第3話 一袋はどこへ消える
エレナは袋の口に、青い糸を一本ずつ結んだ。
一つ。二つ。三つ。
収穫初日の畑では、誰もそんな細い糸を気にしていなかった。
鎌が麦を切る音。束を集める掛け声。荷車の車輪が土を噛む音。晩夏の陽が昇るにつれ、畑全体が巨大な作業場へ変わっていく。
「結び目は同じにしました」
ソフィが三袋を見比べた。
「二重結び。糸の長さは指二本分。場所は袋口の縫い目の右です」
「そこまで書くの?」
「お嬢様が『同じ条件で』と昨日から十二回おっしゃったので」
「十二回も?」
「十三回目です」
ソフィは帳面へ印を付けた。
エレナは口を閉じ、空の袋を一つずつ秤へ載せた。袋そのものの重さを先に量り、ソフィが青い糸の印と一緒に記録する。
同じ畑の中に、三つの小さな区画を決めた。刈った束にも同じ青い糸を付け、仮乾燥と脱穀までほかの束と同じ手順で追う。袋へ詰めた時点で再び量り、そこから倉庫到着までの重さを比べる。
同じ秤。同じ重り。同じ時刻。量る条件だけはそろえる。
前世で使っていた機械とは比べものにならない。木の竿には歪みがあり、吊るした皿もわずかに傾いている。それでも、同じ道具で前後を比べるなら、袋詰め後にどれだけ減ったかは追える。刈り取りから脱穀までの損失は、青い糸の束と作業記録で場所を分けられる。
「その秤を、いつまで畑の真ん中へ置いておくつもりだ」
低い声が飛んできた。
トマ・ベリエが、刈り取った麦束を肩へ担いで立っていた。日に焼けた顔には、朝からもう汗が筋を作っている。
「昼前までには動かします」
「秤の話じゃない。人の話だ」
トマは後ろを親指で示した。
ソフィを手伝う下働きが一人。袋を持つ者が一人。秤を水平に置くため板を運んだ者が二人。普段の仕事を止めてはいないが、エレナの試験に手を取られている。
「今日は空がもつ。刈れるだけ刈る日だ。明後日に雨が来れば、立っている麦は全部濡れる」
雲のほとんどない青空を見上げ、エレナは反論しかけた。
だが、トマはこの土地で三十八年、水と畑を見てきた。農繁期の半日は、館の執務室の半日とは違う。
「全量は調べません」
「当たり前だ」
「この三袋だけ。刈り取りから倉へ入るまで、作業は止めない。量る時に必要なのは私とソフィ。袋を載せる時だけ一人借ります」
「それでも余計な仕事だ」
「結果は隠しません。減った場所が分かっても、作業した人の名前だけで責めない。袋や荷車に原因があるなら、先にそちらを直します」
トマは青い糸を見た。
「何も分からなかったら?」
「三袋分の手間を、私が無駄にしたと記録します」
「お嬢様の無駄を、俺たちが払うのか」
その言葉は痛かった。
エレナは三袋を見て、考えた。
「試験に使った時間を、あとで教えて。領主館の菜園仕事から同じ時間を返します。ソフィと私が行く」
「お嬢様が草取りを?」
「できます」
「昨日、芒を首につけたまま帰ったそうだな」
誰から聞いたの、と言いかけて、ソフィを見る。侍女は空を見ていた。
トマの口元が、ほんの少しだけ動いた。
「三袋だ。それ以上は増やすな。雨の前に終わらなければ、秤ごと畦へ放り出す」
「分かりました」
「それから菜園仕事は二人で半日だ」
「さっき、使った時間と同じって」
「交渉は成立した」
トマは麦束を担ぎ直した。
エレナは負けた気がした。けれど、試験は始められる。
ソフィが帳面に書いた。
「『三袋と、草取り半日』」
「草取りは結果に関係ないでしょう」
「領地の記録には関係があります」
*
三袋分の麦は、ほかの麦と同じように刈られた。
最初に減ったのは、刈り取りだった。
鎌が低すぎれば土が混じり、高すぎれば穂の付いた茎が残る。束を集める間にも、熟した粒が地面へ落ちた。子どもたちがあとで落ち穂を拾うが、すべては拾えない。
エレナは粒を一つずつ数えなかった。作業を止めれば、それだけで損失が増える。
ソフィが、地面に残った穂の多い場所へ印を付けた。
次は仮乾燥だった。
束を置く地面には、朝露が残っている場所と、陽の当たる乾いた場所がある。急いだ人は空いている場所へ積む。下になった束は湿気を吸った。
「ここ、去年も使ったの?」
エレナが尋ねると、作業中の女が頷いた。
「ほかに平らな場所がないからね。晴れが続けば問題ないよ」
雨が来れば問題になる。
だが、それは女の怠慢ではなかった。乾いた場所が足りないのだ。
脱穀では、木の棒で叩く強さによって粒の残り方が違った。急げば穂に粒が残る。丁寧にしすぎれば、一日に処理できる束が減る。
