第9話 頭を下げる相手
ユゴーは扉を開けても、エレナを中へ招かなかった。
雨は細くなっていた。軒から落ちる雫が、戸口の間へ一本の線を引いている。
「夜分に何用でしょう」
家令だった時と同じ言葉遣いだった。
だが、腰に鍵束はない。
家は、エレナが想像していたより小さかった。軒下には薪が一列、長さを揃えて積まれている。戸口の靴は三足。贅沢な馬車も、新しい扉も見えない。
親族を優先した責任と、自分の懐へ麦を隠した罪は同じではない。
だからこそ、曖昧なまま怒ってはいけなかった。
「引継ぎを頼みに来ました」
「職務を停止された者にはできません」
「停止命令を変えます」
「お嬢様が?」
問いは短く、鋭かった。
エレナは首を振った。
「私一人では変えられない。だから、まず何が決められ、何が決められていなかったかを確認しに来たの」
ソフィが革袋から会議の記録を出した。雨を避けるよう胸元で開く。
「私の提案を読んで」
ソフィは指で行を追った。
「倉庫の鍵を二人で確認する。仕入れを頼む者と、受け取って数える者を分ける。口頭の約束はその日のうちに記録する。収穫期が終わるまで、ユゴー様と新しい担当者が一緒に引き継ぐ」
「停止は?」
「記録にはありません」
次の紙には、父の署名がある。
「これは会計役が用意した停止命令です。父上が署名した。私の提案とは別です」
ユゴーは紙へ目を落としたが、表情を変えなかった。
「では、お嬢様に責任はないと?」
「乾かし方も、鍵を分けることも、引き継ぐことも間違っていない」
エレナは戸口の線を越えずに答えた。
「でも、領主家はあなたを引継ぎ前に止めた。その命令で、薪商も鍛冶屋も作業者も止まった。濡れた麦も出た」
両手を前で重ねる。
「領主家の一員として、謝ります」
深く、頭を下げた。
「損失を出した命令を、止められませんでした」
しばらく、雨の音だけがした。
「お顔をお上げください」
ユゴーの声は少しも柔らかくなかった。
「謝罪で薪は届きません」
「ええ。だから、動かし直す条件を決めたい」
*
ユゴーは二人を土間まで入れた。椅子は勧めなかった。
「薪商へは、誰の名で頼んでいたの?」
「私の名です。収穫後に館が払うと」
「館の印は?」
「ありません」
「鍛冶屋も?」
「同じです」
「臨時人夫の食事は?」
「マルタへ人数を告げ、収穫後に厨房の不足分を私が会計へ通していました」
「あなたがいなくなれば、全部止まる」
「止まりましたな」
エレナは息を詰めた。
「必要だったから、全部が許されるわけではない」
「前にも申しました。承知しております」
「親族へ仕事を回したことは?」
「昔から家令に認められた役得です」
「記録も比較もなく?」
「急ぐ仕事で三人の値を聞いていれば、雨が先に来ます」
「一人目が親族である必要はないわ」
ユゴーは黙った。
「あなたは領地を動かした。でも、あなたに近い人から先に助けた。あなたしか動かせない形のままにした」
「私が倒れれば困ることは分かっておりました」
「なぜ変えなかったの」
「困るのは、私がいなくなった後だからです」
初めて、ユゴーが苦く笑った。
「人は、自分が必要とされる仕組みを、自分から壊すほど立派ではありません」
言い訳だった。
同時に、告白でもあった。
「ユゴーが必要だったことは消さない」
エレナは言った。
「でも、必要だった仕事を、あなた一人のものには戻さない。立替をしたなら金額を残す。急いで親族へ頼んだなら、急いだ理由と値を残す。次に同じ仕事が来た時、別の人も比べられるようにする」
「私の裁量を奪う、と」
「裁量を見えるようにするの。正しかった判断まで、疑われずに済むように」
ユゴーは返事をしなかった。
だが、扉を閉めることもしなかった。
