第2話 まだ刈っていない麦の持ち主
机に並んでいたのは、金貨ではなかった。
赤い封蝋の借用証書。黒い封蝋の穀物引渡し契約。税の支払期限を記した王国役人の通知。種籾を借りた村ごとの覚え書き。
紙ばかりが、クラリッサの家計部屋を占領していた。
夕食を終えたあと、エレナは母に連れられてここへ来た。アルベルトとレオンもいる。ソフィは壁際の小机で、燭台の芯を整えていた。
「半分近く、というのは本当なの?」
エレナは、昼に見た畑を思い浮かべながら尋ねた。
「正確には、収穫量が決まらなければ分かりません」
クラリッサは椅子へ座り、紐を解いた。
「ですが平年並みなら、自由にできない分が半分近くになる見込みです。凶作なら、割合はもっと増えます」
「今年は去年より取れるわ」
「取れることと、残ることは別です」
母の返事には迷いがなかった。
エレナは机の端を見た。木目が見えている場所は、ほんの少ししかない。これだけの紙が、まだ刈られてもいない麦を待っている。
「十三歳の娘に、ここまで見せる必要があるのか」
アルベルトが低く言った。
「知らないままなら、エレナはまた同じ質問をします」
クラリッサが答える。
「質問することが悪いと言っているのではない」
「なら、問いを投げたままにしないでください」
レオンが口を挟んだ。
兄はエレナの隣に椅子を運び、自分は立ったまま机へ両手をついた。
「どうせ明日には倉へ入り込む。止めるなら、何が危険か教えてからにした方がいい」
「兄上、私が必ず入り込むみたいに言わないで」
三人の視線がエレナへ集まった。
「……入るけど」
ソフィが小さく咳払いした。笑いを隠したらしい。
クラリッサはため息をついたが、紙束を閉じなかった。
「では、最初から説明します」
*
前年のリュネールでは、播種後に雨が降らず、刈り取り前に長雨が続いた。実入りの悪さと乾燥場の損失が重なり、種籾、崩れた倉庫の修理費、徴収を遅らせた農家の税まで、領主家が借金で埋めた。
「だから、ルカ・サレルから借りたの?」
エレナが赤い封蝋を指した。
「ルカ個人ではありません。ダルヴァ商会の地方代理人としてです」
クラリッサは契約書を広げた。文字の下に、穀物を表す袋の印が並んでいる。
「返済は銀貨だけではありません。収穫した麦を、決められた量と価格で渡します」
「先に売ったのね」
「そうです。去年の冬に、今年の麦を」
エレナは唇を噛んだ。
収穫前から別の持ち主がいる、という母の言葉がようやく形になった。
「私が徴収を待たせた」
アルベルトが言った。
「領民から取るべきものを取っていれば、ここまで借りる必要はなかった」
「けれど、取っていたら?」
エレナが聞いた。
父は答えなかった。
代わりにレオンが、机の隅にあった村別の記録を引き寄せた。
「トマの村では、冬を越す前に牛を売る家が出ていた。徴収を待たなければ、種まで食べた家もあっただろう」
「だが、家を危険にした」
「領民を残した信用まで、借金と一緒に捨てる必要はないでしょう」
レオンの声は穏やかだった。
「父上の判断は、金貨を増やさなかった。けれど、人は残した」
アルベルトは何も言わず、目元を押さえた。
エレナは父の横顔を見た。
善意だけでは家を守れない。だが、善意が何の役にも立たないわけでもない。トマたちが畑に立っているから、今年の麦がある。
数字に出ていないものを、ないことにしてはいけない。
「ほかに出ていく麦は?」
エレナが尋ねると、クラリッサは別の紙を開いた。
「領主分として倉へ入る前に、刈り取りと脱穀の働き手へ現物で支払う分があります。地代の取り決めも村ごとに違います。教会への分、種として残す分、使用人の冬の給与にする分も」
口頭だけでは、頭の中で麦袋が絡まり始めた。
エレナはソフィへ向いた。
「紙を三枚、もらえる?」
「三枚も使うと奥様に叱られそうなので、裏紙を三枚にします」
ソフィは既に紙束を手にしていた。
エレナは一枚目の上へ、畑から館へ向かう矢印を描いた。
「ここは、入る麦」
二枚目には、外へ向かう矢印。
「先に出る麦。税、借金、賃金、地代、種」
三枚目には、倉の形。
「全部出したあと、倉に残るはずの麦」
「字ではなく絵ですか」
「読めない人にも分かる方がいいでしょう」
ソフィは頷き、三種類の印をもっと簡単な形へ直した。穂、外向きの矢、四角い倉。
クラリッサが契約書を一枚ずつ読み上げ、レオンが村ごとの慣行を補い、ソフィが印の横へ数量を書いた。アルベルトは途中で、帳簿にない口約束を二つ思い出した。
同じ家で暮らしているのに、四人が知っている支払いは少しずつ違っていた。
ソフィは外向きの矢の一つを指で押さえた。使用人の冬の給与だった。自分の暮らしも、この紙の外にはない。それまでの軽い調子を消し、数量をもう一度確かめて書き直した。
夜が深くなる頃、三枚の紙は一枚の大きな流れになった。
「これなら、どれを遅らせられて、どれを遅らせられないか分かる」
レオンが言った。
クラリッサも、初めてわずかに表情を緩めた。
「少なくとも、見落としは減ります」
家の借金は消えていない。けれど、絡まっていた糸の端を一本つかんだような感覚があった。
エレナはもう一度、数字を最初から追った。
畑で見込まれる麦。先に渡す麦。種と給与。残るはずの麦。
そこで、指が止まった。
「合わない」
「何が?」
アルベルトが身を乗り出した。
「残るはずの量と、去年まで倉で数えた量」
クラリッサは別の帳簿を開いた。年ごとの受入量と、冬前の残量が記されている。その間に、『例年損耗』とだけ書かれた行があった。
理由の欄は空白だった。
「虫? 鼠?」
「それも含むのでしょう」
「濡れて捨てた分は?」
「含まれているはずです」
「運ぶ途中でこぼれた分は?」
「それも、たぶん」
たぶん。
母ほど家計を知る人の口から出た曖昧な言葉に、エレナは背筋が冷えた。
ソフィが去年の袋数を指で追った。
「七袋に一袋くらい、なくなっていますね」
「毎年?」
「記録がある年は」
レオンが帳簿を覗き込む。
「誰かが抜いているのか」
「まだ分からない」
エレナはすぐに首を振った。
盗難なら犯人がいる。だが、湿気、虫、鼠、袋の破れ、運搬中のこぼれ、記録されない現物払いが同じ欄へ入っているなら、一人を捕まえても麦は戻らない。
「明日の収穫から、麦が倉へ入るまで見たい」
「全部を?」
クラリッサが眉を上げた。
「いいえ。最初は少しだけ。同じ場所から出た袋を、途中で何度か量るの」
「忙しい時期だぞ」
アルベルトの懸念は正しい。
「だから止めない。働く人たちの邪魔にならない数にする。三袋くらい」
レオンが紙の三列を見てから、エレナを見た。
「護衛ではなく、記録係が必要だな」
「ソフィに頼みたい」
「既に帳面を用意しています」
ソフィは乾いた声で言った。
エレナは空白の行へ手を置いた。
鼠にしては多すぎる。
人にしては、あまりにも長く続きすぎていた。




