↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/18

第9話 頭を下げる相手

 ユゴーは扉を開けても、エレナを中へ招かなかった。


 雨は細くなっていた。軒から落ちる雫が、戸口の間へ一本の線を引いている。


「夜分に何用でしょう」


 家令だった時と同じ言葉遣いだった。


 だが、腰に鍵束はない。


 家は、エレナが想像していたより小さかった。軒下には薪が一列、長さを揃えて積まれている。戸口の靴は三足。贅沢な馬車も、新しい扉も見えない。


 親族を優先した責任と、自分の懐へ麦を隠した罪は同じではない。


 だからこそ、曖昧なまま怒ってはいけなかった。


「引継ぎを頼みに来ました」


「職務を停止された者にはできません」


「停止命令を変えます」


「お嬢様が?」


 問いは短く、鋭かった。


 エレナは首を振った。


「私一人では変えられない。だから、まず何が決められ、何が決められていなかったかを確認しに来たの」


 ソフィが革袋から会議の記録を出した。雨を避けるよう胸元で開く。


「私の提案を読んで」


 ソフィは指で行を追った。


「倉庫の鍵を二人で確認する。仕入れを頼む者と、受け取って数える者を分ける。口頭の約束はその日のうちに記録する。収穫期が終わるまで、ユゴー様と新しい担当者が一緒に引き継ぐ」


「停止は?」


「記録にはありません」


 次の紙には、父の署名がある。


「これは会計役が用意した停止命令です。父上が署名した。私の提案とは別です」


 ユゴーは紙へ目を落としたが、表情を変えなかった。


「では、お嬢様に責任はないと?」


「乾かし方も、鍵を分けることも、引き継ぐことも間違っていない」


 エレナは戸口の線を越えずに答えた。


「でも、領主家はあなたを引継ぎ前に止めた。その命令で、薪商も鍛冶屋も作業者も止まった。濡れた麦も出た」


 両手を前で重ねる。


「領主家の一員として、謝ります」


 深く、頭を下げた。


「損失を出した命令を、止められませんでした」


 しばらく、雨の音だけがした。


「お顔をお上げください」


 ユゴーの声は少しも柔らかくなかった。


「謝罪で薪は届きません」


「ええ。だから、動かし直す条件を決めたい」


     *


 ユゴーは二人を土間まで入れた。椅子は勧めなかった。


「薪商へは、誰の名で頼んでいたの?」


「私の名です。収穫後に館が払うと」


「館の印は?」


「ありません」


「鍛冶屋も?」


「同じです」


「臨時人夫の食事は?」


「マルタへ人数を告げ、収穫後に厨房の不足分を私が会計へ通していました」


「あなたがいなくなれば、全部止まる」


「止まりましたな」


 エレナは息を詰めた。


「必要だったから、全部が許されるわけではない」


「前にも申しました。承知しております」


「親族へ仕事を回したことは?」


「昔から家令に認められた役得です」


「記録も比較もなく?」


「急ぐ仕事で三人の値を聞いていれば、雨が先に来ます」


「一人目が親族である必要はないわ」


 ユゴーは黙った。


「あなたは領地を動かした。でも、あなたに近い人から先に助けた。あなたしか動かせない形のままにした」


「私が倒れれば困ることは分かっておりました」


「なぜ変えなかったの」


「困るのは、私がいなくなった後だからです」


 初めて、ユゴーが苦く笑った。


「人は、自分が必要とされる仕組みを、自分から壊すほど立派ではありません」


 言い訳だった。


 同時に、告白でもあった。


「ユゴーが必要だったことは消さない」


 エレナは言った。


「でも、必要だった仕事を、あなた一人のものには戻さない。立替をしたなら金額を残す。急いで親族へ頼んだなら、急いだ理由と値を残す。次に同じ仕事が来た時、別の人も比べられるようにする」


