳴らし、去って行った。
「なーにが威信がかかってる、よ。相変わらずお堅いねえ、マセヌ様は」
マセヌが遠ざかるのを見ながらミシェルが肩をすくめる。
「まあ、それだけ真剣に取り組んでるということでもあるのでしょう。彼の言ったこと全てが間違ってるわけじゃありません。ソトス学園の皆さんも決して遊び半分で挑む訳じゃないでしょうし、それに対して私たちも真摯に応えるというのは正しい指摘です」
グレアーは努めて冷静に言った。
理由はダイルと同じで、これからチームとしてやっていくに辺り、時間も無いのに余計な揉め事を起こすのは得策ではないという考えからである。
だが、それでも選抜メンバー七人の間に漂う空気は、決して一枚岩とは言えなかった。
そんな微細な不協和音を置き去りにしたまま、ついに最終試験の幕が上がる。
最終試験は両学園の代表生徒たちによる顔合わせから始まり、三日間に渡って行われた。
初日は「知の試験」。
様々な難問が並ぶペーパーテスト形式だったが、これに関してはガーデンドール学園側が勝利する。
成績上位者であるロザリーやグレアーは勿論のこと、普段は平民を装うために成績もそれなりに抑えているカッセルがこの時ばかりは本気を出し、キャスもそれに続いた。勉強が苦手なミシェルも勘が冴え、高得点を叩き出す。
ソトス学園の代表トールも眼鏡の奥の目を鋭く光らせるも、一歩及ばなかった。
二日目は「魔の試験」。
こちらは一転して、ソトス学園側に分があった。
極寒の地で生まれ育った彼らは、その厳しい環境を生き抜くために幼い頃から魔術を行使する機会が多い。そうやって自然と培われてきた魔力やその知識は、殆どが学生になってから本格的に魔術を学び始めたガーデンドール学園の生徒たちを凌駕していた。
特にクゥーラの魔術の知識、そしてその応用力は群を抜いており、勝利の決め手となる。
二日目を終えた時点での総合戦績は、完全に五分と五分であった。
そして迎えた最終日。
ガーデンドール学園の広大な演習場に、見学の生徒たちや教師たちが集まる。
マグミスが前に進み出、朗々とした声を響かせた。
「最終試験、最後を飾るのは『力の試験』です。ルールは至ってシンプル。学園を代表する七名による勝ち抜き戦とし、互いの力をぶつけ合い、指定されたエリアから相手を押し出すか、あるいは戦闘不能にすること。ただし、既に戦意を失った者への追撃や相手の身体へ致命傷を与えるような過度な攻撃は厳禁。まさか、いないとは思いますが、相手の命を奪うのは以ての外!あくまで常識的、安全の範囲内での実戦とします」
ルール説明が終わり、ロザリーたちは顔を見合わせて順番を決め始める。
なお、ロザリーは一番最後。つまりは、大将であった。
「得体が知れなくても闇の力が強いのは常識だ。それが使えるならばロザリー。お前が最後を務めるのは道理だろ?定石ならば、一番強いのを最後に持ってくるわけだからな」
そう提案したのはマセヌであった。
言い方はともかく、ロザリーの実力を彼なりに見込んでのことだろう。
(勝ちたいというのは本気なのですわね)
傲慢な態度の裏にある彼の執念に、ロザリーは少しだけ認識を改める。
「……では、第一試合!」
その声とともに、ソトス学園側から進み出たのはトールであった。
「向こうは最初からトールくんなの?」
ミシェルが意外そうに声を上げる。
ソトス学園の面々の中でリーダーのようなポジションにいるだけあって、トールは七人の中で特に優れていると感じさせる素養を見せていた。
当然、大将を務めるのであれば、彼であろうと誰もが予想していたのだ。
「フン。意表を突いたつもりか」
そう言ってガーデンドール学園側からリングへと上がったのは、自ら先鋒を買って出たマセヌであった。
「或いは、奴よりも実力が上のがあの中にいるのか。何れにせよ、田舎の大将如き、俺の敵ではない」
傲然と言い放ち、炎の魔力を滾らせるマセヌ。
対して、トールは氷の魔力をその身に纏う。
「僕の氷は炎すら凍らせる。本当の極寒を見せてあげるよ」
「抜かせ。その自信ごと溶かしてやる!」
「始めっっっっ!!」
試合開始と同時にマセヌが放った猛烈な火柱に対し、トールは一歩も動かず冷気を放つ。
激しくせめぎ合う炎と氷。まさに一進一退の攻防であったが、勝負を分けたのはシンプルに相性であった。
水は火に強い。その理を覆せる程、マセヌとトールには差がなかったのだ。
「勝者、トール!」
「くっ!」
模擬戦とはいえ、中々の迫力であった。
既に実戦を経験してるロザリーであっても、魔術のぶつかり合いは手に汗握るものがある。
ロザリーは無意識に自分の腕へと手を伸ばした。
「あ……」
最終試験は授業の一環であるために使用人は入場出来ず、その代わりにとジュールとテスカは手作りの組み紐の御守りを直前にロザリーへと渡し、それを腕につけていた。
それが無かったのである。
「教室に忘れてきてしまったのかしら……」
大将である自分の出番まではまだ十分に時間がある。と、ロザリーはミシェルたちに事情を説明して演習場を後にし、急ぎ足で教室へ向かうと、お目当てのものは自分の席の上に置いてあった。
「ありましたわ。良かった……」
愛おしそうに組み紐を手に取って腕にしっかり結び直すと、なるべく早く戻ろうと来た道を引き返す。
その途中でロザリーはふと足を止めた。
とある空き部屋。その扉の奥から、微かに気配がしたのだ。
(……誰かいるのかしら?)
気のせいでは片付けられない違和感。
ロザリーは意を決し、静かにその部屋の扉を押し開けた。
一歩足を踏み入れると、遮光性の高い厚手のカーテンが完全に閉め切られているからか、昼間だというのに奇妙な程に薄暗かった。
「……どなたか、いらっしゃるの?」
声を潜めて問いかけながら、ロザリーは部屋の中へと歩みを進めた。
目を凝らし、見えにくい室内を見回すも、誰の気配もない。
(ワタクシの気のせいだったのかしら……?)
力の試験への緊張が、ありもしない幻影を作り出したのだろうか。
ロザリーは小さく息を吐き、踵を返そうとした。
その瞬間だった。
「おんやあ。アンタ、ロザリーっつったっけ?」
突如、声を掛けられる。
振り返ると、そこにいたのはあの小柄な少年ケスであった。
「あら。貴方……。こんな所にいていいんですの?」
するとケスは、からかうような笑い声を上げて身を乗り出した。
「アッハッハ!もしかして、おいらがこんな小さくて弱そうだからって最初の方に出ると思った?チッチッチ。おいらの順番は最後から二番目。だから、まだ全然時間に余裕あるのさ」
「そ、そうでしたの……」
「ところでさ、そんなことよりも……」
ケスは音もなくロザリーとの距離を詰めると、薄暗い中でも分かるようにニヤニヤと笑ってみせる。
そして、ロザリーを真っ直ぐに指差した。
「お前、魔族だろ?」