作業中の少年が、残った粒を指で外して見せた。
「全部取るなら、夜までかかります」
「全部取る方が得とは限らないのね」
「日が暮れて、残りが雨に濡れたらもっと減ります」
少年は当然のことのように言った。
エレナは帳面へ、その言葉をそのまま書かせた。作業の速さと、一束から取る量。片方だけを正しくしても駄目だった。
袋詰めでは、縫い目から細い粒がこぼれた。
青い糸の袋の一つは、底の角が擦り切れている。指で押すと、繊維の隙間が開いた。
「新しい袋はないの?」
「あるにはありますが、商会へ渡す分から使います」
作業者が答えた。
「館の倉へ入れる分は、戻ってきた袋を使う決まりです」
決まり。
誰が決めたのか。いつからか。なぜ商会分だけ新しいのか。
尋ねたいことが増えたが、今は袋を追う方が先だった。
荷車へ積む時、一人の男が袋の口から麦を一掴み取った。
「待って」
エレナが声を上げると、男は手を止めた。周囲の空気が固くなる。
「それは何?」
「積み手の分です」
「賃金なら、昨日の紙にあったわ」
「それとは別です。昔から、最初の荷はこうする」
男の掌の麦はわずかだった。
一人の一掴みなら、盗みと呼ぶほどではないかもしれない。だが、荷車ごと、日ごと、年ごとに続けば量は変わる。
「ユゴーは知っている?」
「家令様が子どもの頃からある決まりだ」
エレナは男へ麦を戻させなかった。
「今日はそのまま持っていって。ソフィ、量と理由を記録して」
「止めないんですか?」
「今止めたら、この人だけが悪いことになる」
男は疑うようにエレナを見た。
「記録して、あとで決める。続けるなら賃金として書く。やめるなら、誰の一掴みも一緒にやめる」
納得した顔ではなかった。それでも男は麦を布袋へ入れ、荷車の綱を締めた。
*
青い糸の三袋は、館へ向かう荷車の端へ積まれた。
道の窪みで車体が跳ねるたび、底の縫い目から数粒が落ちた。車輪を避けた鳥が、すぐ後ろへ降りる。
エレナは何度も拾いたくなった。
だが、拾えば普段の運搬ではなくなる。
倉庫前へ着くと、ユゴー・マレが待っていた。
五十二歳の古参家令は、青い糸を見るなり眉を寄せた。
「袋へ余計な物を結ぶと、積み下ろしで引っかかります」
「右の縫い目に、指二本分だけです」
ソフィが即答する。
「そういう問題ではないのだが」
ユゴーはため息をつきながら、荷車の御者を名前で呼んだ。
「北道を通ったな。南の石橋は昨日から板が浮いている。三番車の左輪は夕方までに締め直せ。雨は明後日の夜だ。乾燥場の西側を先に空けろ」
荷車を一目見ただけで、次々に指示が出る。
無能な人ではない。
エレナはそのことを、忘れないようにした。
三袋を、袋詰め直後に量ったものと同じ秤へ載せた。
一袋目。少し軽い。
二袋目も軽い。
擦り切れた三袋目は、さらに軽かった。
「途中で誰かが抜いた量ではありませんね」
ソフィが帳面を見比べた。
「刈る時から、少しずつ減っている」
落ちた粒。湿った束。穂に残った粒。袋の縫い目。一掴みの慣行。揺れる荷車。
犯人の顔はなかった。
代わりに、工程のあちこちに小さな穴が開いていた。
「倉の中も見たい」
エレナが言うと、ユゴーの表情がわずかに変わった。
「今日は収穫初日です。倉入れを止めるわけにはいきません」
「止めない。入れる前と、入れたあとを見たいだけ」
「お嬢様が入る場所ではありません」
「何か問題があるの?」
「古い倉です。埃も鼠もいる。それだけです」
答えながら、ユゴーは腰の鍵束へ手を置いた。
倉庫の鍵を持つのは、彼一人だった。
エレナが扉を見上げる。厚い木板の下には、黒ずんだ隙間がある。外壁の一部には苔が付き、屋根の北側だけ色が濃い。
「兄上から、倉庫を見る許可はもらっています」
「レオン様は、私の仕事を妨げてよいとはおっしゃっていないはずです」
「妨げない。三袋を置く場所を見るだけ」
ユゴーはしばらく動かなかった。
背後では、次の荷車が近づいている。ここで扉を閉じたままにすれば、本当に作業が詰まる。
やがて彼は鍵束から一本を選んだ。
錠が重い音を立てた。
扉がわずかに開いた瞬間、冷たい空気が流れ出す。
埃の匂いではなかった。
湿った土。古い木。そこへ、熟れすぎた果実のような甘酸っぱさが混じっていた。
エレナは息を止めた。
盗まれた匂いではなかった。
生きた穀物が、ゆっくり死んでいく匂いだった。