「私の裁量を奪う、と」


「裁量を見えるようにするの。正しかった判断まで、疑われずに済むように」


 ユゴーは返事をしなかった。


 だが、扉を閉めることもしなかった。


「麦を売って懐へ入れたことはない」


「ございません」


「けれど親族を優先し、比較を省き、約束を記録しなかった責任はある」


「ございます」


 ユゴーは、今度は目をそらさなかった。


     *


「復職ではありません」


 エレナは新しい紙を土間の台へ置いた。


「収穫期が終わるまでの引継ぎ役。倉庫の鍵は新しい担当者と二人で使う。発注を頼む人、品物を受け取る人、代金を払う人を分ける」


「急ぎの例外は?」


「あなたが判断していい。ただし、金額と相手と理由をその日のうちに記録する。ソフィが確認する」


 ソフィが姿勢を正した。


「私が全部書きます」


「全部は無理です」


「では、忘れて困るものから」


 ユゴーはソフィを見た。ほんの少しだけ、口元が動いた。


「薪商は夕刻まで待ちます。鍛冶屋は明朝、町の南門です。荷車主への宿代は一台につき銅貨六枚を超えると揉めます」


 ソフィの筆が走った。


 人の頭の中にしかなかった領地の一部が、初めて紙へ移り始めた。


「条件がもう一つあります」


 ユゴーが言った。


「停止命令を出した方ご自身が、皆の前で変えてください」


「父上に頼みます」


「頼むのではなく、お決めいただくのです」


「分かった」


     *


 雨上がりの中庭に、作業者と取引先が集められた。


 アルベルトは停止命令の紙を手にしていた。顔色は悪かったが、娘の後ろには隠れなかった。


「ユゴー・マレへの職務停止は、私が命じた」


 ざわめきが止む。


「エレナの提案は、権限を分け、引継ぎを行うものだった。私はそれを停止へ広げた。昨日からの混乱と損失の最終責任は、領主である私にある」


 会計役が目を伏せた。


「停止命令を改める。ユゴーを収穫期終了まで引継ぎ役とする。支払いは私の印を待たず、定めた額まではレオンとクラリッサのどちらかが許可できる」


 父が言い切った。


 今度の命令には、動かすための手があった。


 薪商は腕を組んだまま尋ねた。


「奥様か若様の印があれば、その日に会計へ持ち込めるのですな」


「その日に払う。足りなければ、私の食卓から先に削る」


 アルベルトが答えた。


 鍛冶屋の使いは、注文を口頭だけで受けた場合の扱いを聞いた。ソフィが木札へ注文品と値を書き、発注者と受取人が別々に印を付けることになった。


 作業頭は、雨の時に誰が順を変えるかを聞いた。


「食用へ戻す判断はエレナ。人と荷車の振分けはレオン。どちらもいなければクラリッサが止める」


 名前が三つに分かれても、返事は一つにまとまった。


 ニコが留め具の寸法を読み上げる。マルタが出せる食事の人数を告げる。トマが畑から回せる時間を区切る。ソフィがすべてを書き留めた。


 ユゴーは鍵束を新しい担当者と二人で持ち、倉の扉を開けた。


 湿った匂いが流れ出す。


「赤札は再乾燥。黒札は家畜用。袋を混ぜないで」


 エレナの指示を、今度は誰も待たなかった。


 薪が届き、炉へ火が入る。鍛冶屋へ馬が走る。作業者には温かい豆の椀が配られた。


 赤紐の袋が乾燥場へ入り、黄紐は軒下で再検分された。ユゴーは順番を口にし、ソフィが書き、新しい担当者が復唱する。同じ判断を二人が説明できるまで、次へ進まない。


 遅かった。面倒でもあった。


 けれど、ユゴーが黙って立ち去っても止まらない仕事が、一つずつ増えていった。


 レオンはすれ違いざま、エレナの濡れた頭を一度だけ撫でた。


「よく戻った」


「どこから?」


「正しいことしか見えない場所から」


 言い返そうとしたが、兄はもう麦袋を担いでいた。


     *


 夜、雨損した麦の選別が終わった。


 救えた山は大きかった。失った山も、見えなくなるほど小さくはなかった。


 マルタが厨房の粉箱を叩いた。


 乾いた音がした。


「お嬢様、倉に麦があっても、明日のパンにはなりません」


 エレナが救ったのは麦だった。


 食卓ではなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。