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第5話 濡れた麦は重い

 エレナは同じ荷から取った麦を、三つに分けた。


 一つは中庭の日向へ。布の上へ、指の厚さほどに薄く広げる。


 一つは軒下の日陰へ。同じ厚さに広げ、風だけを通す。


 最後の一つは木箱へ。倉庫と同じように、深く積んだ。


「晴れ、日陰、倉庫」


 ソフィが三つの印を札へ描いた。


「倉庫だけ、場所ではなく積み方では?」


「厚く積むとどうなるかも見たいの」


「では『厚積み』にします。あとで奥様に見せた時、倉庫を三つ建てたと思われます」


 エレナは頷き、空の木箱と布の重さを先に量った。


 そのあと、同じ荷から取った麦を同じ重さずつ入れる。秤は収穫初日に使ったもの。重りも変えない。朝と夕方、同じ順番で量る。


「三日間、雨が降らなければ比べられる」


「雨が降ったら?」


「日向と日陰は軒へ入れて、濡らした時刻を記録する」


「失敗にはしないんですね」


「天気は命令を聞かないもの」


 畑と違い、空を試験条件には閉じ込められない。閉じ込められないなら、変わった条件を隠さず書けばいい。


 エレナは札を見直した。


「匂いと、噛んだ感じも書く」


「『いい匂い』『嫌な匂い』で?」


「最初はそれでいいわ。同じ人が比べれば、違いは分かる」


「お嬢様の鼻を基準にするんですか」


「ソフィも嗅ぐの」


「急に公平になりましたね」


     *


 最初の夕方、日向の麦がいちばん軽くなった。


 エレナは秤の傾きを確かめ、もう一度載せた。結果は同じだった。


「減ってる」


 数字だけを見れば、損失だった。


 だが、日向の粒を掌へ取ると、朝よりさらりとしている。甘酸っぱい匂いはなく、乾いた藁に近い香りがした。


 軒下の麦は、少しだけ軽い。粒の冷たさが残っている。


 厚く積んだ木箱は、ほとんど重さが変わらなかった。


「倉庫がいちばん減っていません」


 ソフィが言った。


「でも、触ってみて」


 エレナは箱の表面を避け、中央へ指を差し込んだ。


 朝にはなかった温かさがある。


 ソフィも恐る恐る触れ、すぐに手を抜いた。


「重いままの方が、悪そうですね」


「水を抱えたまま、熱がこもってる」


 軽くなった日向区の方が、食べ物としては良い状態に近づいている。


 重さだけを守れば、麦そのものを失う。


 エレナは比較表の「重さ」の隣へ、「熱」「匂い」「手触り」の欄を作った。


 翌朝には、差がさらに開いた。


 日向区の粒は爪を押し返した。日陰区は爪の跡がわずかに残る。厚積み区の下の粒は柔らかく、何粒かが互いに貼り付いていた。


 エレナは粒を一つ噛んだ。


「昨日より硬い」


「お嬢様」


 背後から、若い声がした。


 振り返ると、細身の少年が木の歯車を抱えて立っていた。腕には木屑が付き、指先は油で黒い。


「誰?」


「ニコ・フェレです。水車小屋の徒弟」


 ソフィが教えた。


「ユゴー様に、荷役滑車の軸を見ろと言われて来ました」


 十五歳のニコは、三つの麦を見て目を輝かせた。


「全部、噛むんですか?」


「乾き方を比べてるの」


「それなら、音が違います」


「音?」


 ニコは日向区の粒を一つ取り、前歯で噛んだ。


 小さく、硬い音がした。


 次に厚積み区の粒を噛む。音は鈍く、粒が潰れた。


「乾いたのは、ぱちっと割れます。湿ってるのは、歯にくっつく。石臼へ入れた時も、音が違うんです」


「どう違うの?」


「乾いた麦は、石が軽く歌う。湿った麦は、ごろごろ唸る」


 ソフィの筆が止まった。


「帳面にはどう書けば?」


「歌う、と唸る」


 ニコが即答した。


「それでは水車小屋にしか通じません」


「水車小屋で分かればいいでしょう」


 エレナは笑いそうになった。


 数字ではない。けれど、毎日同じ石臼を聞いているニコには、音が測定器の代わりになる。


