第4話 鍵を持つ男
倉庫の鍵束は、ユゴーの腰で小さな鐘のように鳴った。
一本を錠へ差し、回す。抜いて束へ戻す。また別の一本で内扉を開ける。
扉が動くたび、湿った土と甘酸っぱい麦の匂いが濃くなった。
「足元にお気をつけください」
ユゴーはそう言ったが、エレナを追い返そうとはしなかった。
外の光が差し込むと、倉の中に麦の山が浮かび上がった。手前の袋はきれいに積まれている。床には掃いた跡があり、壁際には鼠除けの板も立ててあった。
荒れ放題ではない。
梁には新しい補修材が入り、雨漏りを受ける桶も見当たらない。袋と壁の間には人が通れる隙間があり、崩れた袋も積み直されている。ユゴーが何もしていなかった倉ではなかった。
それでも北側の壁だけは色が濃く、床板の継ぎ目には細かな殻が張り付いていた。きれいに掃かれた表面の下へ、何かが隠れている。
だからこそ、匂いの出どころが分かりにくかった。
「どこへ置く?」
荷車から青い糸の三袋を下ろしたトマが尋ねた。
「今朝の荷は東壁へ」
ユゴーが答える。
「昨日までの荷と混ぜないでください。雨を受けた畑が違う」
トマは頷き、迷わず東へ運ばせた。
ユゴーは袋の出身まで把握している。
エレナは、その腰でまた鳴った鍵束を見た。
「倉庫の鍵は、全部ユゴーが持っているの?」
「穀物倉、種子倉、道具倉、酒蔵、外門。それぞれございます」
「予備は?」
「封をして旦那様の執務室に。開けたことは十年以上ありません」
「麦を出す時も、入れる時も、あなたが立ち会う?」
「立ち会えない時は、私が任せた者を立てます」
「その名前は帳簿に?」
ユゴーは少しだけ間を置いた。
「必要があれば」
ソフィの筆先が止まった。
「必要があるかどうかは、誰が決めるんです?」
「私です」
答えは簡潔だった。
鍵を開ける者。帳簿へ書くかを決める者。誰へ任せるかを決める者。
全部、同じ男だった。
*
エレナは青い糸の袋ではなく、倉庫の出入り帳を開いた。
「収穫した量と、去年の冬に残った量が合わないの」
「帳簿が現場と完全に合うことなどありません」
「なぜ?」
「現場は、帳簿が乾くまで待ってはくれないからです」
ユゴーは麦袋の列を指した。
「雨が来る夜に荷車を増やせば、御者へその場で麦を渡します。濡れた橋を直した者にも。製粉所が止まりそうなら、粉挽きへ前渡しする。冬、種を食べかけた家へ二升貸すこともある」
「書いていないの?」
「返ってくれば書かずに済みます」
「返ってこなければ?」
「翌年の地代で調整します」
「その調整は?」
「私が覚えています」
ユゴーは、淀みなく名前を挙げ始めた。
北の橋を直した御者。熱を出した父親の代わりに刈り取りへ来た娘。水車の歯を替えるまで粉を前借りしたマルタ。冬の終わりに種籾を借り、春の労役で返した家。
ソフィの筆が追いつかない。
「待ってください。北の橋の御者から、もう一度」
「三年前です。灰色の馬を二頭使うベルトラン。麦は一袋の四分の一。翌月、河岸から塩を運ばせて相殺しました」
数字だけではない。馬の色、家族、返した仕事まで覚えている。
トマが腕を組んだ。
「俺の村も、冬に二度借りた。あれがなければ、種を食った家が出た」
「返したの?」
「水路さらいで返した。帳面にあるかは知らん」
ユゴーは領地の穴を塞いできた。
紙に書かず、自分の記憶と口約束で。
「では、掃き寄せた屑麦は?」
「鶏を飼う家へ安く出します。鼠の糞が混じったものまで人に食べさせるおつもりですか」
「代金は?」
「修繕や運搬と差し引きます」
「誰と、いくら差し引いたかは?」