「麦を売って懐へ入れたことはない」
「ございません」
「けれど親族を優先し、比較を省き、約束を記録しなかった責任はある」
「ございます」
ユゴーは、今度は目をそらさなかった。
*
「復職ではありません」
エレナは新しい紙を土間の台へ置いた。
「収穫期が終わるまでの引継ぎ役。倉庫の鍵は新しい担当者と二人で使う。発注を頼む人、品物を受け取る人、代金を払う人を分ける」
「急ぎの例外は?」
「あなたが判断していい。ただし、金額と相手と理由をその日のうちに記録する。ソフィが確認する」
ソフィが姿勢を正した。
「私が全部書きます」
「全部は無理です」
「では、忘れて困るものから」
ユゴーはソフィを見た。ほんの少しだけ、口元が動いた。
「薪商は夕刻まで待ちます。鍛冶屋は明朝、町の南門です。荷車主への宿代は一台につき銅貨六枚を超えると揉めます」
ソフィの筆が走った。
人の頭の中にしかなかった領地の一部が、初めて紙へ移り始めた。
「条件がもう一つあります」
ユゴーが言った。
「停止命令を出した方ご自身が、皆の前で変えてください」
「父上に頼みます」
「頼むのではなく、お決めいただくのです」
「分かった」
*
雨上がりの中庭に、作業者と取引先が集められた。
アルベルトは停止命令の紙を手にしていた。顔色は悪かったが、娘の後ろには隠れなかった。
「ユゴー・マレへの職務停止は、私が命じた」
ざわめきが止む。
「エレナの提案は、権限を分け、引継ぎを行うものだった。私はそれを停止へ広げた。昨日からの混乱と損失の最終責任は、領主である私にある」
会計役が目を伏せた。
「停止命令を改める。ユゴーを収穫期終了まで引継ぎ役とする。支払いは私の印を待たず、定めた額まではレオンとクラリッサのどちらかが許可できる」
父が言い切った。
今度の命令には、動かすための手があった。
薪商は腕を組んだまま尋ねた。
「奥様か若様の印があれば、その日に会計へ持ち込めるのですな」
「その日に払う。足りなければ、私の食卓から先に削る」
アルベルトが答えた。
鍛冶屋の使いは、注文を口頭だけで受けた場合の扱いを聞いた。ソフィが木札へ注文品と値を書き、発注者と受取人が別々に印を付けることになった。
作業頭は、雨の時に誰が順を変えるかを聞いた。
「食用へ戻す判断はエレナ。人と荷車の振分けはレオン。どちらもいなければクラリッサが止める」
名前が三つに分かれても、返事は一つにまとまった。
ニコが留め具の寸法を読み上げる。マルタが出せる食事の人数を告げる。トマが畑から回せる時間を区切る。ソフィがすべてを書き留めた。
ユゴーは鍵束を新しい担当者と二人で持ち、倉の扉を開けた。
湿った匂いが流れ出す。
「赤札は再乾燥。黒札は家畜用。袋を混ぜないで」
エレナの指示を、今度は誰も待たなかった。
薪が届き、炉へ火が入る。鍛冶屋へ馬が走る。作業者には温かい豆の椀が配られた。
赤紐の袋が乾燥場へ入り、黄紐は軒下で再検分された。ユゴーは順番を口にし、ソフィが書き、新しい担当者が復唱する。同じ判断を二人が説明できるまで、次へ進まない。
遅かった。面倒でもあった。
けれど、ユゴーが黙って立ち去っても止まらない仕事が、一つずつ増えていった。
レオンはすれ違いざま、エレナの濡れた頭を一度だけ撫でた。
「よく戻った」
「どこから?」
「正しいことしか見えない場所から」
言い返そうとしたが、兄はもう麦袋を担いでいた。
*
夜、雨損した麦の選別が終わった。
救えた山は大きかった。失った山も、見えなくなるほど小さくはなかった。
マルタが厨房の粉箱を叩いた。
乾いた音がした。
「お嬢様、倉に麦があっても、明日のパンにはなりません」
エレナが救ったのは麦だった。
食卓ではなかった。




