第10話 倉には麦がある
帳簿には麦があった。
粉箱には、指で集められるほどしかなかった。
マルタが箱を傾けると、底の白い筋がさらさらと片側へ寄った。
「これで館の朝食が何日?」
「館だけなら二日。村へ出す分を取れば、今日までです」
エレナは昨夜の在庫表を開いた。雨損分を除き、種籾と春までの備蓄を分けても、冬越しに必要な麦は残っている。
「麦の量は足りている。挽けるなら」
「その最後の言葉が、パンになります」
マルタは一粒の麦をつまみ、エレナの掌へ置いた。
「これを今日の夕食までにパンへしてください」
「一粒で?」
「一袋にしましょう。お嬢様は細かいところから始めたがりますから」
口元は笑っていたが、粉箱は空だった。
*
一袋の麦に、ソフィが白い札を結んだ。
「この袋だけ追います。途中で別の麦と混ぜません」
「袋のまま窯へ入れたら早いんですが」
トマが担ぎ上げながら言った。
「食べられないわ」
「だから、村では粒のまま配られても困る家があるんです」
エレナが振り返る。
「手回し臼は?」
「持っている家はあります。毎日家族の分を挽けば、畑へ出る腕が残りません。薪の余りがない家もあります」
「煮麦なら」
「鍋と火が要ります。歯の弱い老人には固い」
麦を渡すことと、食事を渡すことは違う。
エレナは札の余白へ書いた。
粒。粉。生地。パン。
四つの言葉の間に、どれだけの仕事があるのかを測る。
*
村の水車は、細い流れに半分だけ浸かっていた。
水の多い日なら白く跳ねる流れが、今は黒い板の下を細く走っている。水車は回っていたが、一回ごとに軸が呻いた。
ぎい。
少し間があって、ぎい。
「留め具を替えたのでは?」
エレナが尋ねると、ニコは軸の根元を指した。
「町から届くまでの仮留めです。締めすぎれば軸が削れ、緩めれば板が踊る。だから重い石臼を一つ外しています」
「能力は半分?」
「水が少ない分も入れれば、それ以下です」
ニコは一袋を受け取り、投入口へ少しずつ麦を落とした。急に入れれば回転が鈍る。遅すぎれば石だけが擦れる。
ソフィが鐘の音を数えた。
「始めてから、二つ目の鐘」
「まだ半分です」
ニコの手は止まらない。軸の揺れを見て、麦の流れを細くしたり太くしたりする。
機械を動かしているのは水だった。
壊さず動かしているのは、ニコだった。
ようやく粉が布袋へ落ち始める。白ではなく、皮の混じった灰色だ。細かな粉が鼻へ入り、エレナはくしゃみをした。
「お嬢様の分、一つ減りました」
ニコが真顔で言う。
「くしゃみで減る量も量る?」
「そこまで量ったら、粉より手間が増えます」
エレナは笑い、すぐに秤へ向かった。
入れた麦の重さ。出た粉。篩に残る外皮。床へこぼれた分。
すべて合わせれば元の重さに近づく。だが、今日パンへ使えるのは粉だけだった。
「次の袋は?」
水車小屋の外に、六台の荷車が並んでいた。
「三日前から待っています」
ニコが答えた。
「館の袋を先にしたから、あの人たちはもう一日待つ」
領主の命令で順番を割り込めば、村の粉が減る。
荷車のそばで待っていた老女が、白札を見ていた。
「館の袋は、よく目立ちますな」
責める声ではなかった。それがかえって痛い。
「今日は先に入れてもらいました。次からは待ち順を戻します」
「うちは明後日でも構いません。隣の家は乳飲み子がおる。そちらを先に」
老女は自分の荷車ではなく、後ろの小さな袋を指した。
待ち列にも、見えない順番があった。家族の人数、病人、残る粉、来られる日。ニコはそれを聞き、同じ日付の札の中で順を調整していた。
「この順番も記録できる?」
エレナが尋ねると、ソフィは首をかしげた。
「理由まで書きますか」
「理由がなければ、次の人にはひいきに見えるわ」
白札の裏へ、乳児、病人、残量という短い印が増えた。
エレナは自分の袋へ結んだ札が、急に重く見えた。
「次からは待ち順を変えない。館の分を増やすなら、別の時間を作る」
*
粉は厨房へ運ばれ、マルタの篩へ入った。
粗い外皮が残り、細かな粉が木鉢へ雪のように落ちる。
「ここでまた減るのね」
「減るのではなく、分かれます。外皮は粥や家畜へ回せます。でも同じパンにはなりません」
水を入れ、塩を入れ、種生地を加える。
マルタは肘まで使って捏ねた。エレナも真似をしたが、生地は指へまとわりつき、木鉢の外へ逃げる。
「力ではなく、畳むんです」
マルタの手に替わると、生地は素直に丸くなった。
火の近くで休ませる。
「今は待つだけ?」
「火を保ち、冷えないよう見て、膨らみすぎる前に次を用意します。待っている人が休んでいるとは限りません」
共同窯へ持っていくと、前の家のパンが焼かれていた。窯口には薪が積まれ、女たちが順番を待っている。
「空くまで、あとどのくらい?」
「壁の熱が落ちる前に二組。そのあと灰を出します」
水車で待ち、発酵で待ち、窯でまた待つ。
一つの袋が止まるたび、後ろの袋も止まる。
前世で読んだ戦史には、勝敗を決めた将軍と兵の数が並んでいた。
けれど兵も、麦が粉になり、パンになって届かなければ歩けない。
エレナは厨房の卓へ、麦粒を工程ごとに並べた。
水車の前に六粒。篩の前に二粒。発酵の前に一粒。窯の前に四粒。
「一番多いのは水車です」
ソフィが言った。
「今はね。でも水車を直して六粒を半分にしたら、次は窯の四粒が残る」
「詰まりが移る?」
「ええ。一か所だけ速くしても、パン全体は同じだけ速くならない」
マルタが窯の粒を一つ取り、薪の側へ置いた。
「薪が遅れれば、窯の列はもっと伸びます」
トマは水車の粒を見て言った。
「粉を村へ運ぶ荷車も要ります。雪なら往復が増える」
麦粒の列は、話す人が増えるたび長くなった。
誰か一人が全部を知っている工程ではなかった。
夕暮れ近く、ようやくパンが焼けた。
マルタが数え、ソフィが札へ記した。そこから館と村の人数へ割ると、一日に必要な量へ届かない。
「在庫は冬を越せる」
エレナは帳面を閉じなかった。
「でも、一日に粉へ変えられる量が足りない。この速さでは、冬を越す前に粉箱が空になる日が来る」
ニコが水車のほうを振り返った。
夕方の静けさの中で、遠くから軸の音が届いた。
ぎい。ぎい。次の音だけ、少し高い。
「壊れる前の音がします」
麦が尽きるより先に、水車が止まる。




