第7話 鍵を受け取った朝
命令書は夜明けまでにできた。
夜明けになっても、誰も動かなかった。
中庭には荷車が七台、きれいに並んでいた。馬は白い息を吐き、御者たちは車輪へ腰を預けている。乾燥場の前には熊手を持った男たちが集まり、倉の扉は閉じたままだった。
エレナは鍵束を握り直した。
「一番倉の麦を乾燥場へ。薄く広げて、二刻ごとに返す。乾いたものから袋を替えて三番倉へ入れる。ソフィ、読み上げて」
昨夜書いた紙には、運ぶ順、広げる厚さ、担当する組まで記してある。
ソフィが一度読み、もっと短く言い直した。
「一番倉から乾燥場へ運びます。赤札の組は荷運び、青札の組は麦返し。袋は混ぜません」
作業頭たちは頷いた。
それでも誰も動かなかった。
昨夜までなら、ユゴーが中庭へ出ただけで、荷車は一台ずつ向きを変えた。御者の一人が遅れれば別の家へ使いが走り、縄が足りなければ納屋から出てきた。
エレナは、それを一人の横暴だと思いかけていた。
今、同じ中庭に立って分かる。ユゴーは命令していただけではない。誰が何を持ち、誰が何を嫌がり、どこまでなら貸しを待つかを覚えていた。
その記憶は、昨夜の停止命令と一緒に館から出ていった。
「何が分からないの?」
一番年上の作業頭が帽子を胸へ下ろした。
「雨が来たら、誰の判断で止めます」
「麦が濡れる前に覆いを掛ける。雨脚が強ければ軒下へ」
「その覆いを借りる許しは、どなたから」
エレナは紙を見た。覆いの場所は書いてある。借りる許可は書いていない。
「私が許可します」
「破れた時の弁償も、お嬢様が?」
別の男が続けた。
「臨時の者へ出す昼飯は、厨房に頼んでよろしいので?」
「荷車の馬が脚を痛めた場合、代わりを町から雇う金は?」
「今日のうちに戻れなければ、御者の宿賃は誰へ請求すれば?」
質問が一つ出るたび、止まっていた理由が一つずつ姿を見せた。
手順はある。
だが、手順から外れた瞬間に決める人がいなかった。
*
エレナは執務室へ戻り、紙の余白を埋めた。
雨天時はエレナが判断する。覆いの破損は館が負担する。臨時人夫の食事は厨房から出す。代替の馬は銀貨何枚まで許可する。
「これなら動くわ」
「銀貨は、どこから出しますか」
ソフィが羽根ペンを止めずに尋ねた。
「会計役に」
「会計役は、旦那様の印がなければ一枚も出さないそうです」
「父上の印をもらう」
「旦那様は北畑の境界争いへ出られました」
エレナは新しい紙を握り潰しかけ、止めた。
正しい順番を書けば仕事は流れると思っていた。水が溝を流れるように。
けれど現場は水ではない。途中に門があり、門ごとに違う鍵が要る。
腰の鍵束には、倉の鍵しかなかった。
エレナは紙の裏へ三つの欄を引いた。
決める人。払う人。決めたとおりにできない時、代わりを決める人。
乾燥の項目には自分の名を書ける。倉の開閉には新しい担当者と自分。だが、食事、馬、薪、宿、破損の欄は空いたままだった。
「ソフィ、作業頭にもう一度聞いて。仕事のやり方ではなく、誰の返事を待っているかを」
「返事を待つ相手を、書くんですね」
「ええ。止まっている場所が分かれば、先に開ける門を選べる」
ソフィは紙を抱えて走った。ほどなく戻ると、空欄の脇へ小さな名前が増えていた。
ユゴー。
ほとんどの欄に、同じ名があった。
「昼食だけでも先に頼みましょう」
厨房へ行くと、マルタは大鍋の蓋を開けて見せた。豆と根菜の煮込みが、底のほうで静かに揺れている。
「館の者の分です。二十人増やすなら豆をもう一袋。誰の帳面につけます?」
「領主館の仕事よ」
「それは分かっています。領主館の、誰のお許しで?」
マルタの口調は責めるものではなかった。だからこそ、答えられないことが痛かった。
*
中庭へ戻ると、トマが畑の泥を靴につけたまま立っていた。
「畑の者を六人、乾燥場へ回して」
「今日は無理です」
即答だった。
「麦が傷むの」
「冬播きの畝を今日閉じなければ、春に刈る麦が育ちません」
「半日だけでも」
「六人を半日取れば、種を入れられない畝が二本出ます。今の麦を救って、春の麦を捨てますか」
トマは命令へ逆らっているのではなかった。畑の時間を守っていた。
エレナは息を吸い、吐いた。
「四人。日暮れまでではなく、覆いが掛かるまで。明朝は畑を優先する」
「それなら二人出せます。残り二人は、北畑が終わってからです」
「三人」
「二人と、私が行きます」
それがトマの出せる最大だった。
ソフィがすぐに言い換えた。
「畑から三人。覆い掛けまで。明日は畑へ戻す。赤札の組へ伝えます」
長い説明が、彼女の口から短い約束になった。
ようやく三人が走り出した。
*
昼を過ぎて、レオンが戻った。
止まった荷車を一目見ると、御者たちの間へ入っていく。誰がいくら立て替え、どの村までなら日暮れ前に戻れるかを聞き、紙ではなく顔を見て順番を決めた。
「兄上、その約束は誰の権限で?」
「次期当主の信用で。父上に叱られたら、半分はお前のせいにする」
「半分なの?」
「全部にすると泣くだろう」
「泣かないわ」
「知っている」
レオンは笑わなかった。
「七台全部は動かせない。三台だ。馬の替えと宿代を俺が保証した」
「残りは?」
「お前が決めろ。ただし、手順を増やしても信用は増えないぞ」
エレナは反論できなかった。
三台の車輪がようやく回り始めた。畑から来た三人が覆いを運び、ソフィが組ごとの行き先を叫ぶ。
一台目には、最も熱を持った袋を載せた。二台目は口の開いた袋。三台目には、まだ乾いていて後から混ぜてはならない袋をまとめる。
「先に運ぶのは傷んだ麦ですか」
御者が聞いた。
「いいえ。放っておけば傷みが広がる麦。もう戻せないものは最後に分ける」
エレナは袋へ手を当てて順を決めた。作業頭がそれを聞き、次の袋を自分で選び始める。
手順が、ようやく人の判断へ渡った。
動いた。
だが、予定の半分にも届かない。
空の色が急に薄くなった。風が麦束の穂先を裏返し、冷たい匂いを運んできた。
「急いで!」
エレナの声に、今度は人が動いた。
その時、最初の雨粒が落ちた。
まだ覆いの掛かっていない麦束に、黒い点が一つできる。
二つ、三つと増えていく。
紙の上では乾いていた麦が、雨の中で濡れ始めた。




