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第6話 消えていたのは一人ではない

 壁に貼った紙から、一本の太い矢印が消えた。


 代わりに、十二本の細い矢印が生えた。


 刈り取りで落ちる粒。乾燥不足。鼠と虫。破れた袋。荷車からのこぼれ。秤ごとの量目差。記録されない現物賃金。昔からの一掴み。返済と相殺された前渡し。書き忘れ。そして、私的な流用。


 エレナは最後の矢印だけを、ほかより濃く塗らなかった。


 どれが最も大きいかは、まだ分からない。三袋の追跡と数日の乾燥試験で、すべての割合を決めることはできない。


 分かったのは、どこに測定点を置くべきかだった。


「これが、消えた麦の行き先か」


 レオンが壁の前で腕を組んだ。


「行き先というより、消え方」


「盗人が十二人いたわけではないんだな」


「人でないものも多いわ。雨も、湿気も、破れた袋もいる」


 ソフィが十二本の矢印の横へ、小さな印を足していく。


 畑。乾燥場。荷車。倉庫。帳簿。


 一袋の麦は、そこを通るたび少しずつ形を変えた。


「一人を追い出せば終わる話ではない」


 レオンはそう言ったあと、最後の矢印を指した。


「だが、誰の責任でもない話でもない」


「うん」


 エレナは頷いた。


 今日の家族会議には、ユゴーも呼ばれている。


     *


 収穫末期の執務室は、麦の埃を持ち込んだ人々で息苦しかった。


 アルベルトとクラリッサ。レオン。エレナ。ソフィ。ユゴー。


 そのほかに、館の会計を手伝う家臣と、倉庫・厩・厨房を預かる古参の者たちが壁際に並んでいる。


 机の上には、三袋追跡の記録、乾燥試験の比較表、去年までの倉庫帳が置かれていた。


 エレナは十二本の矢印を描いた紙を広げた。


「帳簿の『例年損耗』は、一つの原因ではありませんでした」


 部屋の視線が集まる。


「刈り取りから倉庫まで、少しずつ減っています。乾かして軽くなった分は、悪い損失ではありません。でも、厚く積んで傷んだ麦、破れ袋、こぼれ、鼠や虫、記録されない支払いは分ける必要があります」


「では、盗難はなかったのですか」


 家臣の一人が尋ねた。


「なかったとは言っていません」


 エレナは最後の矢印へ指を置いた。


「ユゴーの家と弟の家へ、帳簿と一致しない麦が運ばれています。ほかにも、理由を確認できない出入りがあります」


 ざわめきが起きた。


「静かに」


 レオンの一言で、声が止まった。


 アルベルトがユゴーを見た。


「説明できるか」


「一袋は、給与の代わりでございました」


「クラリッサは?」


 母は帳簿を開いた。


「銀貨を用意できず、麦で払うことは認めました。ただし数量を一袋と決めた記録はありません」


「私が決めました」


 ユゴーが言った。


「例年の給与と、その月の麦価から妥当と判断しました」


「弟へ渡した分は?」


「屋根を直せる職人を急ぎで寄越した礼です」


「礼に一袋か」


 アルベルトの顔が曇る。


「職人を逃せば、雨の前に屋根が閉じませんでした」


「なぜ、私へ言わなかった」


「申し上げて、何日でお決めになりましたか」


 部屋が凍った。


 ユゴーは主から目をそらさなかった。


「私は、旦那様がお決めになるまで雨を止められません」


 アルベルトの頬が赤くなる。


 言い方は無礼だった。けれど、誰も完全には否定できなかった。


 父は、人を傷つける決定ほど遅い。


 ユゴーはその遅れを、口約束と自分の裁量で埋めてきた。


「必要だったから、すべて許されるわけではない」


 エレナが言った。


「分かっております」


 ユゴーは静かに答えた。


「自分の親族を使えば話が早いと考えた。ほかを探し、条件を比べる手間を省いた。私の便宜でもございました」


 初めて、明確に認めた。


「麦を盗み、売って金にしたの?」


「しておりません」


「自分の家族を、ほかより先に助けた?」


「否定いたしません」


 単独の大泥棒はいない。


 だが、曖昧な仕組みを一人で握り、その中で自分に近い者を優先した責任は残る。


「処罰を」


 壁際の家臣が言った。


「その前に、提案があります」


 エレナは声を重ねた。


     *


 ソフィが、新しい紙を机へ置いた。


 エレナは、四つの四角を描いた。


「鍵。発注。受け取りの確認。支払い」


 それぞれを線で分ける。


「いまは、ユゴーがほとんど全部を決めています。これを分けます」


「家令の権限を奪うのか」


 アルベルトが尋ねた。


「一人へ集めないの。倉庫の鍵は二人で管理する。袋や屋根の修理を頼む人と、仕事が終わったか確かめる人を別にする。現物で払ったら、その日のうちに名前、理由、量を書く」