「ニコ。三つを少しずつ、同じ石臼で挽ける?」


「量が少なすぎると、石の間に残ります」


「どれくらい必要?」


 ニコは掌で量を示した。


「これくらいを三つ。同じ速さで水車を回せる時なら」


「時間は?」


「昼の粉挽きが終わったあと」


 条件が増えた。


 エレナはそれを嫌だと思わなかった。現場で比べるとは、必要な条件を一つずつ見つけることだ。


     *


 午後、三つの麦は水車小屋で粉になった。


 ニコの言うとおり、音が違った。


 日向区は石臼が一定の調子で鳴った。日陰区では時々、低い音が混じる。厚積み区は粉が石へ張り付き、ニコが二度、流れを止めて掃除した。


「止めた時間も書いて」


「そこまで?」


「一袋なら少しでも、百袋なら長くなるでしょう」


 ニコは考え、真剣な顔で頷いた。


 粉を厨房へ持っていくと、マルタ・フェーヴルは腕を組んだ。


「今度は何を食べさせる気だい」


「同じ麦です」


「同じ麦なら、同じパンになると思ってる顔だね」


 四十五歳のマルタは、三つの粉へ順に指を入れた。


 日向区の粉は、指の間からさらさら落ちる。日陰区は少し固まり、厚積み区は握ると形が残った。


「こいつは水を入れる前から団子になる」


「パンにできない?」


「できるよ。食べられるかと、明日まで持つかは別だけどね」


 マルタは同じ量の水を少しずつ加えた。


 日向区の粉はゆっくりまとまる。厚積み区は表面だけがべたつき、内側に粉の塊が残った。


「粉が湿気てると、水の入り方が読めない。窯へ入れても、中が重くなる。冷めたら酸っぱくなりやすい」


「重さが残っていても、パンにならなければ意味がない」


「麦袋を食卓へ置くわけじゃないからね」


 マルタの言葉は短かった。


 エレナは、比較表に新しい欄を足した。


 石臼の音。詰まった回数。粉のまとまり。水の入り方。焼いたあとの匂い。


「ずいぶん増えましたね」


 ソフィが紙を見た。


「重さ一つでは、見えないものが多かったから」


「最初から全部知っていたわけではないんですね」


「私は麦を研究していたけど、この水車と、この石臼と、マルタの窯は知らなかったもの」


 知っている原理と、知らない現場。


 その間を、比べ、聞き、書くことで埋めていく。


 久しぶりだった。


 前世の研究室で、処理区ごとの穂を並べ、数字の向こうに原因が見えた時と同じ喜びが、胸の奥に戻ってくる。


 エレナは試料の前へ座り込み、夕食を呼ぶ鐘が鳴っても気づかなかった。


「お嬢様」


 ソフィが三度目に呼んだ。


「あと一つだけ」


「研究に戻られた顔をしています」


 エレナは手を止めた。


「分かるの?」


「四年前から、時々その顔になります。食事を忘れる顔です」


 ソフィは比較表を取り上げた。


「続きは、食べてからです」


     *


 三日後、日向区は最も軽く、最も匂いがよく、石臼も窯も止めなかった。


 厚積み区は重さを残したが、熱を持ち、粉挽きとパン焼きに余計な時間がかかった。一部は酸味が出て、家畜用へ分けることになった。


 ユゴーは結果を見て、黙っていた。


「乾燥で軽くなった分は、盗難でも腐敗でもない」


 エレナが言った。


「帳簿では、同じ損耗として扱われていたわ」


「乾けば軽くなると申し上げたはずです」


「ええ。あなたが正しかった」


 ユゴーが初めて、意外そうな顔をした。


「だから分ける。正常に水が抜けた分。傷んで食べられなくなった分。鼠や虫。こぼれた分。誰かへ渡した分」


 乾燥による減量を見積もって差し引いても、帳簿の空白はまだ埋まらなかった。


 説明できない袋が残っている。


 麦は水を失って軽くなる。


 だが、リュネールが失っているものは、水だけではなかった。


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