「必要なら説明できます」
「いま説明を聞いて、ソフィが書いている」
エレナは帳面を指した。
「書いていないから、なかったとは考えない。でも、ユゴーが覚えているから十分とも考えられない。確認できるものと、できないものを分けたいの」
ユゴーの眉がわずかに動いた。
「私を盗人として調べているのでは?」
「盗難だけなら、話はもっと簡単だった」
エレナは青い糸の袋を見た。
「麦は畑からここまでに、少しずつ減っていた。口約束で誰かを助けた分も、袋からこぼれた分も、あなたが自分のために使った分も、同じ『例年損耗』へ入っている。全部を一つの罪にはできない」
「自分のため、とおっしゃいましたな」
倉の空気が固くなった。
ソフィが筆を置き、トマがユゴーを見る。
「去年、ユゴーの家へ館の荷車で二袋運んだ記録がある」
「私の給与の一部です」
「給与帳には銀貨と書いてある」
「銀貨が払えない月でした。奥様もご存じです」
「一袋は?」
「弟の家へ」
「なぜ?」
「倉の屋根を直した職人を手配した礼です」
「弟が職人なの?」
「職人を知っていた」
「その条件は、誰が決めたの?」
ユゴーは答えなかった。
口約束が人を救ったことは事実だった。
同じ口約束が、ユゴーの親族へ便宜を与えたことも。
問題は、どこからが必要な例外で、どこからが私物化なのか、ユゴー以外の誰にも確かめられないことだった。
「あなたがしてきた仕事を、全部否定したいわけではない」
「ですが、信用はなさらない」
「一人の記憶だけで、家の麦全部を守れるとは思わない」
ユゴーの顔から、感情が消えた。
「十三歳のお嬢様に、五十二年生きた者の信用を量られる日が来るとは」
「年齢を量っているんじゃない。麦を量っているの」
言ってから、エレナは少し強すぎたと思った。
だが、ユゴーは怒鳴らなかった。
「ならば、麦をご覧になるとよい」
*
ユゴーは倉の奥へ進んだ。
袋積みの陰に、袋へ入れられていない麦の山がある。表面は乾いて見えた。指ですくうと、粒はさらさらと落ちる。
「問題ないように見えるでしょう」
ユゴーが言った。
エレナは山の前へ膝をついた。
表面の粒を握る。冷たい。爪を立てると硬さもある。
だが、甘酸っぱい匂いはここがいちばん濃かった。
エレナは袖を肘までまくった。
「何を」
止める声を聞かず、麦の山へ腕を差し込んだ。
表面を越え、手首、肘と沈めていく。
「熱い」
思わず声が出た。
火のような熱ではない。けれど、外気より明らかに温かい。奥の粒は掌へまとわりつき、表面より湿っていた。
腕を抜くと、皮膚に細かな殻が貼り付いている。
ソフィが顔をしかめた。
「外からは乾いて見えたのに」
「上だけ乾いている。厚く積んだ中に、湿気と熱がこもってる」
トマも別の場所へ手を入れた。
「こっちはもっと温いぞ」
山の内部で、麦が呼吸し、熱を持ち、傷み始めている。
盗人が袋を担いで出なくても、麦は倉の中で消える。
「これを、損耗として一緒にしていたの?」
エレナが尋ねた。
「傷んだ分は捨てます。濡れた年ほど多い」
「入れた時の状態は?」
「袋数と重さは記録します」
「乾かしたあとは?」
「軽くなるのに、もう一度量って何になるのです」
ユゴーは、エレナの腕についた殻を見た。
「濡れた麦は重い。乾けば軽くなる。お嬢様は軽くなった分まで、盗人のせいになさるおつもりですか」
「そんなことは——」
「ならば、まずご自分で乾かしてみればよい」
挑発だった。
けれど、同じ麦を分け、置き方を変え、前後を量れば確かめられる。
腹が立つほど、それは実験できる言葉だった。