「文字を扱えない者もいる」


 ユゴーが言った。


「ソフィと書記役が聞いて書く。緊急時は先に動いていい。でも、日が暮れるまでに別の人が確認する」


 ユゴーは四つの四角を見た。


「例外は、紙の四角に収まりません」


「だから例外として書く。隠さない」


「誰が判断するのです」


「最初は、あなたにも残ってもらう」


 家臣たちが息を呑んだ。


「ユゴーを残すのか?」


 レオンが確認した。


「倉庫の出入り、口約束、村ごとの返し方を知っているのはユゴーだけよ。明日から外したら、書かれていない仕事まで全部止まる」


 エレナは引継ぎの紙を出した。


「一季節で、例外処理をソフィと別の書記へ移す。その間、ユゴーは鍵を単独で持たない。私的流用は数量を確かめ、給与との不足や過払いを清算する。処分は、そのあと家族会議で決める」


「甘すぎます」


 会計を預かる家臣が言った。


「不正を認めた者へ、まだ倉を触らせるのですか」


「一人では触らせない。それが権限分離です」


「ヴァルディエ家が横領を見逃したと、商人に知られます」


「見逃さない。調べて、記録して、返させる」


「即刻、職を解くべきです」


 別の家臣も声を上げた。


「家令が親族へ麦を流したのですぞ。領民へ示しがつきません」


 エレナの提案から、「移行期間」と「二人鍵」が消えていく。


 残ったのは、不正と処罰という言葉だけだった。


「待って」


 エレナは紙を持ち上げた。


「私は即時停止を提案していない。明日の火入れ、荷車、乾燥場の割当ては、ユゴーの頭の中にしかないものが多い」


「だからこそ危険だ」


 家臣が返す。


「これ以上、一日たりとも任せられません」


「任せるのではなく、二人で確認しながら引き継ぐの」


 クラリッサが口を開いた。


「エレナの言うとおりです。家の体面を守るためにも、まず出入りを止めずに記録を移すべきです」


「奥様。不正を知りながら職へ置けば、その体面こそ失われます」


 アルベルトは黙っていた。


 机上の紙と、長年仕えたユゴーを交互に見る。


 父は領民を切れない。使用人も切れない。だから決断を先送りしてきた。


 今は反対に、決断できない領主と思われることを恐れている。


「父上」


 レオンが声を落とした。


「今夜決める必要はありません。少なくとも明朝の仕事を書き出してから——」


「いや」


 アルベルトが言った。


「領主として、決めなければならない」


 クラリッサの表情が変わった。


「あなた」


「ユゴー・マレ。調査が終わるまで、家令および倉庫管理の職務を停止する」


「父上、待って!」


 エレナの声より早く、会計役が停止命令の紙を差し出した。


 まるで、最初から用意していたようだった。


 アルベルトは一瞬ためらい、署名した。


 正しい提案が、別の命令へ変わった。


     *


 ユゴーは抗議しなかった。


 腰から鍵束を外し、机へ置く。


 金属の重なる音が、執務室に響いた。


「承知いたしました」


 長年、彼の腰で鳴っていた鍵が、急にただの鉄の塊に見えた。


 ユゴーはエレナへ向き直る。


「では、明朝の乾燥場の火入れと、七台の荷車の割当ては、お嬢様がお決めください」


「一覧を作って。今夜、引継ぎを——」


「職務を停止された者が、館の仕事へ口を出すわけにはまいりません」


「それでは困る」


「困る仕組みを、お調べになったのでしょう」


 ユゴーは一礼し、部屋を出ていった。


 誰も追わなかった。


 エレナは机の鍵束へ手を伸ばした。


 持ち上げた瞬間、腕がわずかに下がった。


 鍵は思ったより重かった。


 けれどその夜のエレナは、それを責任の重さだとはまだ知らなかった。


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